言葉の花綵152

 金持ちどもが戦争をするとき、死んでいくのは貧乏人なのだ。(『悪魔と神』 ジャン・ポール・サルトル)

 戦争とは、たえまなく血が流れ出ることだ。そのながれた血が、むなしく 地についこまれてしまふことだ。…瓦を作るように型にはめて、人間を戦力としておくりだすことだ。…十九の子供も 五十の父親も 一つの命令に服従して、左をむき 右をむき 一つの標的にひき金をひく。敵の父親や 敵の子供については 考へる必要は毛頭ない。それは、敵なのだから。(『戦争』 金子光晴)

 たった一つのローソクなどと考えてはなりません。すべての人が自分のローソクに火を灯せば、真っ暗な夜を明るい昼に変えることができるのです。(オグ・マンディーノ)

 戦争は決して地震や津波のような天変地異ではない。(石川啄木)

 人間の特性である「考える」という作業を、軍隊生活では必要としない。(枡田幸三)

 いまの戦争が、単に少数階級を利するだけで、一般国民の平和をかきみだし、幸福を損傷し、進歩を阻害する。きわめて悲惨な事実である…。しかも事がここにいたったのは、野心ある政治家がこれを唱え、功を急ぐ軍人がこれを喜び、ずるがしこい投機師がこれに賛成し、そのうえ多くの新聞記者がこれに付和雷同し、競争で無邪気な一般国民を扇動教唆したためではないのか。(幸徳秋水 『平民新聞』 1904.3.27)

 放っておけば富む者はさらに富み、貧困者はますます貧困になるのは自然なことで、それを是正するために国が機能するという精神が、この国にはないということだ。(高村薫)

 異国の者にも同国の者にも、分けへだてなく、正しい裁きを下し、正義の道を踏み外さぬ者たちの国は栄え、その国の民も花開くごとくさきわうものじゃ。国土には若者を育てる「平和」の気が満ち、遥かにみはるかすゼウスも、この国には、苦難に満ちた戦争を起こさせようとは決してなさらぬ。(ヘシオドス 『仕事と日』)

 一度戦争が起これば問題はもはや正邪曲直善悪の争いではなく、徹頭徹尾、力の争い、強弱の争いであって、八紘一宇とか東洋永遠の平和とか、聖戦だとかいってみても、それはことごとく空虚な偽善である。(斎藤隆夫)

 平和より戦争をえらぶほど無分別な人間がどこにおりましょうや。平和の時には子が父の葬いをする。しかし戦いとなれば、父が子を葬らねばならぬのじゃ。(ヘロドトス 『歴史』)
# by sabasaba13 | 2017-01-20 06:25 | 言葉の花綵 | Trackback | Comments(0)

虐殺行脚 神奈川編(9):結語(16.9)

 というわけで、虐殺行脚神奈川編一巻の終わり、次回は千葉編です。なお気になることがあったので、紹介します。『関東大震災』(吉村昭 文春文庫)によると、大地震が発生した直後、横浜市では組織立った集団的かつ大規模・悪質な強盗事件が起ったということです。長文ですが、重要な指摘ですので引用します。
 大地震の起った日の夜七時頃、横浜市本牧町附近で、
「朝鮮人放火す」
 という声がいずこからともなく起った。それは東京市内でささやかれていた社会主義者と朝鮮人放火説とは異なって、純然と朝鮮人のみを加害者とした流言だった。
 その流言がだれの口からもれたのかは、むろんあきらかではない。ただ日本人の朝鮮人に対する後暗さが、そのような流言となってあらわれたことはまちがいなかった。
 本牧町一帯は、押し寄せた炎にさらされて類焼中であった。その混乱の中で生れた流言は、炎にあおられたようにその附近一帯にひろがった。そして、一時間ほど過ぎた頃には、近くの北方町、根岸町、中村町、南吉田町に流布し、さらには横浜港外に碇泊する船舶等にまで達した。
 しかし、その流言も横浜市の一地域にひろがっただけで自然現象に関する流言とは比較にならぬほど微弱なものであった。そして、その夜流布された範囲も同地域にかぎられていたが、翌二日の夜明け頃から急激に不気味なものに変形していった。
 流言は「朝鮮人放火す」という単純なものであったのに、夜の間に「朝鮮人強盗す」「朝鮮人強姦す」という内容のものとなり、さらには殺人をおかし、井戸その他の飲水に劇薬を投じているという流言にまで発展した。
 殺伐とした内容を帯びた流言は、人々を恐れさせ、その恐怖が一層流言の拡大をうながした。そして、その日の正午頃までには横浜市内にたちまち拡がり、鶴見、川崎方面にまで達してしまった。
 さらに日没近くになると、横浜市西戸部町藤棚附近から、
「保土ヶ谷の朝鮮人土木関係労働者三百名が襲ってくる」
 という風説につづいて、
「戸塚の朝鮮人土木関係者二、三百名が現場のダイナマイトを携帯して来襲してくる」
 という流言すら起った。それは、具体的な内容をもっていただけに短時間に横浜市から市の近郊にまで伝わった。
 このような朝鮮人に関する風説については、後に横浜地方裁判所検事局で徹底した追跡調査がおこなわれた。それによると検事局では、初めその風説を裏づける事実があったのではないかという判断のもとに、流言の発生地を中心に一般人、警官、軍人等から事情を聴取したという。
 しかし、調査の結果それらの風説は全く根拠のないもので、朝鮮人による放火、強盗、殺人、投毒の事実は皆無で、保土ヶ谷、戸塚の土木関係労働者の集団的行動もなかった。
 実在しないことが、なぜこのような具体性の濃い流言になってひろまったのだろうか。その根本原因は複雑だが、一般市民が決して幻影におびえただけでもなかった。
 庶民の中からそのような不穏な流言が湧いたのも無理からぬ理由があった。が、それは日本人そのものの中にひそんでいたのだ。
 大地震が発生した直後、東京市では軽微な盗難が随所に見られたが、横浜市では大規模な強盗事件が起った。しかも、それは組織立った集団的なもので、災害に乗じたきわめて悪質な性格をもっていた。
 その代表的なものは、立憲労働党総理山口正憲を主謀者とする集団強盗事件であった。
 山口は、横浜市中村町に居宅をかまえていたが、正午直前起った大地震で家が倒壊寸前になったため、附近の小学校に避難した。
 小学校には、家財をたずさえた避難民の群がひしめき、絶えず襲ってくる余震と随所に起る火災に平静さを失っていた。
 かれらの大半は、昼食をとることも出来ず家を逃れてきた者ばかりで、救援物資が到着する望みはうすく飢えと渇きに対する激しい不安をいだいていた。
 山口も同様だったが、かれは避難民を煽動して物資を調達しようと企て、避難民を集めると、立件労働党総理であることを名乗って拳をふり演説をはじめた。そして、避難民を救うために「横浜震災救援団」という団体を結成したいと提唱した。
 避難民たちは、巧みなかれの弁舌に感激し一斉に賛意を表した。
 山口は、さらに自ら団長に立候補することを伝え拍手のうちに団長に推挙され、多数の者がその場で入団を申出た。
 山口は、物資の調達が結局掠奪以外にないことをさとり、団員の中から体力に恵まれた者を選び出して決死隊と称させた。これらの男たちは、ただ騒擾のみを好む者たちばかりであった。
 いくつかの決死隊が編成され、山口は、かれらに赤い布を左腕に巻きつけさせ赤い布を竿にしばりつけさせて、物資の掠奪を指令した。
 かれらは、日本刀、竹槍、鉄棒、銃器などを手に横浜市内の類焼をまぬがれた商店や外人宅などを襲い、凶器をかざして食糧、酒類、金銭等をおどしとって歩いた。その強奪行動は、九月一日午後四時頃から同月四日午後二時頃まで十七回にわたって繰り返された。
 この山口正憲を主謀者とする強盗団の横行は、自然に他の不良分子に影響をあたえた。かれらは単独で、または親しい者を誘って集団で一般民家に押し入り、掠奪をほしいままにした。つまり横浜市内外は、地震と大火に致命的な打撃を受けると同時に強盗団の横行する地にもなったのだ。
 一般市民は恐怖におののいた。かれらは赤い腕章をつけ赤旗をかざした男たちが集団を組んで人家を襲うのを眼にし、凶器で庶民を威嚇するのを見た。市民には、それらの集団がどのような人物によって編成されているのか理解することは出来なかった。
 そうした不穏な空気の中で、「朝鮮人放火す」という風説が本牧町を発生源に流れてきたが、だれの口からともなく町々を横行する強盗団が朝鮮人ではないかという臆測が生れた。
 日本人と朝鮮人は、同じ東洋民族として顔も体つきも酷似しているというよりは全く同一と言っていい。一般市民は、その臆測にたちまち同調した。そして、強盗団の行為はすべて朝鮮人によるものとして解され、朝鮮人の強盗、強姦、殺人、投毒などの流言としてふくれ上ったのだ。
 また朝鮮人土木労働者が二、三百名来襲の風説も、凶器を手に集団で掠奪行為を繰り返した日本人たちを朝鮮人と錯覚したことによって起ったものであった。
 横浜地方裁判所検事局は、後になって朝鮮人に関する流言の発生が山口正憲一派をはじめとした強盗団の横行と密接な関係のあることをつきとめたが、さらに山口らが朝鮮人と称して掠奪をおこなったのではないかという疑いもいだいた。そして、検挙した山口をはじめ強盗を働いた者たちを個別に鋭く訊問したが、かれらの供述は一致していて、そのようなことを口にした事実は全くなかったことが判明した。つまり朝鮮人に関する流言は、山口らが作り上げたものではなかったが、かれらの犯行が庶民によって朝鮮人のものとして解釈されたのである。
 流言はたちまち膨張し、巨大な怪物に成長した。そして、横浜市内から人の口を媒介にすさまじい勢いで疾駆しはじめた。
 関東大震災で最も被害の甚だしかった横浜市の市民は、東京方面に群をなして避難していった。そのためかれらの口から朝鮮人に関する流言が、東京方面に素早くひろがっていったのである。(p.132~7)
 これは戦慄すべき事実です。本書の巻末には参考文献の一覧があるので、根拠のないフィクションとは思われません。日本人による凶悪な犯行が、朝鮮人によるものとして解釈され、膨張し、流布されていった可能性、あるいはそうした一面がありそうです。できうる限りそうした事実を掘り起こし、検証し、記録にとどめる必要をますます痛感しました。この歴史を再度生きぬためにも。
# by sabasaba13 | 2017-01-19 06:26 | 関東 | Trackback | Comments(0)

虐殺行脚 神奈川編(8):東漸寺(16.9)

 そしてすぐに、横浜市鶴見区塩田町3‐144にある東漸寺(とうぜんじ)が見つかりました。空漠とした境内の正面には本堂があり、その正面右手に「故大川常吉氏之碑」という小さな記念碑がありました。碑文を転記します。
 関東大震災当時流言蜚語により激昂した一部暴民が鶴見に住む朝鮮人を虐殺しようとする危機に際し 当時鶴見警察署長故大川常吉氏は死を賭してその非を強く戒め300余命の生命を救護したことは誠に美徳である故私達は茲に故人の冥福を祈りその徳を永久に讃揚する
1953年3月21日 在日朝鮮統一民主戰線 鶴見委員会
合掌

 『県警察史』によりますと、9月2日夕、自警団員が四人の男を朝鮮人だと鶴見署に突出し、「持っている瓶に毒が入っている。たたき殺せ」と騒ぎました。当時、46歳の大川常吉署長は「そんなら諸君の前で飲んで見せよう」と瓶の中身を飲み、暴徒を納得させました。翌日、状況はさらに緊迫します。大川署長は多数の朝鮮人らを鶴見署に保護しましたが、群集約千人が署を包囲し、「朝鮮人を殺せ」と激高します。大川署長は「朝鮮人たちに手を下すなら下してみよ、憚りながら大川常吉が引き受ける、この大川から先に片付けた上にしろ、われわれ署員の腕の続く限りは、一人だって君たちの手に渡さない!」と一喝。体を張っての説得に群集の興奮もようやく収まったかに見えました。しかし、それでも収まらない群集の中から代表者数名が大川に言います。「もし、警察が管理できずに朝鮮人が逃げた場合、どう責任をとるのか」と。すると大川署長は「その場合は切腹して詫びる」と答えました。そこまで言うならと、とうとう群衆は去って行きました。保護された人は朝鮮人220人・中国人70人ら、計300余人に上ります。保護された朝鮮人・中国人は横浜港に停泊中の崋山丸に身柄を移され、その後海軍が引き受けて保護しました。保護された朝鮮人のうち225名はその後も大川署長の恩に報いるべく震災復興に従事したそうです。
 大川常吉氏は1940(昭和15)年に死去、墓地はここ東漸寺にあります。なおこれは今知ったため、墓参はできませんでした。申し訳ない。そして死後13年目の1953年、関東大震災30周年を機にこの石碑が建立されました。大川常吉氏は後年「警察官は人を守るのが仕事、当然の職務を遂行しただけ」と語ったと伝えられています。
 その人間性と胆力には、心から敬服します。ただ彼を「日本人の誇り」と短絡すべきではないでしょう。朝鮮人や中国人を虐殺した、「日本の恥」とも言うべき多くの人びとがいたことと、トレードオフにはできません。それでも氏のような方が、少数とはいえいらしたことはせめてもの救いです。
 そしてバス停から、JR川崎駅行きのバスに乗ってわが家へと帰りました。

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-01-17 07:34 | 関東 | Trackback | Comments(0)

虐殺行脚 神奈川編(7):鶴見(16.9)

 そしてバス停に戻り、JR桜木町駅行きのバスに乗り込みました。桜木町駅構内にある観光案内所とお土産売り場を見た瞬間に、「肉まんを買ってきて…買ってきて…きて…」という山ノ神の餞の言葉がサイレーンのように脳裡に響きました。やれやれ危ないところだった、さっそく肉まんを三つ購入。そして京浜東北線直通の列車に二十分ほど乗って鶴見駅へ、ここで鶴見線に乗り換えて七分ほど揺られると浅野駅に到着です。うわお、改札がなく、ICカードをタッチするパネルがあるだけです。あわよくば駅前で珈琲でも、という淡い望みはタンネンベルクにおけるロシア軍のように粉微塵に打ち砕かれてしまいました。何もない… ま、とりあえず地図を片手に歩を進めましょう。産業道路を渡ると、歩道橋に「ゴム通り」と書いてありました。
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 ゴム通り? こういうトリビアな話題を調べるときには、ほんとうにインターネットは便利です。この付近に、横濱護謨製造(現横浜ゴム)がつくられたのが1929(昭和4)年。ところが1945(昭和20)年4月の鶴見・川崎地区への空襲により壊滅的な被害を受け、戦後も再建されることはありませんでした。いつからかは不明ですが、地元ではその後もゴム通りと呼ばれ続けていたそうです。その後、1976(昭和51)年から始まった道路に愛称をつける「愛称道路事業」の一環で、道路名として正式に採用されたということです。なるほど、道に歴史あり、ですね。ついでに分かったことは、川崎区浜町3~4丁目当りに「セメント通り」もあるそうです。こちらには太平洋セメントの前身の浅野セメントの工場があり、そこに勤める工員の通勤路になっていたことからこう呼ばれるようになったそうです。さらにさらに、『孤独のグルメ』のゴローちゃんこと、フリーの輸入雑貨商の井之頭五郎が舌鼓を打った焼肉店が、セメント通りにある「東天閣」。いつの日にかぜひ訪れてみたいものです。なお『孤独のグルメ』(扶桑社文庫)の「京浜工業地帯を経て川崎セメント通りの焼き肉」(p.77)が該当の一文でした。
 閑話休題。ゴム通りを左に曲がり、入船小学校の前の路地を歩いていくとけったいなお宅に出会えました。モルタルでつくられたアシンメトリーな外観と、浮彫の「和洋 左官」という文字。岩瀬工業所の職人魂が炸裂したような建物です。こういう物件に出会えるのが、街歩きの楽しみですね。

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-01-16 15:54 | 関東 | Trackback | Comments(0)

虐殺行脚 神奈川編(6):宝生寺(16.9)

 なお根岸駅から宝生寺へと向かう際に、堀割川沿いの横須賀街道をバスで通ったのですが、このあたりでも朝鮮人虐殺が行われたことが一昨日わかりました。いやはや、やはり勉強をしなくてはいけませんね。『関東大震災・虐殺の記憶』(姜徳相[カン・ドクサン] 青丘文化社)の中に、下記の一文がありましたが、中村町・根岸橋・中村橋という地名・橋梁名からして間違いないと思います。三好橋・倉木橋は確認できませんでしたが。
 田畑潔(会社員)は「横浜の中村町周辺は木賃宿が密集した町だった。木賃宿には朝鮮人労務者が多く住みつき、数百名からいたように思う」と前提して次のように証言している。
 「二日朝から、朝鮮人が火を放けて回っているという流言がとぶと、ただちに朝鮮人狩りが始まった。根岸橋のたもとに通称『根岸の別荘』と呼ばれる横浜刑務所があって、そこのコンクリート壁が全壊したため、囚人がいちじ解放されていたが、この囚人たち七、八百人も加わって、捜索隊ができた。彼らは町中をくまなく探し回り、夜を徹して山狩りをつづけたのである。見つけてきた朝鮮人は、警察が年令、氏名、住所を確かめて保護する間もなく町の捜索隊にとっ捕まってしまう。…そしてグルリと朝鮮人をとり囲むと、何ひとついいわけを聞くでもなく問答無用とばかり、手に手に握った竹ヤリやサーベルで朝鮮人のからだをこずきまわす。それもひと思いにバッサリというのではなく、皆がそれぞれおっかなびっくりやるので、よけい残酷だ。頭をこずくもの、眼に竹ヤリを突き立てるもの、耳をそぎ落すもの、背中をたたくもの、足の甲を切り裂くもの…朝鮮人のうめきと、口々にののしり声をあげる日本人の怒号が入りまじり、この世のものとは思われない、凄惨な場面が展開した。こうしてなぶり殺しにした朝鮮人の死体を、倉木橋の土手っぷちに並んで立っている桜並木の川のほうにつきだした小枝に、つりさげる。しかも一本や二本じゃない。三好橋から中村橋にかけて、戴天記念に植樹された二百以上の木のすべての幹に、血まみれの死体をつるす。それでもまだ息のあるものは、ぶらさげたまま、さらにリンチを加える…人間のすることとも思えない地獄の刑場だった。完全に死んだ人間は、つるされたツナを切られ川の中に落とされる。川の中が何百という死体で埋まり、昨日までの清流は真っ赤な血の濁流となってしまった」 (『潮』 71.9) (p.159~60)
 言葉もありません。日本の民衆が、なぜこのような非人間的な虐殺を行なったのか、朝鮮人への差別意識・蔑視感・恐怖心だけでは説明しきれないと考えます。その真因を本気で究明しないと、私たちはまた同じことをくりかえすのではないか、という恐ろしい予感を抱いています。そして忘れてならないのは、こうした関東大震災時の朝鮮人虐殺に日本政府が深く関与し、かつ軍隊・警察が虐殺を行なったということです。研究者の山田昭次氏は、これを国家責任と民衆責任と呼んでいます。政府・軍はその経過や責任を隠蔽し続けてきたのですが、研究の進展によってその全容が明らかになりつつあります。これについては近々、報告したいと考えています。
 言うまでもありませんが、軍隊・警察・民衆が三位一体となって非武装かつ無辜の朝鮮人を、残虐な方法で大量に殺害した事件です。これを過ちと言わずして何と言えばよいのでしょうか。しかし過ちを犯さなかった国家も民衆もありません。『普遍の再生』(井上達夫 岩波書店)に教示していただいた、大沼保昭氏の言葉に私も共鳴します。
 過ちを犯したからといって卑屈になる必要はない。過ちを犯さない国家などというものは世界中のどこにもないのだから。しかし、過ちを犯さなかったと強弁することは自らを辱めるものであり、私たちの矜持がそうした卑劣を許さない。私たちの優れた到達点を率直に評価し、同時に過ちを認めるごく自然な姿をもつ国家こそ、私たちが愛し誇ることのできる日本という国ではないか。私はそう思う。(「日本の戦争責任と戦後責任」 『国際問題』 501号 2001年12月号) (p.68~9)
 そう、孔子もおっしゃっています、「過ちて改めざる、是これを過ちという」と。しかし残念ながら、日本政府は、いまだにこの虐殺を認めず、その真相を調査・究明しようとせず、謝罪もせず、賠償もしていません。やれやれ、こういう国家にどういう言葉を捧げましょうか。

 恥知らず。
# by sabasaba13 | 2017-01-13 06:27 | 関東 | Trackback | Comments(0)

虐殺行脚 神奈川編(5):宝生寺(16.9)

 堀割川にかかる八幡橋を渡ったところでバス停を発見。潔くバスに乗ることにして、天神橋で下車しました。路地に入って十分ほど歩くと、宝生寺に着きました。かなりわかりづらいところにあるので、詳細な地図は必携です。木々に埋もれるような石段をのぼって門をくぐると、そこは鬱蒼とした緑にあふれる境内です。
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 門のすぐ左手に「関東大震災 韓國人慰霊碑」がありました。

合掌

 関東大震災後、横浜で社会活動をしていた李誠七氏が、三ツ沢墓地・久保山墓地などから同胞の遺骨を集めて港北区篠原の東林寺、同菊名の蓮勝寺に埋葬、1924年からここ宝生寺で追悼法要を行なったそうです。1961年に東林寺に納骨堂が建てられ、1971年には李誠七氏の遺志をついだ鄭東仁氏が、在日本大韓民国民団県本部の協力を得てこの碑を建立されたとのことです。碑文を転記します。

 労働市場を求めて来日関東一円に在住した韓國人が大正拾貮年九月壹日正午襲った関東大震災に因る直接又は間接の被害を受けて空しく異國の露と消えたこれらの怨霊は永いこと忘れ去られていたが第二次世界大戦の終結後社会事業家で横浜在住の故李誠七氏の努力と当時の住職故佐伯妙智先生の好意によりこの地に鎭魂以来毎年九月壹日を期して民團神奈川縣地方本部主催で慰霊祭を挙行して来た紀元一九七十年九月壹日例祭の折孫張翼田炳武鄭東仁氏が中心に発起人一同の賛同を得て本県在住同胞有志の浄財の寄付と現住職佐伯眞光先生の土地提供の好意を得て幸い茲に建立永遠に関東大震災による韓國人怨霊の冥福を祈るものである

 一読して棘のように突き刺さってきたのが、虐殺されたことや「怨」の原因については一切記されていないことです。日韓和解のためにあえて記さなかったのか、あるいは日本人によるいやがらせを危惧する故か、それは分かりません。ただ、もし私の家族が虐殺されたとしたら、せめてその事実を石に刻んで永遠に残してほしいと願います。無辜の人びとが日本の警察・軍隊・民衆に殺害され、加害者はほとんど処罰されず、彼らの反省と悔悟の弁もなく、そして政府がまともな調査もせずに事件が忘却の淵に消えるのを待っているという事実を。
 なお1995年、神奈川県関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑建立推進委員会は神奈川県に対して、県による事実調査、県による追悼碑の建立、県下の教育現場での歴史教育の実行などをもとめる要請を行なったとのことです。結果については…だいたい想像がつきます。南京虐殺、従軍慰安婦、強制連行、沖縄戦における日本軍の蛮行、福島原発事故など、自分に不都合な事実はなかったことにしたいお国柄ですから。恥ずかしい。でもこの恥ずかしさを怒りに変えて、政府や自治体を動かしていくのが市民の務めなのですよね。

 本日の一枚です。
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 付記。最近読んだ『世界史としての関東大震災』(関東大震災80周年記念行事実行委員会編 日本経済評論社)に、下記の一文がありました。

 これら以外にも朝鮮人・韓国人が建てた碑がありますが、その後になると、彼らは日本人に遠慮してしまうのです。横浜の宝生寺に韓国居留民団神奈川県本部が1970年につくった碑がありますが、この碑の碑文には、日本にやってきた韓国人が「関東大震災に因る直接又は間接の被害を受けて空しく異国の露と消えた」と書かれています。「直接又は間接」というのは何なのでしょうね。「直接」は地震でしょう。「間接」とは人災=人間による虐殺のことでしょう。こんなまわりくどい、わかりにくい文章を、なぜ書かなければならなかったのか。在日韓国人は日本人の神経を逆なでしたくないと思って、曖昧な文章を書いたのでしょう。そこを日本人が考えてほしい。日本人の無言の圧力がこれだけ韓国人に遠慮させているんだということを察してほしいというのが私の願いです。(p.15)

# by sabasaba13 | 2017-01-12 06:34 | 関東 | Trackback | Comments(0)

虐殺行脚 神奈川編(4):根岸(16.9)

 そして保土ヶ谷駅へと歩いて戻り、JR横須賀線で横浜へ。根岸線に乗り換えて十分ほどで根岸駅に到着です。昼食は、根岸駅近くにあったビル内の「ひょうたん」で、ぶた丼をいただきました。
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 そして地図を片手に横浜市南区堀ノ内1-68にある宝生寺をめざして、中通りを西へと歩いていきましたが、けっこう距離がありました。途中で「経済で、結果を出す。」と宣う安倍伍長のポスターを見かけたので、疲労も倍加しました。"銭さえ握れば文句ねえだろ"と言いつつも国民を見殺しにして国威発揚と軍事力増強に邁進する伍長と自民党、彼らを何となく支持する多くの方々。過去を記憶し歴史から学べば、いつか来た道であるのが判りそうなものですけれどね。おまけに「一億総活躍社会へ。自民党」ときたもんだ。"退却"を"転進"に、"自爆攻撃"を"玉砕"に、"敗戦"を"終戦"に、"占領"を"進駐"に、"共同的武力行使"を"駆けつけ警護"と言いかえてきた歴史をもつお国柄ですから、この"活躍"という言葉もお里が知れるというものです。さしずめ、"酷使"か"使い捨て"か"死に至るまでの滅私奉公"といったところでしょう。ここまでなめられる国民には、愚劣さを通り越してある種の清々しささえ感じます。

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-01-10 06:35 | 関東 | Trackback | Comments(0)

虐殺行脚 神奈川編(3):久保山墓地(16.9)

 さて肝心の慰霊碑ですが、広大な墓地ゆえに見つけるのに苦労するだろうと覚悟はしていました。しかし、管理事務所の左にある合祀霊場に行くと、すぐに見つかりました。正面には関東大震災により死亡した無縁者3,300人を合葬した「横浜市大震火災横死者合葬之墓」。
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 その左手に「関東大震災 殉難朝鮮人慰霊之碑」が建っていました。

合掌

 この慰霊碑は、1974年に横浜市民の石橋大司さんが建てられたものです。小学校2年生の時に、石橋さんは、朝鮮人の遺体が電柱に後ろ手にしばられているのを目撃しました。1970年代に、石橋さんは当時の飛鳥田市長に対して、『市民への手紙』という制度を利用して、久保山墓地の合葬墓の修復と虐殺された朝鮮人の慰霊碑の建立を求める提案を数度にわたって行ったそうです。しかし合葬墓の修復は実行されましたが、朝鮮人の慰霊碑建立はされませんでした。その後、石橋さんは私財をなげうって、この碑を建てました。なおこの碑の裏には、『少年の日に目撃した一市民これを建てる』と記されていました。
 石橋さんの見識と行動に、心から敬意を表します。日本の民衆が、無辜の朝鮮人を数多虐殺したというこの歴史的事実を記憶にしっかりととどめて反省しないかぎり、また私たちは同じ行為を繰り返しかねません。ジョージ・サンタヤーナ曰く、"過去を記憶しない者は、過去をふたたび生きねばならぬ"。ヨハン・ガルトゥング曰く、"歴史から学ぶことのない人は、その歴史を再度生きることを運命づけられている"。過去を記憶し、歴史から学ぶためにも、意義深い建碑だと思います。そういえば『地震・憲兵・火事・巡査』(岩波文庫)で、この虐殺事件を痛烈に批判した弁護士の山崎今朝弥もこう述べていました。
 朝鮮人の殺された到る処に鮮人塚を建て、永久に悔悟と謝罪の意を表し、以て日鮮融和の道を開くこと。しからざる限り日鮮親和は到底見込みなし。(p.278)
 個人の善意に頼るのではなく、国がきちんと調査をして責任の所在を明らかにし、悔悟と謝罪の意を表するためのモニュメントをつくるべきだと思います。

 本日の二枚です。
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 追記。最近読んだ『関東大震災・虐殺の記憶』(姜徳相 青丘文化社)の次の一文がありました。
 交通要所での検問、誰何の過程を反映したのか、十字路や橋のたもとでの殺害の例が多くみられた。増田節太郎(当時『東京日日新聞』記者、1891年生)は「日本橋、柳橋の焼野ヶ原の交差点には電信柱に針金でくくって朝鮮人が殺されていたし、大きな橋のたもとで小塚の原さらし首のように朝鮮人の生首が五つも六つもおいてあった」(三原令 『聞き書き』)と述べている。このように朝鮮人を電柱などに針金で縛り、「不逞鮮人なり、なぐるなり、けるなりどうぞ」と書いた立札を貼り、棍棒をおいて通行人の殴殺にまかせたのを目撃した人は非常に多い。(p.159~60)

# by sabasaba13 | 2017-01-09 08:04 | 関東 | Trackback | Comments(0)

虐殺行脚 神奈川編(2):保土ヶ谷(16.9)

 横須賀中央駅から京浜急行で横浜へ、JR横須賀線に乗り換えて三分で保土ヶ谷駅に着きました。横浜市西区元久保町3-24にある久保山墓地までは、徒歩約20分です。わかりづらいので地図は必須ですね、それでは歩いて行きましょう。駅東口からお寺さんの脇にあるゆるやかな坂道をのぼっていくと、トンネルがありました。煉瓦積みの坑門にはピラスター(付け柱)やデンティル(歯状装飾)が付設されており、一目でただものではないとわかる物件です。「横浜市認定歴史的構造物 東隧道」「土木學會選奨土木遺産 横浜水道に関わる隧道-東隧道」という二つのプレートが掲げられていました。今、インターネットで調べてみると、関東大震災後に復旧事業の一環として開削されたもので、このトンネルの地下に水道管が埋まっているそうです。トンネルは、水道管埋設工事と管理用のために開削されたもので、公道と兼用になっているのは全国的にも珍しいとのことです。なるほど、でも現地に解説板がぜひ欲しいですね。横浜市に善処を希望します。
 歩道がないトンネルを自動車に気を付けながら抜けて、地図を片手に十数分歩くと久保山墓地に到着です。「はまれぽ.com」によると、明治政府の意向で三つのお寺の墓地を移設して造られたのが始まりで、市営墓地と民間墓地が入り混じっており、民間墓地には三溪園で知られる原三溪(富太郎)のお墓もあるそうです。またウィキペディアによると、ほかにも村岡花子(翻訳家・児童文学者)、山城屋和助(割腹自殺した陸軍省御用商人)、吉田茂(政治家)、吉田健一(英文学者、吉田茂の長男)のお墓もありました。また、戊辰戦争で戦死した兵士の"官修墓地"が、市営墓地の一角にあるそうです。当時の日本では銃創治療の技術が未熟だったため、撃たれた官軍兵士は野毛にあった横浜軍陣病院に運ばれてイギリス人のウィリアム・ウィリス医師の治療を受け、治療の甲斐なく亡くなった人がここに埋葬されているとのことです。本日は時間の関係で見られませんでしたが、いつか掃苔のため再訪したいものです。

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-01-07 08:13 | 関東 | Trackback | Comments(0)

写真館

江見写真館(岡山県津山)
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つちや写真館(岡山県津山)
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エノモト写真店(神奈川県横須賀)
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菅原写真館(宮城県若柳)
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恵美写真館(福井県鯖江)
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大谷好美館(栃木県鹿沼)
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常盤台写真場(江戸東京たてもの園)
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高田小熊写真館(愛知県明治村)
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旧金井写真館本店(新潟県新潟)
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旧三陽写真館(新潟県摂田屋)
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中村写真機店(新潟県新潟)
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白鳥写真館(長野県松本)
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梅沢写真会館(東京都三ノ輪)
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松村写真館(栃木県足利)
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冨重写真所(熊本県熊本)
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寛明堂(山形県鶴岡)
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写真高橋(山形県山形)
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千鳥写真館(山梨県塩山)
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写真の店「ささき」(岐阜県明智)
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星野写真館(神奈川県江の島)
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旧日の丸写真館(竹原)
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西村写真館(山形県山形)
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山岸写真館(岐阜県飛騨高山)
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小林写真館(北海道函館)
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写場島忠(宮城県気仙沼)
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渡辺写真館(宮城県登米)
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安藤写場(福島県会津若松)
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写真山下(長野県善光寺)
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オソノエ写真館(茨城県笠間)
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スミレ写真館(東京都青梅)
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奥多摩写真館(東京都青梅)
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タイキ写真館(福島県白河)
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田中写真館(東京都鳩の街)
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鈴木写真スタジオ(富山県高岡)
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# by sabasaba13 | 2017-01-06 19:38 | 写真館 | Trackback | Comments(0)