国立近代美術館

 時刻は12:00すこし前、予約しておいた美術館内のレストラン「ラー・エ・ミクニ(L'ART ET MIKUNI)」に参りましょう。中に入るとほぼ満席、つぎつぎとやって来る飛び込み客が入店を断られていました。予約をしておいてよかった。メニューは、パスタ・ランチ(2160円)、メニュー・ディ・ピッコロ(3500円)、メニュー・ディ・グランデ(5500円)、自称中産階級底辺層のわれわれとしては、メニュー・ディ・ピッコロが許容範囲ぎりぎりです。まあこういう高級レストランが美術館にあってもいいのですが、もうひとつ手軽に珈琲や軽食をいただけるカジュアルなカフェがあるべきではないかな。関係者各位の善処を期待します。

 まずは前菜、季節の根菜と苺のインサラータミスタ、リコッタチーズと一緒に。まるでカンディンスキーの絵のような美しい一皿、まず眼を喜ばせてくれます。さまざまな野菜の味が楽しめ、苺の濃密なドレッシングがきいています。
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 プリモ・ピアットは、北海道愛別町産王様エリンギ、ジャンボ舞茸、白アマトリチャーナの"フェデリーニ"。一番おいしかった一皿。二種のキノコの味、パスタの絶妙の茹で加減もさることながら、トマトを使っていないソース(白アマトリチャーナ)の複雑玄妙な味が素晴らしい。ただ惜しむらくは…量が少ない。せめてこの1.8倍は食べたいところです。
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 セコンド・ピアットは、真鯛のソテー、トピナンブールのクレマとクレソンのサルサ、ヴェルデと共に。真鯛はソースをかけずに、素材の味で真っ向勝負。皮のさくさくとした焼き加減が、舌を楽しませてくれました。
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 ドルチェは、イタリア産栗の焼きパンナコッタ、洋梨のジェラート添え。そしてコーヒーと小菓子でフィニート。
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 というわけで美味しうございました。窓のすぐ近くに桜並木があるので、春にまた来たいですね。
 ミュージアム・ショップで図録とクリア・ファイルとマグネットを購入。さて映画『否定と肯定』の上映開始まで一時間強あります。上映館は有楽町にあるので、移動にはそれほど時間はかからないでしょう。常設展を拝見して、時間に余裕があるようだったら、旧近衛師団司令部庁舎を保存活用した工芸館に寄ることにしました。まずは常設展「MOMATコレクション」を拝見いたしましょう。入口のところに展示作品案内のモニターがありましたが、安井仲治が撮影した「流氓ユダヤ 窓」という写真が展示されているようです。戦前に関西で活躍したアマチュア写真家で、十数年前に渋谷の松濤美術館で出会って以来ファンとなっています。
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 拙ブログのロゴ画像で使わせていただいておりますが、このユダヤ人たちは、杉原千畝在リトアニア領事の発行した通過ビザにより亡命し、神戸に一時滞在していた方々です。安井は丹平写真倶楽部の仲間である手塚粲(手塚治虫の父)らとともに彼らを撮影し、共同で「流氓ユダヤ」シリーズとして発表したそうです。なお、当時少年であった手塚治虫もこの時同行していたそうな。この作品との再会も楽しみです。

 エレベーターで4階にあがり、安井曽太郎の「金蓉」や高村光太郎の「手」といった日本近代美術の名品を堪能。オスカー・ココシュカ作「アルマ・マーラーの肖像」との再会も果たせました。谷中安規の版画作品も数点展示してあったのも僥倖でした。摩訶不思議でシュールな世界にしばし耽溺。
 小野忠重という版画家は不学にして存じ上げなかったのですが、ストライキやピケを描いた力強い作品が心に残りました。プロレタリア版画というジャンルがあるのでしょうか。記憶に留めておきたいアーティストです。なお、いま調べてみたところ、世田谷区阿佐ヶ谷に「小野忠重版画館」があるそうです。ぜひ訪れてみましょう。
 さて、期待していた安井仲治の写真ですが、展示されていませんでした。見落としたかな、それはないと思いますが。美術館のサイトによると、「難民」をテーマとした特集を行なうそうなので、そこで展示されるのかもしれません。それはさておき、この世界的なアポリアである問題を、美術とからめて考えてもらおうとする美術館学芸員諸氏の姿勢に見識を感じ、敬意を表します。
 おっとそろそろ映画館に行かねば、無念ですが工芸館は省かざるを得ません。2階から外へ出ようとすると、ガラスにイサム・ノグチの「門」というプレートが貼ってありました。どこだどこだ…もしや美術館前にある巨大な黒と赤の巨大な柱、あれがそうか。近くにいた学芸員の方に訊ねたところ間違いありません。これまでこちらは何回も訪れているのに、気づきませんでした。己の眼が節穴であることを恥じ、外へ出て撮影。そして前川國男設計の建物をあらためて写真におさめ、有楽町へと向かいました。

 本日の二枚です。
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# by sabasaba13 | 2018-01-17 06:36 | 美術 | Comments(0)

熊谷守一展

c0051620_6333469.jpg とある休日、山ノ神と二人で、竹橋にある国立近代美術館で「熊谷守一展」を、有楽町にあるTOHOシネマズシャンテで映画『否定と肯定』を見てきました。リュックサックに読みかけの『暴政 20世紀の歴史に学ぶ20のレッスン』(ティモシー・スナイダー 慶應義塾大学出版会)をほうりこみ、車中で読みながらまずは地下鉄東西線で竹橋へ。前川國男設計による美術館のシャープな外観を撮影して、それでは展覧会を鑑賞いたしましょう。おっとその前に、美術館内にあるレストラン「ラー・エ・ミクニ」の予約をしておかなければ。泣いて馬謖を斬る…じゃない、石橋を叩いて渡りましょう。美術館のサイトによると、美術館60周年を記して三國清三氏がプロデュースした、「芸術と料理」をテーマにフレンチとイタリアンを融合させたレストランだそうです。なるほど、「L'ART ET MIKUNI」、芸術と食事ということですね。受付で教えてもらった電話番号で連絡をとると、12:00に席をおさえることができました。

 実は私も山ノ神も、以前から守一さんのファンで、豊島区にある熊谷守一美術館を訪ねたり、彼の作品「眠り猫」を壁紙に使ったりしています。今回はかなり大規模な展覧会のようなので楽しみです。
 まずは近代美術館のサイトから、紹介文を引用します。
 熊谷守一(くまがい・もりかず 1880‐1977)は、明るい色彩とはっきりしたかたちを特徴とする作風で広く知られます。特に、花や虫、鳥など身近な生きものを描く晩年の作品は、世代を超えて多くの人に愛されています。
 その作品は一見ユーモラスで、何の苦もなく描かれたように思えます。しかし、70年以上に及ぶ制作活動をたどると、暗闇でのものの見え方を探ったり、同じ図柄を何度も使うための手順を編み出したりと、実にさまざまな探究を行っていたことがわかります。描かれた花や鳥が生き生きと見えるのも、色やかたちの高度な工夫があってのことです。穏やかな作品の背後には、科学者にも似た観察眼と、考え抜かれた制作手法とが隠されているのです。
 東京で久々となるこの回顧展では、200点以上の作品に加え、スケッチや日記などもご紹介し、画家の創造の秘密に迫ります。
 明治から昭和におよぶ97年の長い人生には、貧困や家族の死などさまざまなことがありました。しかし熊谷はひたすらに描き、95歳にしてなお「いつまでも生きていたい」と語りました。その驚くべき作品世界に、この冬、どうぞ触れてみて下さい。
 はい、触れてみましょう。展覧会は三部構成となっています。

【闇の守一:1900-10年代】 岐阜県恵那郡付知(つけち)村に生まれた守一は、1897(明治30)年に上京して、東京美術学校西洋画科撰科に入学し、黒田清輝、藤島武二らの指導を受けまず。この時期に描かれた絵は、後年の作風からは想像できないほど暗いものです。ロウソクのほのかな光に照らされて闇の中にかすかに浮かぶ自分を描いた「蝋燭」(1909)。線路に飛び込んで自殺した女性を描いた「轢死」(1908)にいたっては、絵の具の劣化もありますが、すべては闇の中に溶暗して何が描かれているのか判然としません。轢死体をテーマにすること自体も異様ですね。

【守一を探す守一:1920-50年代】 故郷に戻って木材運搬の仕事をしたあと、1915(大正4)年にふたたび上京し、画業に専念します。この時期の作品は、闇の世界から脱け出して、フォーヴィズムを思わせる荒々しいタッチで風景や裸婦を描いています。そしてユーモアをたたえた明晰なかたちと色という、独自の作風がじょじょに立ち現れていくのがわかります。もっとも心を打たれたのが「たまご」(1950)という絵です。茶一色を背景に、丸盆の上端の並ぶ四つの卵。彼には五人の子どもがいましたが、二人は早逝、このころ長女がなくなったので、互いを抱きしめるように生きる熊谷一家を表現したのでしょうか。色・構図・かたちがおりなす、ユーモアと緊張感にみちた小世界がみごとに表現されています。三枚の伸し餅と柄のとれた菜切り訪朝をシンプルに描いた「のしもち」(1949)もいいですね。解説によると、三個の餅を塗る際の筆の方向がすべて違うそうです。よく見ると、なるほどその通り。奥行きや立体感を表現するために、こうした細かい技も駆使しているのですね。このコーナーでは水墨画と書も展示されていましたが、「かみさま」「ほとけさま」「からす」「すゞめ」など、力が抜けた闊達なひらがなは魅力的でした。「蒼蠅」という書もすごい。普通、こんな言葉は選ばないと思いますが、さすがは守一さん。まるで蠅のように元気に飛び回るような字体が印象的です。生き2017(箱根・テニス部・富士宮・焼津・牧野記念庭園・小石川後楽園・京都・目黒川の桜・善福寺川緑地の桜・相模湖プレジャーフォレスト・長野の桜・三鷹・校内大会・長野・合唱コンクール・共謀罪反対集会・鎌倉の紫陽花・山城博治講演会・大平台の紫陽花・祇園祭・吉田博展・五山送り火・美瑛・記念祭・聖心女学院/豊多摩刑務所・体育祭・烏山神社・沖縄実踏・国会包囲大行動・富士山大周遊・渡良瀬渓谷・京都錦秋・歴博・旧朝倉家住宅・熊谷守一展・松輪サバ)とし生けるものへの、彼の愛情と興味がひしひしと伝わってきます。また貧窮のうちに餓死した長谷川利行が描いた、力強い「熊谷守一像」(制作年不詳)も展示されていました。二人は交流があったのですね、そういえば上野不忍池にある「利行碑」の揮毫も守一さんでした。
 このコーナーでは、彼が記した雑記帳も展示されていましたが、その内容が興味深い。カメラのレンズの焦点距離や現像液の成分、混色・補色など色彩の理論、音の振動数の計算など、科学者としての一面も有していたのですね。

【守一になった守一:1950-70年代】 明晰とユーモアにあふれたモリカズ・ワールドが全面開花した時期、もう言うことはありません。数多の名作を前に、眼を楽しませていただきました。「美の巨人たち」によると、52歳から亡くなるまでの45年、豊島区千早にある自宅(現熊谷守一美術館)からほとんど外出をしなかったそうです。そして庭の小動物や草花と向き合いながら、絵を描きつづけたのですね。猫、虻、蟻、蛙、地蜘蛛、亀、稚魚、蜻蛉、蝶、蜂、ハルシャ菊、かたばみ、いぬのふぐり、山茶花、げんげ、松虫草、向日葵、椿、彼岸花、水仙、雨垂れ、雪、池の水、霧、土塊、太陽、そして月。
 身近でありふれた生命と自然への敬愛、それと共にあることの喜びが、シンプルなかたちと色をもって伝わってきます。私が一番好きなのは「眠り猫」(1959)ですが、単純な円だけで描かれた「雨滴」(1961)も素敵です。ここまでくると、具象でも抽象でもなく、ただ"生きるよろこび"が画面に踊っているよう。出典は失念したのですが、彼が言ったとされる言葉です。
 絵を描くより、ほかのことをしているほうがたのしいです。欲なし、計画なし、夢なし、退屈なし、それでいていつまでも生きていたいのです。石ころ一つそばにあれば、それをいじって何日でも過せます。(熊谷守一)
 絵を見る喜びに包まれた至上のひと時でした。

 余談ですが、沖田修一監督・山崎努主演で、熊谷守一を描いた映画『モリのいる場所』が近々公開されるそうです。これは愉しみ、ぜひ見に行きましょう。
# by sabasaba13 | 2018-01-16 06:34 | 美術 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 63

 もうひとつ。格差社会による不安とストレス、そこから逃避するための集団への埋没と弱者への差別・迫害は日本だけの減少ではないということです。世界史から学ぶことも重要ですね。いくつか例を挙げましょう。
人生と運命』(ワシーリー・グロスマン みすず書房)
 反ユダヤ主義は、自らの不幸と苦悩の原因を究明する力のない国民大衆の意識の低さの表れである。無知な人々は、自らの大きな不幸の原因が国家機構や社会制度にではなくユダヤ人にあると見る。(第2巻p.262)

『人間の崩壊 ベトナム米兵の証言-』(マークレーン著 鈴木主税訳 鶴見良行解説 合同出版)
 [ジェームズ・D・ヘンリーの証言] だれについても口実はまったく存在しない。人種主義がその大部分を占めている。つまり、そのほとんどは、人種主義のせいだと思うんだ。純粋かつ単純な人種主義だ。ベトナム人は敵ではないからして、グックなのだ。彼らは白人ではなく、ただのグックなのだ。だれでも彼らよりは偉く、二等兵さえもそれより階級が上なのだ。彼らはちっぽけで、遅れていると考えられているが、それでも彼らは私にはできない多くのことをやってのける能力を持っている。とにかく、その理由のおおかたは人種主義なのだ。(p.178)

『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史』(オリバー・ストーン&ピーター・カズニック ハヤカワノンフィクション文庫 早川書房)
 [アフガニスタンで戦った後に無許可離隊した20歳の兵士の証言] 誓ってもいいが、俺はやつらがぜんぜん人間とは思えなかった。俺のような若くて熱烈な「ディック」-dedicated infantry combat killer(ひたむきな歩兵実戦殺人者)の略だよ-を仕立て上げる最善の方法は単純で、それは人種差別的な洗脳の効果だ。ロスかブルックリン、でなければテネシーの田舎町からでも、頭の空っぽなやつを連れてくる。今どき、そういうやつはアメリカには掃いて捨てるほどいるから。俺は、例の落ちこぼれゼロ運動の産物の一人だったのさ。ともかく、そういう間抜けを連れてきて、縮み上がらせ、心をずたずたにし、いっしょに苦しんでいるやつらと仲間意識や同志愛を育てさせ、人種差別のナンセンスで頭をあふれ返らせる。アラブ人やイラク人やアフガニスタン人はみんなハジ(イスラム教徒)だ、ハジはおまえたちを憎んでいる、ハジはおまえたちの家族を傷つけたがっている、ハジのガキどもは暇さえあれば物乞いをしているから最悪だ…という具合に。やたらに有害で馬鹿げた、ただのプロパガンダだが、俺たちの世代の兵士を育てるのにどれほど効果的だったか知ったら驚くだろう。(第3巻p.418~9)
 そして今、トランプ政権の誕生やヨーロッパにおける極右勢力の伸長が物語っているように、格差社会による不安とストレス、そこから逃避するための集団への埋没と弱者への差別・迫害が、世界的な現象になっています。テロリズムと難民の増加も、国際的な格差の広がりと絶望的な貧困という視点から理解できると思います。『丘の上のバカ ぼくらの民主主義なんだぜ2』(高橋源一郎 朝日新書594)の中に次の一文がありました。
 パリ同時多発テロが起こった後、ツィッターに、次のことばを大きく刻みつけた人がいるのを見つけた。…
 「Don't pray, think」 (祈る前に、考えて)
 凄惨なテロの後、おびただしいことばが、まずネットの上に現れた。怒り、哀しみ、当惑、混乱、懐疑。死者たちを悼む声、「イスラム国」への憤りの声、自分たちの無力さを嘆く声、あるいは、こんな世界にしてしまった真の原因を探ろうという小さな声。(p.57)
 こんな世界に、こんな日本にしてしまった真の原因を考えようと呼びかける小さな声、その声にハーモニーの不協和音として唱和しましょう。pray, and think.

 それでは最後に、ふたたび映画『ハンナ・アーレント』から引用して、キーボードを叩くのを終えようと思います。長い期間でしたが、ご通読していただきありがとうございました。
 ソクラテスやプラトン以来、私たちは"思考"をこう考えます。自分自身との静かな対話だと。人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。過去に例がないほど大規模な悪事をね。私は実際、この問題を哲学的に考えました。"思考の風"がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう。

# by sabasaba13 | 2018-01-15 07:45 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

人はここまで卑劣になれるのか

 と思わず嘆息してしまいました。ちなみに「卑劣」とは、今話題の広辞苑(ただし第二版)の定義によると「品性・行為などのいやしく下劣なこと」です。

 さてその嘆息の理由ですが、『週刊金曜日』今週号(№1167 18.1.12)に掲載された三つの記事にあります。

 まず一つ目は、「名護市長選に向け、菅・二階両氏が沖縄入り 繰り返される自民の"土建選挙"」という、横田一氏による記事です。
 名護市長選(2月4日投開票)で自民党が"詐欺師紛い"の争点隠し選挙と露骨な土建選挙に再び乗り出した。昨年12月29日に菅義偉官房長官、今月4日には二階俊博幹事長が沖縄入りして自公推薦候補の渡具知武豊元市議や支援者らと面談。公共事業推進(予算増加)を強調しながら、最大の争点である辺野古新基地建設については「米海兵隊の県外・国外移転を求める」と基地反対派と同じ政策を掲げる一方、移設工事は粛々と進める二枚舌的な対応をしているためだ。
 沖縄北部の名護市にまで足を運んだ菅氏が訴えた市長選向けの目玉事業が、総事業費が約1000億円の「名護東道路」(8・4キロメートル)。工事現場を視察し、未完成区間(2・6キロメートル)の1年半の完成前倒しとさらなる延伸調査を関係省庁に指示したことを明らかにした。
 露骨で卑劣な土建選挙とはこのことだ。慢性的渋滞に悩まされる市民の弱みに付け込み、「道路整備を早くしてほしければ、自公推薦候補に投票をしろ!」と迫っているようにみえる。(p.4)
 二つ目は、「憲法を求める人びと 5」の中で、辺野古や高江での米軍基地反対運動の中心となって尽力されている山城博治さんについて、佐高信氏が書いた記事です。
 弾圧は警視庁が入ってきてから暴力的になった。沖縄県警とはある種の信頼関係があったのだが、それが断ち切られて山城は152日間も不当拘留される。
 真冬に靴下の差し入れも認められなかった。その理由として留置所は「靴下を口の中に押し込んで自殺する可能性があるから」とバカな説明をした。
 それで弁護士で代議士の照屋(※寛徳)は内閣に質問主意書を出す。靴下の差し入れを制限している憲法違反の留置所、拘置所は全国にどれだけあるのかと問うたのである。答は名護署だけだった。そして、内閣から回答がおりてくるその日の朝から、靴下の差し入れが認められるようになったのである。
 安倍政権の卑劣さ、狡猾さがどれほどのものかわかるだろう。その中心に官房長官の菅義偉がいる。(p.38)
 そして三つめは、沖縄への偏見をあおる放送をゆるさない市民有志呼びかけ人である川名真理氏が書いた記事です。
 大阪の機動隊が基地反対運動に携わる人々を「土人」と呼んだことを『差別と断定できない』と閣議決定するなど政府自体が沖縄差別に加担している。偏見が広まると人々は簡単にウソを信じてしまいます。菅(義偉)官房長官の『迷惑料』の話(注)も印象操作の典型です。基地建設に反対する人々を貶めようとしています。事実に基づかない情報が横行すれば言葉は無力になり、議論が成り立たなくなります。これでは民主主義的な国家など成り立ちません。

(注) 昨年12月6日、菅官房長官が記者会見で、辺野古など3区に支出する直接振興費について「反対運動の違法駐車や交通量の増加で騒音が激しくなったことに対応するのは自然なこと」と、運動の「迷惑料」とも受け取れる発言をしたことを指す。(p.41)
 そう、辺野古新基地建設に反対する人びとに対する、官憲の卑劣な行為の数々です。自治体の財政難につけこみ、金をちらつかせて基地を受け入れさせようとする。(「死ね死ね団のテーマ」に♪金で心を汚してしまえ♪というフレーズがありました) 真冬に靴下をはかせないという下劣な嫌がらせをする。「土人」という差別的な言辞を容認する。反対運動は迷惑行為だという印象操作を行なう。やれやれ、人はここまで卑劣になれるのか。辺野古に新基地をつくるためには、なりふりかまわずにありとあらゆる手を使うという、国家権力の強烈な意志を感じます。その背景には、将来的に新基地を自衛隊が使いたいという思惑もあるのでしょうが、国家権力に抗う者は潰すという考えがより強くあるのだと思います。それにしても、ここまで卑劣な手段を使うとは…恐れ入谷の鬼子母神です。中でも後二者は「いじめ」ではありませんか。教育現場での「いじめ」をなくすために政府は道徳の教科化を進めていますが、新基地反対運動への「いじめ」をしている方々がそう唱えても説得力は皆無です。クレヨンしんちゃん風に言えば、「おめーにいわれたかねーよ」。隗より始めよ。
 ちなみに文部科学省による「いじめ」の定義はこうです。
 当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。
 こうした卑劣な行為の責任はもちろん安倍上等兵にありますが、菅義偉官房長官の存在も注目すべきですね。いろいろな報道やルポルタージュを読んでいると、昨今の権力の暴走に、この御仁が大きく関与していることがわかります。例えば『週刊金曜日』(№1166 17.12.22/18.1.5)の対談「"忖度メディア" 再生への処方箋 幹部が安倍首相とメシ食っても、横でつながれ!で、室井佑月氏と古賀茂明氏が、こういう話をされています。
【室井】芸能人やテレビ局の人は今、菅さんとかに"おもてなし"されて、どんどん右に変わっちゃうから、もう寂しくて。仲のいい人がみんな消えていくからさ。
【古賀】それが菅さんの仕事だから。朝昼晩、夜は2回のこともあるらしい。ほとんどはテレビに出てる人と会食してると聞きました。それも、ちょっと政権に批判的だなって思う人と。そこで「先生のような方に是非お力をお貸しいただければ」と言う。これ、実は、「仕事をやるぞ」という意味なんですよね。
【室井】「大学教授」とか、「ワーキンググループメンバー」とか。偉そうな肩書がつくと、芸能人はうれしくてなびいちゃうよね。浮き草稼業だから。『朝日新聞』の曽我豪編集委員たちも相変わらず、安倍首相とご飯に行ってるし。行くな、っつうの。(p.19)
 東京新聞の望月衣塑子記者は、『新聞記者』(角川新書)で、次のように書かれています。
 ベッドでネットを見ていると、翌日に発売される『週刊文春』が、菅官房長官本人に関する疑惑を掲載することがわかった。
「『ばれたら面倒』 菅官房長官が政治資金公開を隠蔽指令」
 詳細は割愛するが、記事が事実なら政治資金規正法違反や国家公務員法の守秘義務違反に問われかねない大問題だ。(p.180)

 …500回以上の官邸会見を見続けてきた南記者によれば、会見で手を挙げているのに、内閣記者会の記者が質問を打ち切るという光景は、いまだかつて見たことがないという。
 なぜ同じ記者が打ち切るのか…
 信じられない思いで取材してみると、おどろくような事実がわかってきた。
 8月下旬、菅長官は幹事社を通じて菅番の担当記者に、会見時間を短縮したいとの趣旨を打診してきたという。番記者は「時間制限はできない」と突っぱね、要求は呑んでいないというが、あと「〇人」「あと〇回」と官邸の広報官が質問を打ち切っているのを認めているのが現状だあ。
 これは、メディアの自殺行為ではないか。
 あまりの出来事に呆然とし、愕然とした気持ちで涙があふれそうになった。日本のメディアの限界なのかと足が震えるほどの衝撃を受けた。
 さらに、事前に質問を渡すことも本格化しているように思える。この手法は以前からあり、官房長官会見に限らないが、最近は菅長官が手元のペーパーを見ながら答えることがほとんどになってきた。これをシャンシャン会見といわずになんというのか。
 以前私は、前川事務次官に対する「教育者としてあるまじき行為…」という非難の言葉までも菅氏が下を向いて発していたので、思わずこう聞いてしまった。
 「事前に準備されたペーパーを読み上げているのですか」
 すると菅氏が怒りをあらわにこういった。
 「あなたにそんなことを答える必要はない」
このごろは最初から手を上げてもぜんぜん指名してもらえない。挙手しているのが私しかいなくなると、やっと当てられるという状況だ。(p.185~7)
 こういう御仁が、官房長官という重責を務めているのが日本の現状です。メディアを懐柔し/屈服させ、国家権力に抗う者に様々な嫌がらせ・いじめをする、あるいは彼らを貶めるための印象操作を行なう、権力にすり寄る者には金をばらまき、権力にとって都合の悪い情報は隠す。ほんとうに卑劣ですね。何度でも言いますが、こんな御仁が官房長官を務めるこんな政府を支持する方々が多いのは何故なのでしょう。

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2018-01-14 09:30 | 鶏肋 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 62

 やれやれ、立ち眩みしてしまいます。かつて虐殺・犯罪・いくさを生みだした文化(制度・社会構造・価値観)が十全に払拭されていないということは、また起きる危険があるということです。
 それでは、私たちは、私は、どうすればよいのか。まず過去の過ちを認め、それを生みだした文化の存在を認めて、眼を逸らさずに向き合うことから始めるしかないでしょう。これに関して、大沼保昭氏の言葉に勇気づけられました。
 過ちを犯したからといって卑屈になる必要はない。過ちを犯さない国家などというものは世界中のどこにもないのだから。しかし、過ちを犯さなかったと強弁することは自らを辱めるものであり、私たちの矜持がそうした卑劣を許さない。私たちの優れた到達点を率直に評価し、同時に過ちを認めるごく自然な姿をもつ国家こそ、私たちが愛し誇ることのできる日本という国ではないか。私はそう思う。(「日本の戦争責任と戦後責任」 『国際問題』 501号 2001年12月号)
 ふたつめは、大沼氏も指摘されているように、日本に限らず国家は過ちを犯すものだと認めること。そして安易に国家と自分を同一視・同一化しないことです。国家とは悪辣な行為をしばしば行なうろくでもない存在であり、程度の差は少々あるとしても日本もアメリカも中国も韓国も北朝鮮もフィリピンもヴェトナムもタイも(以下略)似たようなものだと、醒めた目で見つめ距離を置くことが肝要だと思います。さもないとまた"スパイクをうちこんだ国家という車輪の下敷きに"されてしまいます。(『彼らは自由だと思っていた -元ナチ党員十人の思想と行動-』 M・マイヤー 未來社 p.184) いくつかの言葉を紹介しましょう。
永続敗戦論』(白井聡 太田出版)
 このように、国家の行動というレベルで日ソ両国の行なってきたことを振り返るならば、「どっちもロクでもない」としか論評の仕様がない。一般的に言って、国家の振りかざす「正義」なるものが高々この程度のものであることは、何度でも肝に銘じられるべきである。(p.87)

「私の個人主義」(『漱石文明論集』 岩波文庫)
 …国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見える事です。元来国と国とは辞令はいくら八釜しくっても、徳義心はそんなにありゃしません。詐欺をやる、誤魔化しをやる、ペテンに掛ける、滅茶苦茶なものであります。だから国家を一団と見る以上、よほど低級な道徳に甘んじて平気でいなければならないのに、個人主義の基礎から考えると、それが大変高くなって来るのですから考えなければなりません。だから国家の平穏な時には、徳義心の高い個人主義にやはり重きを置く方が、私にはどうしても当然のように思われます。(p.137)

 最高の愛国心とは、あなたの国が不名誉で、悪辣で、馬鹿みたいなことをしている時に、それを言ってやることだ。(ジュリアン・バーンズ)

# by sabasaba13 | 2018-01-13 06:54 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

言葉の花綵171

 一個人による他の個人の搾取が廃止されるにつれて、同じように一国の他国に対する搾取も廃止される。国民の内部における階級の対立が消滅するとともに、国民相互の敵対的立場も消滅する。(マルクス、エンゲルス 『共産党宣言』)

 ひたすら忍耐強く、末来を信ずればいいのです。わたしは数十年を-数世紀さえも-先んじて生きることに慣れています。わたしは胸をいためる必要はありません。人類は遅々としてではありますが、やはり前進しているからです。(ロマン・ロラン 『ピエールとリュース』)

 この新しい一千年期を迎えるにあたってお互いぜひとも日本国憲法によって導かれていこうではないか。世界平和と公正とを目指すこの73語から成る金言は、第2次世界大戦の業火と大量殺戮の中から不死鳥のごとくによみがえったものなのである。(チャールズ・M・オーバビー)

 ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい。(ポール・ニザン 『アデン・アラビア』)

 青春など若いやつにはもったいない。(unknown)

 求めない- すると 人の心がわかりはじめる だって、利害損得でない目で見るからだ (加島祥造)

 It's just the beginning まだこれからだ (香港・雨傘運動の最後のバリケードに貼られたバナー)

 未知の相手の身になって考える。(清水幾太郎)

 他者に対して開かれたフェアプレイの共存的競争こそ、リベラルな民主主義の基本条件である。(久野収)

 若者よ、自由であれ、賢くあれ、そして蛇のごとく疑い深くあれ。(山田洋次)

 弾圧は闘いを生み、闘いは友を呼ぶ。(瀬長亀次郎)

 勝つ方法はあきらめないこと。(辺野古で掲げられたスローガン)

 お前たちの戦争、我らの死者たち
 Vuestra Guerra, nuestros muertros. (スペインの民主勢力が掲げたスローガン)
# by sabasaba13 | 2018-01-12 06:29 | 言葉の花綵 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 61

 それではかつて虐殺を、そして戦争を生みだした制度・社会構造・価値観は払拭されたのでしょうか。強大な力を持ちながらも、結果責任や説明責任を果たそうとせず、不都合な事実を隠蔽する国家権力。他国・植民地・弱者を犠牲にした飽くなき利潤追求と経済成長。それと通底する人権の軽視と差別。国家=民族や中間集団に個人が埋没し、思考や判断を委ねてしまう集団主義。思考することを億劫がる反知性主義。組織的な残虐性。モラル・バックボーンの欠落。

 残念ながら十全には払拭されていないと結論せざるをえません。あるものは隠微な形で、あるものはおおっぴらに、今も息づいていると考えます。とても網羅はできないので、思いつくままにいくつか挙げてみましょう。無責任かつ隠蔽を体質とする国家権力の有り様の例は数多ありますが、特定秘密保護法の制定と福島原発事故を挙げればよいでしょう。また関東大震災時の虐殺を、いまだに調査せず謝罪もせず補償もしないこともその一例ですね。弱者を犠牲にした経済成長路線も、水俣病などの公害、格差社会、福祉の切り捨て、ブラック企業、TPPへの固執といった現象を見る限り変更されていません。人権の軽視と差別も徐々に改善されてはいますが、いまだ不十分でしょう。『戦争の克服』(阿部浩巳・鵜飼哲・森巣博 集英社新書0347)の中で、森巣氏はこう指摘されています。
 ここ数年で、国連の人種差別撤廃委員会から人種差別にかかわり九回も勧告を受けた先進国は、日本だけです。驚くべきことに、日本の新聞は、それを数行の記事で済ませちゃう。テレビにいたっては、まったく報道しない。だから多くの日本人は、日本にはレイシズムがないと思っている。とんでもない話ですよね。(p.114)
 集団主義については、国家による個人への締め付けと抑圧は多少弱体化しましたが、学校と会社という中間集団によるそれはさほど減じていないと思います。「社畜」「ブラック企業」「いじめ」「体罰」といった現象も、中間集団への個人の埋没と隷従という視点から理解できます。これは組織的残虐性と関連するでしょう。反知性主義についても、不平等や階層間格差の拡大の是認、個人の自由の制限と国家による秩序管理の強化、軍事力による抑止重視、歴史修正主義や排外主義の主流化といった自民党の政策に人びとの支持がある程度集まっている現状を見ると、相当に浸透しているようです。(『右傾化する日本政治』 中野晃一 岩波新書1553  p.177~8) モラル・バックボーンの欠如については、原発事故によって故郷を追われた10万人の被災者の方々を思い起こしましょう。中には職業を無くし、家族がバラバラにされ、健康不安をかかえ、先の見えない生活に疲弊している方も覆いのですが、「復興のさまたげになる」「風評被害になる」とのことで、健康被害も口にできません。
# by sabasaba13 | 2018-01-11 06:25 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

『私が殺したリー・モーガン』

c0051620_627361.jpg えっ、リー・モーガンを描いた映画『私が殺したリー・モーガン』が上映されている! 驚き桃の木山椒の木、狸に錻力に蓄音機ですね。若き名ジャズ・トランぺッターとして大活躍をしますが、妻に射殺されるという悲劇的な最期をとげたリー・モーガン。「キャンディ」「ザ・サイドワインダー」「ソニック・ブーム」という三枚のCD、サイドマンとして参加した「サンジェルマンのジャズ・メッセンジャーズ」「ケリー・グレイト」「ブルー・トレイン」を持っていますが、ときどきその輝かしい音色とエキサイティングなアドリブに耳を傾けます。その彼の死に至るまでの人生を描いたドキュメンタリー映画、さっそく山ノ神を誘ってアップリンク渋谷に見に行きました。
 監督はカスパー・コリン、公式サイトから紹介文を引用します。
 今なお深く傷を遺す、「ジャズ史上最悪の悲劇」の愛と哀しみに迫る。
 若干18歳で名門ブルーノート・レコードからデビューするなど稀なる才能で駆け上がったスターダム。ドラッグでの転落。二人三脚で救い出したひと回り歳上の女性ヘレンとの出会い。そんな二人に対するミュージシャン仲間からの温かい眼差し、評価。その関係を崩壊させる新恋人の登場と凶行―。
 銃と運命の引き金を引いた内縁の妻ヘレン・モーガンが最晩年に残した唯一のインタビューに、友人や関係者たちの証言を加え、リーとヘレンをとりまく周囲の人間模様と変化が徐々に明らかになる。
 ヘレン・モーガンが通う市民学校の教員が、事件の経緯に興味をもち彼女にインタビューをし、テープに録音します。その直後に彼女は亡くなってしまうのですが、そのインタビューを軸に、仲間のジャズメンや知人のインタビュー、実写フィルムをまじえながら二人の人生を再現していきます。まずインタビュイーが凄い、ビリー・ハーパー、ジミー・メリット、ベニー・モウピン、ウェイン・ショーターといった錚々たるジャズメンが登場します。ウェザー・リポートのファンなもので、ちょっとお腹が出ていたとはいえ、ウェイン・ショーターが登場したときには、風景が涙で揺すれてしまいました。
 十代にして婚外子二人を出産し、苦労に苦労を重ねてようやく自立したヘレン。若干18歳でディジー・ガレスピーに見出され、同年ブルーノート・レコードより『Lee Morgan indeed!』でデビューし、クリフォード・ブラウンの再来とも呼ばれたリー。しかし彼は麻薬に溺れていきます。母と息子ほど歳が離れた二人は知りあいとなりますが、とある厳冬のニューヨーク、リーが突然ヘレンのもとを訪れます。麻薬を買うためにコートを質に入れたので、ジャケットしか着ていないボロボロのリーを見て、ヘレンは救いの手を差し出します。さまざまな援助やマネージャーとしてのサポートなどで、リーは立ち直っていきました。ウェイン・ショーターが、「彼女は、ミュージシャンとして、人間として彼を立ち直らせた」という言葉に胸がジンとしました。
 しかし、リーはジュディス・ジョンソンという女性と逢瀬を重ね、彼の心はヘレンから離れていきます。そして1972年2月18日、NYのジャズクラブ「スラッグス」での演奏中、その2ステージ目と3ステージ目の合間の休憩時間に、ヘレン・モーガンが彼を拳銃で撃ちます。大雪のため救急車の到着が遅れ、ベルビュー病院に移送されましたが間もなく死亡が確認されました。

 何とも悲しくやるせない話です。殺人を擁護する気はありませんが、我が子のようにリーを愛したヘレンの気持ちが痛い程伝わってきます。せめてもの救いは、彼の素晴らしい演奏が、録音や画像で数多く残されていることです。いま、「ソニック・ブーム」を聴きながらキーボードをたたいていますが、輝かしい音色、天馬空を駆けるようなハイトーン、泉のように湧きいでるメロディに耳を奪われます。映画に挿入される実写フィルムにも躍動的な演奏、子どものような笑顔、お道化た仕草が映しだされ、心躍りました。

 リー・モーガンという素晴らしいミュージシャンがいたことを、そして彼を愛したヘレン・モーガンという女性がいたことを教えてくれる映画です。

 なお映画のなかで、ジミー・メリットが作曲した「アンジェラ」という曲が演奏され、黒人解放運動のために逮捕されたアンジェラ・デイヴィスという女性を激励するためにつくられたという説明がありました。不学にしてこの女性について知りませんでしたので、『コトバンク』の「20世紀西洋人名事典」で調べてみました。
アンジェラ・デイヴィス Angela Yvonne Davis 1944.1.26 -
 米国の黒人政治運動家。アラバマ州バーミングハム生まれ。10代から母親と共に公民権運動に参加する。1961年にブランダイズ大学で学んだ後に、パリ、ドイツに留学した。帰国後'68年に米国共産党に入党。'69年UCLA哲学科助教授となるが共産党員であることを理由に解任される。'70年に黒人運動団体ソルダット・ブラザース事件で逮捕されるが、国際的な支援運動が実り、無罪判決を得る。'80年に共産党から副大統領候補として出馬をしている。'85年には国連婦人の10年ナイロビ会議に出席した。
 アフリカ系アメリカ人への差別、その結果としての貧困が、この悲劇の背後にあったと暗示しているのかもしれません。でも麻薬には手を出してほしくなかった。ビリー・ホリデイがこう言っています。
 麻薬をやって、ジャズがうまくなるはずがない。もしそんなことをいう先輩がいたら、麻薬についてビリー・ホリデイ以上に、何を知っているかとききただしてみるといい。
 余談です。若きジャズマン菊池オサムの青春を描いた傑作漫画『BLOW UP !』(細野不二彦 小学館)第2巻session 3「DESERT MOONLIGHT」にリー・モーガンが登場します。彼が雇われているキャバレーを経営する暴力団の代貸・砂田が銃で撃たれて入院、その彼に菊池オサムがプレゼントしたのが「ザ・ランプローラー」です。砂田はハーモニカでよく「月の砂漠」を吹いていたからですね。また第2巻session 10最終話「EVERY TIME WE SAY GOOD-BYE (Take 2)」ではオサムの良きライバルである混血青年・油井大明(ts)が恋人に射殺されたる場面が出てきます。リー・モーガンの悲劇を意識したのかもしれません。
# by sabasaba13 | 2018-01-10 06:29 | 映画 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 60

 そして最後に考えたいのは、当時の人びとが、なぜこうした虐殺を、そしてそれを生みだした制度・社会構造・価値観を許容してしまったのかという問題です。

 まず、自らの不幸と苦悩の原因が国家機構や社会制度にあるということを見抜けなかったことが挙げられます。既述のように、その鬱憤を晴らすために、集団に埋没して、弱者を差別・迫害したわけです。きちんと考え抜いて、議論をして、社会を改革して正当な分配を実現すれば、その不幸と苦悩も多少は軽減されたことと思います。しかし、国家権力によって、そうしたことを考えさせない教育、実行させない制度(ex.軍隊・警察・法律・裁判…)が網の目のようにはりめぐらされ、大きな困難が伴いました。そして民衆自身が考えることを怠り、面倒くさがり、思考や判断を集団や権威に丸投げしてしまったことも見逃せないと考えます。楽ですから。『日本の百年6 震災にゆらぐ』(今井清一 千曲学芸文庫)で知ったのですが、里見弴が書いた小説『安城家の兄弟』の中に次のような一節があるそうです。(p.168~70)
 …翻って、狭い中の口の三和土に押し並んで立っている二人の自警団的人物はというに、これはまた、大杉についても、甘粕についても、二人のあいだに起こった事件についても、自分自身のあたまで、時間で言えば一分とつづけて、とっくり考えてみたことなどないにきまっている人間だった。何もこれは、この場合に限ったことではなく、じたい民衆というものが、群り動く性質をもっていて、ものの感じ方が、凡庸な常識一点ばりに陥り、たちまち『輿論』というものを生みだすのだ。それを思うと、雨に濡れ、護謨底足袋を泥だらけにして、目の前に突ッ立っている、この『輿論』の手先どもも、馬鹿げて見えこそすれ、憎むまでの気にはなれなかった。
 そして「どんな事態になっても、人間にはしてはならないことがなければならない」(『レイテ戦記』 大岡昇平)という道義性が欠けていたということ。夏目漱石の恩師マードック先生言うところの"モラル・バックボーン"ですね。(『漱石文明論集』 岩波文庫 p.222) あるいは加藤周一氏の表現を借りれば、"目の前で子どもを殺されたら怒る能力"です。(『歴史の分岐点に立って 加藤周一対話集5』 かもがわ出版 p.153~4) それを支える想像力や人間的な感情が、なぜ麻痺してしまったのか。わかりません。わかりませんが、政治学者ハンナ・アーレントが言う"悪の凡庸さ"とは、このことではないかと思います。映画『ハンナ・アーレント』から、彼女のセリフを引用します。
 彼のようなナチの犯罪者は、人間というものを否定したのです。そこには罰するという選択肢も、許すという選択肢もない。彼は検察に反論しました。何度も繰り返しね。"自発的に行ったことは何もない""善悪を問わず自分の意思は介在しない""命令に従っただけなのだ"と。こうした典型的なナチの弁解で分かります。世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪です。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。そしてこの現象を、私は"悪の凡庸さ"と名づけました。

# by sabasaba13 | 2018-01-09 06:27 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

ユージン・スミス展

c0051620_8182516.jpg ユージン・スミス、その名を聞くと心が震えます。常に弱者や市井の人々の側に立ち、現実を写しつづけたカメラマン。以前に「gallery bauhaus」で彼の展覧会を見たことがあるのですが、生誕100年を回顧する大規模な展覧会が東京都写真美術館で開かれていると知り、山ノ神を誘って見に行きました。
 JR恵比寿駅で降りて、十分ほど動く歩道を歩いていくと、美術館に到着です。コンコースの壁に、ロベール・ドアノー、ロバート・キャパ植田正治の写真が大きくプリントされているのが印象的です。
まずは美術館の公式サイトから、紹介文を引用します。
生誕100年 ユージン・スミス写真展
 W.ユージン・スミス(1918-1978)は、写真史上、もっとも偉大なドキュメンタリー写真家のひとりです。グラフ雑誌『ライフ』を中心に「カントリー・ドクター」、「スペインの村」、「助産師モード」、「慈悲の人」など数多くの優れたフォト・エッセイを発表し、フォト・ジャーナリズムの歴史に多大な功績を残しました。とりわけ日本とのかかわりが深く、17歳のときニューヨークで偶然であった日系写真家の作品につよい感銘をうけ写真の道を志すきっかけになったこと、太平洋戦争に従軍して、戦争の悲惨で冷酷な現実をカメラで世に伝えんとして自らも沖縄戦で重傷を負ったこと、戦後の日本経済復興の象徴ともいえる巨大企業を取材した「日立」、その経済復興の過程で生じた公害汚染に苦しむ「水俣」の漁民たちによりそった取材などがあります。
 本展覧会は、生誕100年を回顧するもので、スミス自身が生前にネガ、作品保管を寄託したアリゾナ大学クリエイティヴ写真センターによる協力のもと、同館所蔵の貴重なヴィンテージ・プリント作品を150点展示します。情報あふれる現代社会に生きる私たちにとって、ジャーナリズムの原点をいま一度見つめ直すきっかけになることでしょう。
【1. 初期作品 1934-43】 解説を読んで知ったのですが、彼が写真家を志したのは、17歳のときにニューヨークで出会った日本人カメラマンの写真を見て感動したことがきっかけだったのですね。いったい誰なのでしょう。この時期の写真は、リベット打ちの労働者や溶接工を撮影するなど、後年の彼の姿勢がすでにあらわれています。

【2. 太平洋戦争 1943-45】 ユージン・スミスは『ライフ』誌所属の従軍カメラマンとして、サイパン島、硫黄島、沖縄などで激戦を取材しました。彼の言です。
 私は、戦争は悲惨だというとらえ方で仕事をしてきた。これらの写真で試みてきたことを、私はこれからも続けていきたい。戦争はこの世の縮図であり、様ざまな事柄が誤魔化しようもなく鮮明に現れる。人種的偏見、貧困、憎悪、偏狭は、平時の生活のうちにも蔓延するが、戦争の中でほど、否応なくはっきりとはとらえられない。
 戦争の中に、人種的偏見と貧困を見て取ったことは鋭いですね。「米軍の発煙手榴弾で、山中の洞窟から追い立てられる民間日本人」(1944)や「家畜のように連行される民間人」(1945)など、レイシズムにとらわれていない写真が印象的です。なお沖縄戦において迫撃弾の破片が左腕をひどく損傷し、回復に数カ月を要することになりました。その後にはじめて撮った写真が、私の大好きな一枚「楽園への歩み」(1946)だったのですね。森の闇の中から光溢れる世界に歩み出そうとする息子のパトリックと娘のホヮニータ、金儲けのために戦争をくりかえす世界の指導者たちに送り付けたい写真です。

【3. カントリー・ドクター 1948】 『ライフ』誌に掲載されたフォト・エッセイの傑作です。限界まで疲労困憊しながら人々を救おうとする地方の医者アーネスト・セリアーニを写した連作ですが、「分娩中に母子を死なせたアーネスト・セリアーニ医師」(1948)での、彼の静かな苦悶に満ちた表情が心に残ります。

【4. イギリス 1950】 イギリスのクレメント・アトリー首相の選挙運動を取材したフォト・エッセイですが、ウェールズの炭坑労働者やその暮らしの様子も撮影しています。余談ですが、政敵のW.チャーチルが"羊の皮をかぶった羊"と罵倒したアトリーですが、『今夜、自由を』(D・ラピエール&L・コリンズ ハヤカワ文庫NF)を読むと、インド独立に尽力した見識のある政治家であったことがわかります。

【5. スペインの村 1950】 イギリス取材中にスペインにも立ち寄り、「独裁者とその警察(※フランコ政権)に踏みにじられた生活がどのようなものか」を読者に伝えるために撮影したフォト・エッセイです。彼の言です。
 真のスペインとは、貧困のうちに沈みながらも、人々が恵みの少ない大地から、つましい生活の糧を得るために、のろのろと、だが、たゆまず働き続けているというような村々から成り立っている。
 数世紀に亘る忘却と、更に現在の強大な権力政治が、いまのスペイン人の上に重々しくのしかかっている。しかも、彼らは全体として見るとき、決して打ちのめされてはいないのである。人々は日中は働き、日没とともに眠る。そして、現世の生をたのみつつ、死の中から逃れようと働いているのである。
 私たちが村(※デレイトーサ)に着いた翌日、一人の婆さんが私たちについてきて、いろんな話をしたが、その中でこんなことをいった。「わたしら、お前さんが何商売だか知らないけど、誰かがアメリカの新聞記者だろうといってるだ。もし本当にそうなら、お前さんたちが見た通りのことを書いてもらいたいもんだね」。
 これは、政府のお役人たちの態度や希望とは全く違ったものであった。
 見た通りのことを書く(写す)、つまり"Post Truth"ではなく"Truth"を伝えてほしいということですね。彼の生涯を貫く姿勢だと思います。痩せ衰えた老人の死をみとる貧しい家族を撮った、まるで絵画のような「通夜」(1950)が印象的です。

【6. 助産師モード 1951】 彼は産婆術に関心をもっていたようで、サウスカロライナ州で出産の介助や地域の健康管理を行なうアフリカ系女性のモード・カレンを撮影したフォト・エッセイです。「火の気のないストーブと間に合わせのベビーベッドに寝る新生児」(1951)や「思いやりに感激する老人」(1951)などの作品から、アフリカ系アメリカ人の困窮への同情と差別への怒りが伝わってきます。

【7. 化学の君臨 1952】 化学洗剤をつくる工場を取材したフォト・エッセイです。さりげなく写した貨物列車に"MONSANTO"と記されていることから、ベトナム戦争で米軍が散布した枯葉剤をつくり、そして今は遺伝子組み換え作物の種の世界シェア90%を誇るモンサント社であることがわかります。ベルトコンベア、メーター機器、ローラーなどの機械の造形的な面白さに焦点を当てたようにも思える写真です。しかし写真の隅に労働者の小さな姿が写されているのを見ると、違うような気がします。最近読んだ『フクシマ・沖縄・四日市 差別と棄民の構造』(土井淑平 星雲社)にこのような一節がありました。
 赤と白の美しいコントラストを描いてそそり立つ煙突。白銀色のタンクの列。広大な土地と空間を占拠して臨海部に立ちはだかる四日市石油化学コンビナートの工場群-。それは動く抽象画を思わせる。しかし工場に足を踏み入れるとそんな感傷も一瞬のうちに吹き飛んでしまう。ごうごうと地響きを立ててうなり続ける機械の音。鼻をつく異様なにおい。それにもまして無気味なのは、どこまでも続く機械と装置の厚い壁である。そしてこの機械の壁に閉じ込められて働く人間の姿がまばらなのが目につく。それはあまりにも小さく、また機械の付属物のようにも見える。(p.215)
 そう、人間を機械の付属物とする社会への批判ではないでしょうか。ちなみに四日市ぜんそくを引き起こした企業の一つが、三菱化成との合併子会社、三菱モンサント化成です。(前掲書p.159)

【8. 季節農場労働 1953】 小さな子どもを含めた家族全員で果物摘みに従事するミラー一家を撮影したフォト・エッセイです。

【9. 慈悲の人 1954】 密林の聖者、アルベルト・シュヴァイツァーを撮影したフォト・エッセイです。彼は、シュヴァイツァーを単なる「慈悲の人」としてだけではなく「孤独な老人」として撮影しますが、『ライフ』誌が掲載した点数が少ないことに不満をもち、同社を辞めてしまいます。肩を落とし俯く「アルベルト・シュヴァイツァー」(1949)が忘れられない一枚です。なお『水と原生林のはざまで』(岩波文庫)を読むと、彼の考えがよくわかります。私事ですが、昔よく家に招き入れた野良猫に「ランバレネ」という名前を献上しました。

【10. ピッツバーグ 1955-56】 『ライフ』誌から離脱した後、彼はマグナム・フォトに加わりました。そして200年祭を迎えるピッツバーグ市についての本に掲載するための連作を撮影します。「ピッツバーグの艀」(1955-56)など、明暗の対比と見事な構図が印象的です。

【11. ロフトの暮らし 1957-60s】 マンハッタンの古ぼけたロフトに移り済んだスミスは、借金、そして沖縄戦で負傷した古傷の痛みや、それを和らげるための薬・アルコール依存に苦しみながらも、街の風景やロフトに集まるジャズマンを撮影しつづけます。「ピアノを演奏中のセロニアス・モンク」(1960s)や「アルバート・アイラ―」(1965)がいいですね。展示はされていませんが、他にもチャールズ・ミンガスビル・エヴァンスソニー・ロリンズのポートレートもあるそうです。ぜひ見てみたいですね。

【12. 日立 1961-62】 日立製作所やその製品を写真で紹介するという業務契約を結んで、来日したユージン・スミス。日本的なるものを写真で表現しようという試みでもあります。

【13. 水俣 1971-73】 その経緯については拙ブログの書評『写真集 水俣』をご一読ください。最後に図録にあった「水俣で写真を撮る理由」を紹介して、終わりたいと思います。
 写真はせいぜい小さな声にすぎないが、ときたま-ほんのときたま-一枚の写真、あるいは、ひと組の写真がわれわれの意識を呼び覚すことができる。写真を見る人間によるところが大きいが、ときには写真が、思考への触媒となるのに充分な感情を呼び起こすことができる。われわれのうちにあるもの-たぶん少なからぬもの-は影響を受け、道理に心をかたむけ、誤りを正す方法を見つけるだろう。そして、ひとつの病いの治癒の探究に必要な献身へと奮いたつことさえあるだろう。そうでないものも、たぶん、われわれ自身の生活から遠い存在である人びとをずっとよく理解し、共感するだろう。写真は小さな声だ。私の生活の重要な声である。それが唯一というわけでなないが、私は写真を信じている。もし充分に熟成されていれば、写真はときには物を言う。それが私-そしてアイリーン―が水俣で写真をとる理由である。

# by sabasaba13 | 2018-01-08 08:19 | 美術 | Comments(0)