虐殺行脚 東京編(13):亀戸事件(16.10)

 労働運動家たちが追い込まれた、緊迫した状況を、『女工哀史』を書いた細井和喜蔵の妻・高井としをが、『わたしの「女工哀史」』(岩波文庫)という自伝の中で、こう語っています。
 七日目ぐらいになると余震も少し間をあけるようになり、アパートへ帰ろうかと思っている時でした。細井の友人で、同人誌に詩を書いている山本忠平さんが、坊主頭で紺の印ばんてんに縄帯姿で現われました。「君たち、こんなところでなにしていたのか。早く逃げないと殺されるぞ。南葛労働組合の執行部は全員殺された。僕も今から田舎へ行く。とにかく早く逃げろ。アパートへ荷物をとりに行ったらつかまるぞ」といって、お別れしたのです。(p.81)
 なお亀戸事件および大杉栄虐殺事件と、朝鮮人虐殺をひとくくりにしてとらえる意識が私にはありましたが、下記の二書によってその蒙を啓かれました。まずは『関東大震災と朝鮮人虐殺 80年後の徹底検証』(山岸秀 早稲田出版)です。
 しかし自警団は、社会主義者からの自警をさほど意識していなかったようである。自警団による社会主義者襲撃は事件としてはあるが、数としては非常に少ない(公式記録の特別審査局資料では二件。この資料にはのっていないが、埼玉県熊谷町で自警団が社会主義者を襲ったとの聞き取りもある)。むしろ社会主義者は自警団に加わってさえいる。官憲によって虐殺されるアナーキストの大杉栄自身、九月九日以降、自警団に加わっていた。

 姜徳相は社会主義者が自警団に加わっていたこと(大杉だけではなかった)について、「社会主義者が朝鮮人を殺したという証拠はない。しかし、社会主義者を含む自警団が殺す側にあり、殺される側に朝鮮人がいたという事実は否めない事実である」(関東大震災70周年記念行事実行委員会編 『この歴史永遠に忘れず』 日本評論社 1994年)と述べている。
 神田文人は「関東大震災後の社会主義者の発言に亀戸事件・甘粕事件の批判・告発はあるが、朝鮮人虐殺の告発、中国人虐殺の批判はない」(同書)と述べている。(p.43)
 そして『関東大震災』(姜徳相 中公新書414)です。
 前二者(※亀戸事件・大杉事件)が官憲による官憲の完全な権力犯罪であり、自民族内の階級問題であるに反し、朝鮮人事件は日本官民一体の犯罪であり、民衆が動員され直接虐殺に加担した民族的犯罪であり、国際問題である。この相違を峻別しないということはない。(p.208)
 「関東大震災後の社会主義者の発言に亀戸事件・甘粕事件の批判・告発はあるが、朝鮮人虐殺の告発、中国人虐殺の批判はない」という言葉の重さを銘肝します。
# by sabasaba13 | 2017-03-23 06:27 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(12):亀戸事件(16.10)

 また『日本の百年6 震災にゆらぐ』(今井清一 ちくま学芸文庫)には、下記のような一文がありました。
 亀戸事件となると、真相の発表も責任者の追及も、ともに大杉事件に輪をかけたいいかげんなものだった。事件は九月五日の払暁に起こされていたのに、警視庁は、十月十日までじつに一ト月以上も、ひたかくしにかくしていたのである。
 「東京亀戸署が□余名を□殺した事実ついに暴露して発表さる (注、□印は削除を示す)
 大震災の起こった際、東京亀戸署に多数労働者殺戮の惨害が強行されたが、絶対に秘密を守ると同時に、警視庁は内務省警保局と打ち合わせ、一切掲載の禁止を命じて許さなかったところ、証拠として消すべからざる事実にたいし、秘密はとうてい保たれうべくもあらず、ついに十日警視庁はその事実を発表せざるを得ざるにいたった。
 事件の内容は、東京市外大島町三ノ二二三純労働者組合長平沢計七が震災三日夜十時ごろ、夜警から帰宅したところを張り込みの亀戸署に検束され、市外亀戸三五一九南葛飾労働組合本部理事川合義虎(二二)同山岸実司(二一)同北島吉蔵(二〇)同鈴木直一(二二)同近藤広造(二〇)同加藤高寿(二七)等が三日夜会合したところを亀戸署の多数刑事に踏み込まれ、書類・端書などことごとく押収検束され、さらに吾嬬町大字小村井南葛飾労働組合吾嬬支部を家宅捜索後、夜警中の同支部長吉村光治(二四)を九名が襲いかかって検束しさったが、その後家族知己が検束後の消息を案じ、亀戸署に照会するとことごとく放還の旨を回答した。
 しかるに事実は三日(ママ)午前三時から四時のあいだに同署演武場前広場において前記八名と他□名を整列させ、軍隊と協力して銃剣をもって刺殺し、惨死死体は連日夜陰に乗じて自動車で木下川、荒川放水路方面に運び、河中に投棄もしくは某所に埋葬したものである。氏名不明の□名は震災三日の混乱に乗じ、相生署管内における強盗掠奪団の一味三名その他七、八名の□□□等である。(東京電話)」 (大阪毎日新聞、一九二三年十月十一日)
 これでは、警察と軍隊(習志野の騎兵第十三連隊)による組織的な虐殺事件と思われても、弁解の余地はあるまい。それなのに、古森亀戸署長は、発表にさいして、事件の原因を、つぎのように語ることを忘れなかった。
 「平沢計七ら八名は、二日の晩に亀戸三ノ五一九南葛労働組合本部川合義虎方の屋根上で、火災を見ていて『おれたちの世がきた』と革命歌をうたい、不逞漢が毒薬を井戸に投入したなど流言をはなっていたことを川合の付近のものが密告してきたので、おどろいて引っぱってきた。そのうち佐藤欣治、中筋宇八の二人は、不逞漢とともに暴動したので本署に連行したのである。
 ところが四日夜、前述の自警団四名のさわぎに応じてさわぎたて、そのうえ同夜十二時から五日午前三時のあいだに、留置中の不逞漢一団が狂暴となり、すさまじい奇声をあげると、一同付和雷同し、全署にみちた留置人は足ぶみして革命歌を高唱し、『殺すなら殺せ、われらの世がきた』と狂暴いたらざるなきありさまとなり、これが成り行きはじつに恐るべき状態となったので、自分は死を覚悟し、署員一同にも同様覚悟を申しわたしました。到底手がつけられないので、やはり軍隊に制止方を依頼すると少尉が五、六名の兵士をひきいてきた。するといっそうさわぎが大きくなり暴れ狂うものを監房からひきだすと、またも薪雑棒をふりかざして抵抗したから、兵士はついに彼らを演武場まえ広場につれ行き、銃剣でさし殺したのである。
 死体はその場で一時菰をかぶせておいたが、臭気を発散するので、七日、四ツ木橋の荒川放水路における焼死体圧死者火葬の場所へ運び、火葬に付したのである。遺族が本人の消息を尋ねに来たが放還したと答えておいたのは、殺したといったら、騒ぎが大きくなるからと思ったのでいまさら考えれば、じつに申しわけないが、自分はあの場合やむをえない処置として悪いとは思っていない。警視庁へも報告したが何とも自分の進退に関して言ってこない。自分もまた辞表を提出しようとも考えていない。(東京電話)」 (大阪毎日新聞、十月十二日)
 しかし総同盟会長の鈴木文治は、当時いあわせた幾多の証人の言をひいて、亀戸署長の言を反駁している。第一に、平沢らは拘引前になんの不穏挙動もなく、かえって罹災者救済のために活動していた。第二に、平沢らがほうりこまれたその夜の警察ははなはだ静粛で、革命歌も聞こえなければ、さわがしくもなく、ただ終夜銃声のみが聞こえた。第三に平沢らは手錠をかけられていたらしく、殺されるときには抵抗をせず、また抵抗ができなかったという。(鈴木文治「亀戸事件の真相」、『改造』 一九二三年十一月)
 種蒔き社では「亀戸の殉難者を哀悼するために」翌一九二四年一月に事件関係者の記録を集めて『種蒔き雑記』を出し、とくに「この雑記の転載をゆるす」と断り書きを付した。これによっても、殺された平沢、川合らはいずれも夜警に出ており、自警団の朝鮮人迫害をおしとどめたことはあっても、なんら不穏な行動をとっていなかったことがわかる。
 平沢と川合について、土田杏村はこう書いている。
「ぼくが従前からその思想を知っていたのは、平沢計七、川合義虎の二人である。前者は『労働週報』の編輯者であり、後者は南葛労働組合の幹部であった。南葛労働組合の名をぼくが知ったのは、本年春、本所の汽車会社事件のときからであったが、この事件は労働者のうちの集中主義派と自由連合派の争いのもっとも露骨になったものとして有名であった。川合義虎らの南葛労働組合はそのなかの集中主義派にぞくしていた。川合の書いた論文は『労働新聞』などにのっているが、その趣旨は自由連合主義を攻撃したものであり、彼ら自身の立場については語るところがない。しかしボルシェヴィズムにかたむいた組合の集中主義を信奉していたことだけは疑うべくもない。
 平沢計七は『労働週報』の編輯者であったから、ぼくはもっともひんぱんに彼の思想をうかがうことができた。彼は労働組合の発達に力を注いでおり、社会主義やアナーキズムにたいしては、なるべく中立的態度を取ろうとしていたようである。これは編輯者たる彼の地位がそうさせたのでもあろうが、とにかく彼はつねにそのことを公言していた。一時『労働週報』は自由連合派にかたむくもののごとくみえ、その種の論文がたくさんにのった。しかるに平沢が編輯署名人になってからは、その態度がすっかりのぞかれ、両派の意見を公平に掲載し、平沢自身はそれに中立的の態度を持した。ぼくはひそかに彼の編輯ぶりに感心していたものである。
 新居格が『週報』の立場を『解放』に書いて、『週報』は従来自由連合主義にかたむいていたが、最近にはふたたびボルシェヴィキの態度を復活させるそうだと書いたときには、平沢はすぐにそれを誤報だと取り消して、
『労働週報はアナーキーでもなければ、ボルシェビキーでもない。合同派でもなければ、自由連合派でもない。いま労働者共通の階級意識を訴えて、資本主義を倒す剣であり、その事実を報道する筆である。同時にまた、全労働者の友情に訴えて、意志の疎通、感情の融和を計る「暖き手」である。』 (『労働週報』 一九二二年十二月十二日)
 と書いた。
 ぼくはさらに平沢が、たんなる暴力主義者ではなく労働争議の場合には、つねに穏健の手段を取ることにつとめてきた人だということを、ここへとくに記載しておきたい。大島製鋼所の争議に平沢が加わっていたため、官憲は彼をその煽動者ともくし、あらゆる圧迫の手段をとったとき、彼が憤慨して書いた一文のなかにつぎの言葉はよく彼の態度を語っている。またその煽動は事実でなかった証拠には、平沢自身が書いているとおりに、彼は監獄へもどこへもぶち込まれずにすんだのである。
『おれはかつて労働争議に関係したことが、過去七、八年間にわたって、百件以上にのぼっている。しかしながら幸か不幸か、いまだ暴行事件をひき起こしたことはない。それは一面急進論者にたいして相すまんことであると思っているが一面、悲惨な谷底へ蹴落さるる労働者を見るにしのびなかったからである。』 (『労働週報』 一九二二年十一月二十一日)
 こうした態度の平沢が、いかに混乱をきたしたときとはいえ、古森警察署長のいうごとき事実をなしたとは、どうしても考えられない。」 (土田杏村 『流言』)
 川合義虎は、坑夫出身で渡辺政之輔とともに南葛労働会を組織した闘士で、共産青年同盟の委員長でもあった。吉村光治も南葛労働会の闘士だが、孝行息子で評判だった。震災のときには、病母を背負って避難し、しもの世話までしている。実兄の南喜一は弟を殺されたことに憤慨し、やがて共産党に入党して活躍した。(のちに水野成夫とともにもっとも早く転向し、一九六二年当時国策パルプの重役であった。)
 立花春吉も亀戸署に検束されたひとりだが、あやうく助かった。彼は亀戸署の凄惨な模様をこう供述している。
「身の危険を感じたので、私は九月三日亀戸署に保護を願い出た。自分のいた室は奥二階の広い室で、行った当日は二十人ぐらいを全部鮮人の人であったが、四日ぞくぞく増して、たちまち百十名以上の大人数になり足をのばすことさえできなくなった。
 四日の朝便所にいったら、入口のところに兵士が立番をしていてそこに七、八人の死骸や○○○○○○にムシロをかけてあった。また横手の演武場には血をあびた鮮人が三百人ぐらい縛られていたし、そのほかの軒下に五、六十人の支那人が悲しそうな顔をしてすわっていた。
 四日夜は凄惨と不安にみちていた。銃声がぽんぽん聞こえて翌朝までつづいた。しんとして物音ひとつ聞こえない。ただ一人の鮮人がかなしい声をあげて泣いていた。
『自分が殺されるのは、国に妻子をおいてきた罪だろうか、私の貯金はどうなるだろう』
 この怨言はさびしく、悲しく、聞くにしのびがたいものであった。
 翌朝立番の巡査が言った。
『昨夕は鮮人十六名、日本人七、八名殺された。鮮人ばかり殺すのでない。わるいことをすれば日本人も殺す。おとなしくしていてわるいこともなければ殺されないぞ』
 そのとき、ふと私は〈南葛労働組合の川合〉という言葉を聞きつけた。三人ばかりの巡査が立ち話をしているのだ。〈やられたな〉と私は急に自分の身がおそろしくなった。
 五日便所へいく道で、日本人らしい三十五、六歳の男が二人はだかにされて手を縛られているのを見た。一人は頭に傷があり、一人は半死半生の状態であった。
 その夜また数十人殺された。銃と剣で。
『いやな音だね。ズブウと言うよ』
 窓からのぞいてみた老巡査が妙なアクセントで、ほかの二人の巡査に話していた。」 (「地獄の亀戸署、『種蒔き雑記』)
 藤沼栄四郎にいたっては、はるかあとの九月十八日になって検束され、亀戸署で半死半生の目にあわされた。芝浦に荷揚げの仕事があることがわかったので、失業者救済のため、
「会員にして職を求むるものは三田四国町労働総同盟本部に来たれ、なるべく朝六時半まで、南葛労働会本部」
というビラを刑事の承諾をえてはったのに、軍隊から言いがかりをつけて留置されたのである。
 多数の警官のなかには、しぶしぶ手を下したものもいる。八島京一は平沢計七のグループの一人だったが、彼は、九月四日の朝、顔なじみの巡査から、ある告白を聞かされた。
「自分は三、四人の巡査が荷車に石油と薪をつんでひいていくのと出会った。そのうち友人の丸山君を通じて顔なじみの清一巡査がいたので二人は言葉をかわした。
『石油と薪をつんでどこへ行くのです』
『殺した人間を焼きに行くのだよ』
『殺した人間…』
『ゆうべ人殺しで徹夜までさせられちゃった。三百二十人も殺した。外国人が亀戸管内に視察にくるので、きょういそいで焼いてしまうのだよ』
『みな鮮人ですか』
『いや、なかには七、八人社会主義者もはいっているよ』
『主義者も…』
『つくづく巡査の商売がいやになった』
『そんなにおおぜいの人間をどこで殺したんです』
『小松川へ行くほうだ』 (「平沢君の靴」、『種蒔き雑記』)
 虐殺が組織的におこなわれたことは明らかであろう。
 虐殺をわずかに逃れた人びとで、現在なお社会運動に活躍している人も少なくない。
「南葛労組の指導者として(川合らと)起居をともにしていた黒田寿男は、…震災の日の前夜、腸チフスで入院したため、千葉騎兵連隊の刺殺からまぬがれた。浅沼稲次郎や稲村順三や北原竜雄や森崎源吉やなどは近衛騎兵連隊の営倉から移されて淀橋警察戸塚分署に拘留されていたので、これも命拾いをした。私は平沢計七の斬られた首を胴体の横に据えて写されたガラス板の写真の原板を持っておったが、いつとなく失ったことは残念でたまらない。」 (鈴木茂三郎 『ある社会主義者の半生』 一九五八年)
 川合らは、たんに兵士の銃剣で刺し殺されたのではなかった。おそらく鈴木が失くしたのと同じだと思われる写真が、志賀義雄の『日本革命運動の群像』(一九五六年)にかかげられている。(p.142~51)

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-03-22 06:32 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(11):亀戸事件(16.10)

 『九月、東京の路上で 1923年関東大震災 ジェノサイドの残響』(加藤直樹 ころから)から引用します。
警察署の中で 1923年9月4日 火曜日 朝 亀戸署

 朝になって立番していた巡査達の会話で、南葛労働組合の幹部を全員逮捕してきてまず2名を銃殺した、ところが民家が近くにあり銃声が聞こえてはまずいので、残りは銃剣で突き殺したということを聞きました。私は同志の殺されたことをここで始めて知り、明け方に聞いた銃声の意味も判りました。
 朝になって我慢できなくなり便所に行かせてもらいました。便所への通路の両側にはすでに3、40名の死体が積んでありました。この虐殺について、私は2階だったので直接は見て居ませんが、階下に収容された人は皆見ているはずです。虐殺のことが判って収容された人は目だけギョロギョロしながら極度の不安に陥りました。誰一人声をたてず、身じろぎもせず、死人のようにしていました。
 虐殺は4日も一日中続きました。目かくしされ、裸にされた同胞を立たせ、拳銃をもった兵隊の号令のもとに銃剣で突き殺しました。倒れた死体は側にいた別の兵隊が積み重ねてゆくのを、この目ではっきり見ました。4日の夜は雨が降りましたが、虐殺は依然として行われ5日の夜まで続きました。(中略)
 亀戸署で虐殺されたのは私が実際にみただけでも5、60人に達したと思います。虐殺された総数は大変な数にのぼったと思われます。(全虎巌)

 労働組合の活動家たちが殺された事件はその後、「亀戸事件」と呼ばれるようになる。平沢計七や河合義虎など10人が、9月3日夜、亀戸署に検束され、警察の要請を受けた軍(騎兵13連隊)によって殺害されたのである。平沢らが殺された日については、3日夜という説と4日夜という説があるようだ。殺された10人のうち、平沢以外の多くは20歳そこそこの若さだった。
 しかし、このとき殺されたのは彼らだけではない。自警団4人と、そして人数もわからない多くの朝鮮人たちがいた。
 …亀戸署は管内に工場が密集し、労働運動が盛んに行なわれていたため、これに対する取締り、監視を重要な任務とする公安色の強い警察署であった。震災当時の署長の古森繁高も、もとは警視庁特高課労働係長であった。ようするに左翼や外国人を敵視する雰囲気がほかの警察署以上に強かった。
 さらに震災直後、亀戸署の管内は混乱が激しかった(四ツ木橋、大島、亀戸駅周辺も管内)。「闘争、殺傷在所に行はれて騒擾の巷と化したれども、遂に鮮人暴行の形跡を認めず」と同署が記録している。
 警官隊は、軍とともに騒擾の現場に出向いては朝鮮人を検束。1000人を超える朝鮮人、中国人で署内はすし詰め状態だった(これに対して、署員の数は230人程度)。これは決して朝鮮人を保護することへの積極性の表れではなく、むしろ「不逞鮮人」検束への積極性の結果である。
 警視庁は前日の3日以降、勝手にリンチを行うなといった内容のビラをまくなど、権力のコントロールのきかない自警団の活動を抑え込み始めた。朝鮮人暴動の実在に否定的になってきた現われでもあるが、この時点ではまだあいまいだった。
 亀戸署では拘留中の日本人自警団4人も殺害されている。自警団の4人は彼らの行動をとがめた警官に日本刀で切りかかったとして逮捕されていた。房内で「殺すなら殺せ」と騒ぎ続けたという彼らに対して、亀戸署は軍に要請して殺害させたのである。そこから、活動家や朝鮮人の虐殺が始まる。
 証言者の全虎巌(チョン・ホオム)は、共産主義者の河合義虎などが指導する南葛労働組合のメンバーだった。学校に通うため2年前に来日した全は、朝鮮独立への思いから社会変革の必要を考えるようになり、この頃、ヤスリ工場の労働者として労組の活動を熱心に行っていた。
 2日以降、街中で自警団が朝鮮人を襲うのを目にして、全は身の危険を感じる。警察で朝鮮人を収容し始めていると聞き、その方が安全だと判断。2日昼ごろ、工場の日本人の友人たち10数人に取り囲んでもらいつつ、亀戸警察署に向かったのである。道すがら、竹やりが刺さった朝鮮人の死体をあちこちで見た。
 亀戸署に収容されていた朝鮮人には、自警団の襲撃を逃げのびて自らやって来た人も多かったことを、全の証言は伝えている。だが、亀戸署内は外よりも危険な場所であった。
 全は7日まで亀戸署に置かれ、その後、習志野の旧捕虜収容所に送られた。4日午後4時に戒厳司令部が東京付近の朝鮮人を習志野の収容所などに保護収容することの命令を出したのだ。この収容は10月末まで続いた。解放されたあと、全はいったんは帰国を考えるが、やはり亀戸に戻ることにする。組合の仲間たちの安否を確かめたかったのだ。
 亀戸事件-亀戸署における10人の活動家殺害は大々的に報じられて問題となり、政府も10月、事実を認めたが、軍の適正な行動であったとして誰も罪に問われることはなかった。一方、同じときに同じ署でおきた朝鮮人虐殺については、真相の一端さえ明らかにされないままである。(p.72~5)

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-03-21 06:30 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(10):浄心寺(16.10)

 梅屋敷を右に曲がって路地にはいり、すこし歩くとお目当ての浄心寺に到着。本堂のすぐとなりに「亀戸事件犠牲者之碑」がありました。

 合掌

 碑の下部には犠牲者の氏名と年令が刻まれていました。
川合義虎 22 加藤高春 27 北島吉蔵 20 近藤慶造 20 佐藤欣司 22 鈴木直一 24 平澤計七 34 山岸実司 20 吉村光治 24
 碑文を転記しておきます。
 1923年(大正12年)9月1日関東一帯を襲った大震災の混乱に乗して天皇制警察国家権力は特高警察の手によって被災者救護に献身していた南葛飾の革命的労働者9名を逮捕、亀戸署に監禁し戒厳司令部直轄軍隊に命じて虐殺した。惨殺の日時場所ならびに遺骸の所在は今なお不明である。労働者の勝利を確信しつつ権力の蛮行に斃れた表記革命戦士が心血をそそいで解放の旗をひるがえしたこの地に建碑して犠牲者の南葛魂を永遠に記念する。
 1970年9月4日 亀戸虐殺事件建碑実行委員会

犠牲者之碑誌
 この犠牲者之碑を建立して23年の歳月を経た。この間研究の努力によって、中筋宇八 24も亀戸事件の犠牲者であることが立証された。当実行委員会は事件70周年記念事業のひとつとして、このことを確認し、碑にとどめる。なお、碑の改修にあたり、碑文等一部を書き改めたことを付記する。
1993年9月5日 亀戸事件追悼会実行委員会
 共産党員渡辺政之輔を指導者とする南葛労働会は川合義虎などの若い組合活動家を擁し、大正末期から悪法反対運動やメーデーの示威運動、亀戸での工場ストライキを指導するなど、果敢な運動を展開していました。亀戸警察署は同会をつねに敵視しており、それがこの虐殺につながったのですね。(『日本の歴史29 労働者と農民』 中村政則 小学館 p.309)

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-03-20 07:23 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(9):亀戸梅屋敷(16.10)

 東向島駅に戻り、東武スカイツリーラインで押上へ、半蔵門線に乗り換えて錦糸町へ、そして総武線に乗り換えて亀戸駅に着きました。めざすは浄心寺にある「亀戸事件犠牲者之碑」です。明治通りを北へ向かって歩いていくと、亀戸梅屋敷という商業施設がありました。
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 ん? てことはなにかいご隠居さん、歌川広重が江戸百(名所江戸百景)の一枚として描いたあの梅屋敷がここかい。説明板がありましたので、後学のために転記します。
 江戸時代、亀戸には呉服商伊勢屋彦右衛門の別荘があり、その庭には見事な梅の木が生えていました。立春の頃になると江戸中から人々がやってきて、この地はたいへん賑わったといいます。特に、「臥竜梅」と呼ばれた一株が名高く、水戸光圀や徳川吉宗も賞賛したそうです。
 また、歌川広重により描かれた浮世絵「亀戸梅屋敷」は、江戸の時代に海を越え、かのゴッホが模写するなど、日本のみならず世界から評価された傑作と言えるでしょう。
 フィンセント・ファン・ゴッホがパリにやってきた1886(明治19)年当時、浮世絵版画がヨーロッパで流行し、かつ安価で手に入ったそうです。(『週刊グレート・アーティスト ゴッホ』 同朋舎出版) その大胆な構図、装飾的色彩、力強い輪郭に魅せられて、熱心に収集した中の一枚、「亀戸梅屋敷」を漢字とともに模写したのですね。日本からもたらされた浮世絵がヨーロッパ美術に大きな影響を与えた、いわゆる「ジャポニズム」という動きがあったことは定説です。たとえば、美術批評家のI・E・シェスノーが、1878年にこうした言葉を残しています。
 その熱狂は、あたかも導火線の上を走る炎のような勢いであらゆるアトリエに拡がっていった。人々は、構図の思いがけなさ、形態の巧妙さ、色彩の豊かさ、絵画的効果の独創性、そしてさらに、そのような成果を得るために用いられている絵画的手段の単純さを嘆賞してやむことがなかった。
 ただその影響を過大視するのは慎んだ方がよいかと思います。画家のJ・ピサロは、1893年の手紙でこう書き記しています。
 日本の展覧会は驚嘆すべきものだった。広重は素晴らしい印象派画家だ…。これら日本の芸術家たちは、私たちの考え方が間違ってはいなかったということを改めて確認させてくれる。
 写真の登場によって、これまでの絵画に対する考え方を再考しなければならなかったヨーロッパの画家たちはさまざまな試行錯誤をはじめており、その動きの大きな触媒となったのが浮世絵だったと思います。素人考えですが。

 それはさておき、「名所江戸百景」は私の大好きな浮世絵連作です。大胆かつ斬新な構図はもとより、江戸という町に対する広重や庶民の愛着がびしびしと伝わってきて羨ましくなってしまいます。江戸ってこんなにも、人々に愛された町だったのですね。中でも一番好きな絵は…うーん…迷うところですが「深川洲崎十万坪」を挙げましょう。なお『謎解き 広重「江戸百」』(原信田実 集英社新書)という好著もあるので、お薦めします。
# by sabasaba13 | 2017-03-19 07:53 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(8):法泉寺(16.10)

 八広駅から京成押上線に乗って押上駅へ、そして東武スカイツリーラインに乗り換えて東向島駅に到着です。印刷して持参した地図を片手に十分ほど歩くと法泉寺に着きました。うろうろ探していると、本堂右手の一角に「感謝の碑」がありました。
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 建立したのは鄭宗碩(チョン・ジョンソク)さん。韓国の抵抗詩人・金芝河(キム・ジハ)とも親交があるそうです。彼の祖父一家は、関東大震災時に自警団によって殺されそうになりますが、働いていた工場長の真田千秋さんによって命を救われました。鄭さんは、2001年9月1日に、墨田区向島にある法泉寺(真田家の菩提寺)に、自費をなげうってこの「感謝の碑」を建立しました。

 碑文を転記します。
一九二三関東大震災の混乱のさ中 わが祖父鄭化九一家を虐殺の危機より救ってくださった故真田千秋先生のご恩を生前の父鄭斗満から常々聞かされ深く感銘をうけておりました 遥かな年月を経てしまいましたが先生の崇高な人間愛とその遺徳を讃えここに謹んで感謝の碑を建立させていただきます
二〇〇一年九月一日  迎日鄭氏家門一同
 しかし建立までには、ある経緯がありました。鄭さんの言に耳を傾けましょう。
 ただ、その間、碑を建てるまでには、一年半ほど間があったわけですが、碑を建てるというまでの考えはなかなか持ち合わせなかったというのが、本音のところなのです。こうした慰霊碑等はわれわれ在日の人間よりも日本人側で積極的に具体化させるべきではなかろうかという思いが強かったことがあります。
 しかしながら、先ほど話に出ました墨田区内での民間のボランティアの方々のその活動で2000年から2001年にかけて墨田区議会に陳情をして、碑を建てるために土地の提供ならびに管理の申し入れを正式にしたわけですね。ところが、それが継続審議になり、翌2001年の3月には否決されました。
 否決された具体的な理由、否決した側の立場からいいますと、関東大震災で虐殺されたという具体的な事実は墨田区内にはない。もうひとつはよしんばその事実があって慰霊碑を建てたとしても区民の利益にはなりえないということが理由だったわけですね。区議会、具体的には企画総務委員会というところで審議されていたのですけれども、私は傍聴していまして何とも気持ちのやり場がなかった。この委員は、本当に区民に選ばれた良心を持った方々なのであろうかと、憤懣やるかたないという心情でした。こうした、良識のかけらもない人たちが、墨田区の代表として選ばれた人たちなのであろうかという思いが強くて悶々としていました。そんな時に、知人の韓国の陶芸家金九漢(キムグハン)さん相談しましたところ非常に積極的で、ぜひこれを実現させようじゃないかと言ってくださいました。この方は、60年代の韓国の民主化で都合六年間牢獄に繋がれていた民主化運動の闘士でもあったのですね。そういう意味で、人権の抑圧ですとか、不条理に関しては正義感を人一倍燃やす人でした。(『世界史としての関東大震災』 関東大震災80周年記念行事実行委員会編 日本経済評論社 p.97~8)
 朝鮮人虐殺を忘却あるいは隠蔽しようとする日本人に対する怒りが、この碑に結実したことを銘肝しましょう。虐殺はたしかにあったのだ、そして少ないながらも朝鮮人を救った日本人もいたのだ、という事実を未来へ伝えようとされたのでしょう。
鄭さんと金さんは、犠牲になった人たちの霊を慰め、朝鮮民族の気概を日本や世界に示そうと、朝鮮文化の真髄のひとつ、陶磁器の焼き物で碑を作ることにしました。高さ約1メートル50センチ、重さ約450キログラム。それを韓国国内で製作し、土台の石は韓国全羅南道産の烏石という黒御影としました。そして一番上には民族の気概を表わす白頭山を配して、そこに金剛山もあわせる。それに、朝鮮では10の平和と長生きを象徴する日・月・鶴・松・不老草をあしらい、象嵌手法で仕上げたのが、この「感謝の碑」です。(同書 p.98)

 最後に、鄭さんの言葉をもう一つ引用します。
 最後に、ここ二、三年、少なくとも今年に入りまして、具体的には「創氏改名論」や、朝鮮植民地に対する「合法論」「国際的容認論」などといった発言が現役の閣僚の中から相次いで飛び出す事態は、昨日今日に始まったことではないのですが、歴代政権が誕生するたびにこうした暴言を吐いているということに関して、深い憤りを覚えるわけです。これは私だけでなく、民族全体からしてもとうてい我慢のならない憤激をかうという事態であります。
在日には、在日子弟の教育問題で大学受験の資格を認めない。欧米系の学校に関しては認めるけれども、朝鮮学校の卒業生に関しては認めない、教育の機会均等をうばう、こういう面でも差別をしている。ただ、この問題に関しては、非難轟々、世界から批判をされ撤回をしまして、いまは前進をしているという方向にあります。「私はこのごろ新聞ですとかテレビもつけたくない。テレビをつけると『北』の核だ、ミサイルだ、拉致だという問題が、報道されない日はない」そういうことをおっしゃる方がおりました。
私はいま冷静に判断しても、悪者扱いというこの流れが、偏見差別を助長する動きとして、具体的には「北」にまつわる問題だけではなくて、これがひいては在日朝鮮人に、アジアの民衆にいくのではないだろうか。これはもう韓国・朝鮮を問わず、国籍・所属団体を問わず、その矛先がやがてはどういう方向にいくのだろうかと思います。「草の根の右翼」という言葉もあるそうですけれども、こういう若い層の考えもかなりの広がりを持っているという話を私は聞くたびに、危惧をするわけなのです。昨日の報告の中でもあったのですけれども、世田谷区では自警団を組織したことに関して評価の声が上がったりしている。私がじかに目撃したものでは外国人犯罪に気をつけましょうという、いわゆる外国人排斥思想を煽りたてるであろう東京北区での町内会の各掲示板がありました。中国人の犯罪であるとか韓国人窃盗団であるとか、そういうニュースをエスカレートさせて、その矛先を結局どういう方向にむけていこうとしているのか。
私は80年前のその関東大震災のその異常事態といまの流れと本質的にどれだけの差があるんだろうかということを今も考えたりしているのですけれども、しかしながら時代は大きく変わっていくと思うのですね。逆風の中にあるとは思いますけれども、これは私がいつまでも長く続くとは思っておりません。(同書 p.101~2)

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-03-18 08:53 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(7):八広(16.10)

 言葉もありません。日本という国家は、そして日本国民は、なんて下劣で卑劣で愚劣で低劣なのでしょう。こうした過ちはもちろん弁護の余地はありませんが、どこの国家でも国民でも軽重の差はあれ過ちを犯すものです。問題はそれを過ちとして認め、真相を究明し、責任の所在を明らかにして該当の者に責任をとらせ、被害者・遺族・関係者に謝罪・賠償をすることです。それを隠蔽し、誤魔化し、責任もとらず謝罪もしなかった。そして政府や公的機関がいまだにしていない。国民もそうした政府の姿勢を批判もせずに、無知・無関心をきめこむ。そういう国家や国民は…恥知らずとしか言えません。共犯者の一人として、この歴史を調べて考えて、すこしでも多くの人に伝える努力をしていきたいと思います。

 碑の右どなりのお宅には「ほうせんかの家」という看板がかかっていました。こちらが「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」の本部なのですね。「ヘイトスピーチ、許さない。」というポスターが貼ってありました。社会的な少数者や弱者をいじめて快感を得るという卑劣なメンタリティはいまだに根強くのこっているのですね、やれやれ。

 それでは八広駅へと戻りましょう。途中に、「不審な人を見たらすぐ110番 ちかんに注意」という看板がありました。痴漢を弁護する気は毛頭ありませんが、こういう体感治安を悪化させるような看板やポスターが増えているような気がします。ほんとうに治安は悪化しているのでしょうか。深読みかもしれませんが、みんなが治安に不安を感じると利益を得る輩が陰で蠢いているのではないかと思ったりします。警備会社とか、監視カメラ業界とか、セイフティグッズ業界とか、そこへの天下りをねらっている警察官僚とかね。また私たちが相互監視の網を張り巡らすと、ほくそ笑む方々がいそうです。ちょっと心にとめておいた方がよい動きですね。そうそう、以前に長崎県の大村で「あの人は何か変だぞ110番」という強烈なポスターを見かけました。
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 本日の二枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-03-17 06:33 | 東京 | Comments(0)

言葉の花綵155

 朝鮮・台湾・樺太・満州という如き、わずかばかりの土地を棄つることにより、広大なる支那の全土を我が友とし、進んで東洋の全体、否、世界の弱小国全体を、我が道徳的支持者とすることは、いかばかりの利益であるか計りしれない。(石橋湛山 『大日本主義の幻想』)

 だから、自分の目で見ようと思ってぼくはイラクに行った。バグダッドで、モルスで、また名を聞きそびれた小さな村で、人々の暮らしを見た。ものを食べ、互いに親しげに語り、赤ん坊をあやす人の姿を見た。わいわい騒ぎながら走り回る子供たちを見た。そして、この子らをアメリカの爆弾が殺す理由は何もないと考えた。(池澤夏樹)

 私たちは、明日も生きていられるかどうか
 わからないことが
 怖いのです。
 殺されたり、傷つけられたり、
 将来を奪われたりすることが、
 悔しいのです。
 お父さんとお母さんが
 明日もいてくれることだけが望みだなんて、
 悲しいのです。(シャーロット・アルデブロン 『私たちはいま、イラクにいます』)

 西洋は今日、叡智を熱望しています。それは原子爆弾の増産への絶望のしるしであります。なぜなら原子爆弾の増産は、聖書の予言が的中して、-願わぬことですが-いっさいが大洪水にさらわれてしまうかのように、西洋だけではなく全世界を完全に滅ぼしてしまうからです。世界に向かって、その不正と罪を告発するのが、みなさんの責務です- (マハトマ・ガンディー)

 悲観主義者が、星々の神秘を探求したり未知の土地に航海したり、人の魂にふれる新しい扉を開いたことはこれまで一度もない。(ヘレン・ケラー)

 すなわち生を維持し促進するのは善であり、生を破壊し生を阻害するのは悪である。(シュヴァイツァー)

 沖縄戦の実相にふれるたびに/戦争というものは/これほど残忍で/これほど汚辱にまみれたものはない/と思うのです/この/なまなましい体験の前では/いかなる人でも/戦争を肯定し美化することは/できないはずです/戦争を起こすのは/たしかに/人間です/しかし/それ以上に/戦争を許さない努力のできるのも/私たち/人間/ではないでしょうか (沖縄「不戦の誓い」)

 人を殺して実現する正義はない。「平和のための戦争」とは自己矛盾である。単純な論理です。(竹中千春)

 政策遂行の手段としての戦争を否定し、軍隊を保持しない日本は、もし、一国の安全ということがあるとすれば、全世界で最も安全な国です。日本を危険にさらすものは、無軍備よりはむしろ在日アメリカ軍基地です。それは日本を攻撃目標に変えてしまうからです。(セント・ジェルジ 『狂った猿』)

 すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。
 実はこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってせば、ついに怨みのやむことがない。堪え忍ぶことによって、恨みはやむ。これは永遠の真理である。(ブッダ 『スッタニパータ』)

 何人も他人を支配する権利を自然から受けなかった。(ディドロ)
# by sabasaba13 | 2017-03-16 06:27 | 言葉の花綵 | Comments(0)

『沈黙』

c0051620_6242871.jpg マーティン・スコセッシ監督が、遠藤周作の『沈黙』を映画化したという新聞広告を見て、これはぜひ見に行こうと決意。お恥ずかしい話、スコセッシ監督の作品は見たことがありませんが、その御高名はよく耳にします。その名監督が遠藤周作の名作『沈黙』をとりあげるのですから、期待に胸は弾みます。
 とある日曜日、山ノ神とユナイテッドシネマとしまえんへ参上。ほぼ席は埋まっており、こうした真摯な映画を見られる方がこれだけいるのかと安心しました。食指のまったく動かない予告編をさんざっぱら見せられたあと、ようやく上映開始です。公式サイトから、ストーリーを転記します。
 17世紀、江戸初期。幕府による激しいキリシタン弾圧下の長崎。日本で捕えられ棄教(信仰を捨てる事)したとされる高名な宣教師フェレイラを追い、弟子のロドリゴとガルペは日本人キチジローの手引きでマカオから長崎へと潜入する。
 日本にたどりついた彼らは想像を絶する光景に驚愕しつつも、その中で弾圧を逃れた"隠れキリシタン"と呼ばれる日本人らと出会う。それも束の間、幕府の取締りは厳しさを増し、キチジローの裏切りにより遂にロドリゴらも囚われの身に。頑ななロドリゴに対し、長崎奉行の井上筑後守は「お前のせいでキリシタンどもが苦しむのだ」と棄教を迫る。そして次々と犠牲になる人々―
 守るべきは大いなる信念か、目の前の弱々しい命か。心に迷いが生じた事でわかった、強いと疑わなかった自分自身の弱さ。追い詰められた彼の決断とは―
 なお余計なお世話ですが、その時代背景について関連の書籍から引用します。
『世界史のなかの戦国日本』(村井章介 ちくま学芸文庫)
 また、伝来以来半世紀のあいだに、おもに九州地方や畿内で急激に信者を拡大したキリスト教は、つぎの二点において、統一権力にとって危険な存在となりつつあった。
 第一に、信者たちが「日本的華夷観念」をはるかに超越した「デウス」に、死後をもふくめた精神のよりどころを得たことである。それが中世的な「一揆」の伝統と結びつくことにより、幕藩体制的な領主支配を拒否するてごわい抵抗の論理となったことは、1637~38年の島原・天草一揆に示されている。
 第二に、イベリア両国のカトリックと植民勢力の合体による、日本の「インディアス化」の危険性である。肥前大村領内では、全領民のキリシタン化を望む純忠の政策により、万単位での改宗者があいつぎ、ついに1580年、純忠は長崎と茂木を教会領に寄進するにいたった。これを受けてイエズス会は、ポルトガル人を中心に両地を要塞化し、87年豊臣秀吉が最初のキリシタン禁令を発すると、キリシタン大名に軍事援助を行なって秀吉への武力抵抗を組織することをもくろんだ。
 秀吉や家康は、布教を貿易から切りはなして禁止することを考えていたが、イベリア両国の世界進出が両者を車の両輪として行なわれた以上、それは不可能であった。けっきょく徳川幕府は、キリシタン禁止を旗じるしに、1630年代までに、対外交通の国家による徹底した管理体制(いわゆる鎖国体制)を築くと同時に、在地の郷村にキリシタンがいないことを証明させる「宗門人別改」を通じて、17世紀なかばまでに、戸籍制度に相当する領民把握のシステムを創出した。(p.221~2)

『天皇の世紀』(大佛次郎 文春文庫)
 江戸時代を通じて長い年月の間、日本に於ける切支丹宗門の絶滅を政府が方針としたのは、島原の乱のような大規模な農民の一揆が以前にあって、その再発を現実に恐れた故もある。幕府を中心とした封建体制を維持する上に、異国の勢力が国内に入るのを排斥した鎖国政策と並んで、切支丹を絶対に国内に入れまいとしたので、これが幕府という大建造物の大切な土台石となる方針なのを信じて採ったことである。鎖国に依って外国人の入国を拒絶したところで、切支丹信仰という西からの勢力が国内に浸潤するのを許して置いては、幕府の体制が知らぬ間に危うくなる。
 切支丹に迫害を加えたのは、鎖国が発令される以前からであった。為政者は切支丹の絶滅を期待した。代々それこそ極度で、周到なものであった。一人なりとも、生かしておかぬ方針だったとも言える。いつの世にも人間の弱いところで役人たちは地位の安全を計って上からの命令を極限まで持って行った。手柄を立て他人の犠牲の上に自己の利益を打算した。刑罰は手段を尽して惨虐なものに化した。隠れている信者への見せしめと考えた。(第11巻 p.14)
 冒頭から息を呑むような緊迫した場面の連続です。見つかったら命にかかわる密入国と潜行、隠れキリシタンの村人たちとの交流、彼らに対する凄惨な迫害、殉教と棄教に揺れるキリシタンたち、そして杳として分からぬ師の行方。まだ生きているのか、殺されたのか、まさかキリスト教を棄てたのか。彼らの不安と苛立ちがひしひしと迫ってきます。そしてとうとう捕えられたロドリゴに対して、長崎奉行の井上筑後守は棄教を迫ります。しかも彼を拷問にかけるのではなく、彼の面前で日本人の信者たちを拷問にかけることによって。彼が信仰を守り抜けば信者は苦しみの末に殺される、彼が信仰を棄てれば信者の命は助かる。苦悩するロドリゴ、拷問にさらされ塗炭の苦痛に喘ぐ信者たち、しかし神は黙っています。

 たいへん重いテーマです。人々の苦しみに対してなぜ神は沈黙しているのか。この当時も、そして今も、日本や世界各地で苦しむ人々を、神はなぜ放置しているのか。スコセッシ監督は答えを出していません。答えではなく問いかけを、私たちにつきつけています。いっしょに考えましょう、と。

 たまたま最近読んだ『釜ヶ崎と福音』(岩波現代文庫)のなかで、本田哲郎司祭はこう述べられていました。
 わたしたちは礼拝で、手を合わせ、心を澄ませて、「神さま、あなたが全能であることを信じます。どうか、この人の病気を治してください」と祈るわけですが、それで病気が治るのだったら、医者はいりません。しかし、わたしたちはけっこう本気で、そう信じてしまっているところがあります。祈れば治るはずだ、と。アフリカで飢饉に苦しんでいる人を助けたいと思って、自分は動かずに一所懸命祈って、こう期待する。「神さまは、きっと飢えている人たちに食物を送ってくださるはず」と。自分が動いて、自分で送らなければ、あるいは仲間たちに声をかけ、呼びかけて行動にむすびつけなければ、神の力のはたらく場がないのです。神は、必ず人間をとおしてはたらかれる。これが神のはたらきなのです。
 「では、神など信じず、人間が自助努力をすればいいというのと同じではないのか?」 人間の力には限界があり、弱さもあって、それをのりこえるためには、それ以上の力がいる。そこに神の力がはたらく。神が共にはたらいてくださるという実感、それは自分のささやかな体験の中で見いだしていくしかない。(p.171)
 神は何も語らず何もしない。しかし神はいつも共にいてくれる、そして人間をとおして苦しむ人びとを救う、これが答えのひとつなのかもしれません。

 もうひとつ興味深い…というよりも心胆が寒くなったのは、「日本は沼のような国だ」という台詞です。たぶん信念が根づかずに、立ち枯れてしまう文化風土だということだと思います。信者たちの信念を棄てさせて権力に屈服させる文化。ほんとうに信念を棄てたか否かは問わず、また新たな信念を強要もせず、外見だけでも権力に屈従すれば生存を許される文化。
 そういえば小倉寛太郎氏が、講演のなかで次のように話されていました。
 それでは、労働組合の役目とは何か? まずは労働者の錯覚を正すことにある。その錯覚とは「自分(労働者)はこの企業で働くために生まれてきた/この企業のために生きている」ということである。もう一つは、無能・無責任な経営者を監視すること、経営の在り方についてのお目付役をすること、失敗したら経営者にきちんと責任を取らせること、である。ところが経営者側にとっては、そんなことはさせたくない。そこで経営者側の反撃が始まる。労働組合を丸抱えするか(御用組合化)、分裂させるか(第二組合の結成)である。後者のケースが多いが、そこで経営者が行なうのが組合分裂工作、つまり脅迫と誘惑である。第一組合に残れば「出世をさせない」と脅かし、第二組合に入れば「主任にしよう」と誘惑する。人間は「正しい/正しくない」という行動基準を持つべきだが、しかし人間は弱いものでもある。経営者側の脅迫と誘惑にあい、損得勘定をし、正/不正を考えず、自分の弱さに屈し、第二組合に移ってしまう人が多い。つまり、組合分裂工作とは、人間が自分の弱さに屈することにお墨付きを与える、いいかえれば企業による人間性の破壊である。
 国歌や国旗の強要も、この文脈でとらえられるかもしれません。ほんとうに日本を愛しているのかは問わないし、愛するに値する国であるか否かもどうでもいい。とにかく外見だけでも権力に屈服しろ、と。「正しい/正しくない」という行動基準を立ち枯らせる沼のような国…

 以前におとずれた出津で、「沈黙の碑」に出会いました。本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-03-15 06:25 | 映画 | Comments(0)

『高木仁三郎セレクション』

 政府は、福島原発事故による避難地域の指定をせっせと解除しています。事故原因の究明も進まず、その収束の見通しもつかず、放射性廃棄物の対策もたてられず、放射能はだだ漏れし、原発事故避難者に対するいじめが蔓延し、被害者への補償が打ち切られるといった暗澹たる状況が続いているのに。ハロルド・ピンター氏が言ったように、『何も起こりはしなかった』ことにしたいのでしょう。政治家・官僚は権力を保持するために、自らの生命に関わる真実についてさえ無知である状態に大衆をとどめようと、さらに言葉を操ることによって、事実や真実を覆い隠す。こうした凄惨な事故を引き起こした方々、東京電力、自民党、関係省庁の官僚、原発利権にたかってきた学者やメディアは万死に値するはずです、死刑制度には反対ですが。しかしまともに責任を取ろうとせず、あろうことか再稼働と原発輸出に血道をあげている始末。そして無関心が夜の闇のように、私たちを包み込んで眠らせようとしています。

 こういう状況であるからこそ、原子力発電に反対し、市民の側に立った発言と行動を続けた科学者・故高木仁三郎氏の謦咳に接したいと考え、『高木仁三郎セレクション』(佐高信・中里英章編 岩波現代文庫)を読みました。裏表紙の紹介文を転記します。
 生涯をかけて原発問題に取り組み、最期は原子力時代の末期症状による大事故の危険と、放射性廃棄物がたれ流しになっていく恐れを危惧しつつ2000年にガンで逝去した市民科学者・高木仁三郎。3・11を経てその生き方と思想と業績にますます注目が集まっている。厖大な著作のなかから若い人に読み継がれてほしい二十二篇を精選した文庫オリジナル編集版。
 静謐にして論理的な叙述、エコロジーという観点からの根本的な批判、そして市井の人びとが安心して暮らせるために科学者はどうあるべきかを常に考える姿勢。今なお、多くのことを教示してくれます。いくつかを引用します。
 今度の連続講座をやって、改めて20世紀というのは、つくづく戦争の時代だったなと思うのです。第一次、第二次世界大戦があって、その戦争によって科学技術が発達した。そして、そのカッコ付きの平和利用というか、商業利用、民事利用によって戦後世界は発展してきたのだけれども、それが、いまドサッと問題を出してきた。
 原子力はもちろんそうだし、環境ホルモンもそうだし、ダイオキシンなんかは典型的です。アルミニウムも、いま議論があるところですが、少なくとも危険因子として、やめたほうがいいという話になっています。軽くて固いといったことで、アルミニウムとその合金が使われだすのは、圧倒的に第二次世界大戦の戦闘機その他軍需からなのです。その他の化学物質も、第一次、第二次世界大戦の、戦争のためのいろいろな需要です。その技術の基本原理は殺りく・破壊と競争です。非常に効率よく人を殺せたり、大量に破壊できたり、攻撃に強かったり、攻撃しやすかったりという、強さとか速さとかが、技術の価値の基準になっていた。軍事技術ですから、もちろん安全は二の次だし、あとのゴミをどうしようなんていうことは考えてもみなかった。基本的に刹那主義です。しかも、人間を個としてではなく、マスとして対象としているから、個人に対しては抑圧的・反人権的になる。(p.35~7)

 その背景には、一度決めた計画の非は認めたがらないという官僚機構の問題や、すでに多くの投資をし多くの技術者を抱えている原子力産業の慣性や結んでしまっている商契約による拘束というようなことが絡んでいよう。(p.121~2)

 しかし、これは実験のやりようがないんですね。原子力発電の事故の実験なんてできないわけですから。われわれの常識からいって、普通の実験科学者-私は実験科学者ですが-実験科学者の常識からいうと、実験というのはせめてデータを数十例とりたいですね。たとえば、こういう条件だったら放射能はアウト、完全に漏れちゃった、こういう条件だったら漏れなかった、そういうのをそれぞれ何点もとってみて、こういう条件だったらこの装置はうまく動くという条件を決めて、この装置を使う。こういうふうにしたい。ところが一回漏れたら大災害ですからね。だからそんな実験はできない。
 …ですから、いままでの実証科学という概念が崩れてしまう。完全に。(p.236~8)

 しかし、科学者が科学者たりうるのは、本来社会がその時代時代で科学という営みに託した期待に応えようとする努力によってであろう。高度に制度化された研究システムの下ではみえにくくなっているが、社会と科学者の間には本来このような暗黙の契約関係が成り立っているとみるべきだ。としたら、科学者たちは、まず、市民の不安を共有するところから始めるべきだ。(p.261)

 核エネルギーは、したがって、どんなに平和的にみえる民生利用の場面においても、常に、大量殺りく技術としての牙をむき出しにする可能性を秘めており、この技術の利用は常に緊張のもとに置かれざるをえない。そのため、その利用の推進は、中央集権的な管理体制のもとで、厳重に情報や施設への市民の接近を制限しながら行われることになる。
 かくして、一見非政治的にみえる核エネルギーの推進も、強大な政治権力を背景にしてのみ可能となるという意味において、市民生活に対して政治的支配力をもってしまうのである。そして、むしろその支配力が政治権力にとって魅力となっているとさえ思われる。日本も含めて原子力を推進するほとんどの国々において、実際には核エネルギーがその国の一次エネルギー生産のうちに占める比率は10パーセント以下であるにもかかわらず、このエネルギーの開発に、予算・人材など最大限の精力を傾注し、また、民主主義の原則を否定するような情報の非公開性に各国政府がかくも鈍感でいられるのも、右に述べたこのエネルギーの支配力の魅力の故ではないだろうか。(p.331~2)

 核テクノロジーと人間社会との間に存在する上述のような本質的な非和解性は、さまざまな困難となって現れるが、そのしわ寄せは必ず、もっとも底辺的なあるいは辺境的な人々や社会に押しつけられてくる。これが、核の生み出す差別である。(p.357)
 権力や利潤のためではなく、市民の安心のために貢献する科学技術の必要性。市民と不安を共有し、市民とともに働くという科学者の責務。生涯をかけて、それらを追い求めたその志の高さには感銘を受けます。原子力産業で権益を手にしている方々の燃料となる無関心、無力感、知的・倫理的怠惰を払拭して、彼の跡を継ぐような市民科学者と共に歩んでいきたいと思います。

 追記。最後の解説で、編者の佐高信氏がこう書いておられます。
 高木の一生は、まさに国から民間にパブリックを取り戻す闘いに終始した。
それを恐れたから、国策として原発を推進する有象無象が高木を脅かしたのである。『週刊現代』の2011年5月21日号で、パートナーの高木久仁子がこう言っている。
「嫌がらせはいろいろありました。注文してもいない品物が自宅に届けられたりするのはしょっちゅう。散歩途中に車に轢かれそうになったことも一度や二度ではありません。自宅の前には不審な人物がいつも張り付いていて、講演に出掛けると、一緒に電車に乗ってくる。いちいち驚いていられないほどです。こちらは常に緊張していたけれど、彼は淡々としていましたね」 (p.373)
 嘔吐を催すぐらい卑劣な連中とシステムですね。ここまでして守らなければならないというところに、原子力発電のいかがわしがよくあらわれています。それにしても、反原発運動にさまざまな妨害・いじめ・嫌がらせを行なっている"有象無象"の正体および実名をぜひ知りたいところです。ま、だいたい想像はつきますが。

 追記その二。毎日新聞(17.3.13)によると、東京都内で11日にあった東日本大震災の政府主催の追悼式で安倍晋三伍長が「原発事故」の文言を式辞で使わなかったそうです。福島県の内堀雅雄知事は13日の定例記者会見で、「県民感覚として違和感を覚える。原発事故、原子力災害という重い言葉、大事な言葉は欠かすことができない」と批判したそうな。やっぱりね、何も起こりはしなかった、か。
# by sabasaba13 | 2017-03-14 06:34 | | Comments(0)