虐殺行脚 埼玉・群馬編(23):萩原朔太郎生家跡(14.12)

 そして広瀬川に向かいますが、その途中にあったのが「萩原朔太郎生家跡」という記念碑でした。萩原朔太郎か、私の大好きな詩人です。高校生の時に彼の「夜汽車」という詩を懸命に暗誦したことを甘酸っぱさとともに思い出します。朝日日本歴史人物事典より転記します。
 大正昭和時代の詩人。群馬県前橋市出身。父は開業医の密蔵、母はケイ。前橋中学在学時から創作活動を開始。文芸雑誌に主として短歌を投稿した。明治40(1907)年熊本の五高に入学したが1年で退学。41年岡山の六高に再入学したが43年退学。このころは音楽家を志し、郷里でマンドリンオーケストラを編成、指揮し、作曲を試みた。大正2(1913)年北原白秋主宰の『朱欒』を通じて生涯の友・室生犀星を知り、山村暮鳥を加えた3人で3年人魚詩社を結成し、4年『卓上噴水』を創刊。次いで5年には『感情』を創刊した。6年処女詩集『月に吠える』を刊行。これは近代詩史のうえでは、口語と自由律による全く新しい詩風が開拓されたという意味で画期的な出来事であった。12年には第2詩集『青猫』を刊行。収録された作品には「憂鬱」の語が頻出し、無為と倦怠を主調とした。14年刊行の『純情小曲集』は初期詩編「愛憐詩篇」と「郷土望景詩」を収める。また詩論『詩の原理』、アフォリズム集『新しき欲情』、研究書『恋愛名歌集』『郷愁の詩人与謝蕪村』などがある。その詩風は病的ともいえる鋭い感受性を特徴とするが、みずみずしい抒情から冷徹なシニシズムまで多様な展開を示す。また『月に吠える』の特異な口語脈を生かした自由詩から、昭和9(1934)年刊の『氷島』における漢語を多用した文語定型詩への変化も注目される。
 そして彼は、『現代』1924(大正13)年2月号に、朝鮮人虐殺を憤る『近日所感』という詩を掲載しました。
朝鮮人あまた殺され
その血百里の間に連なれり
われ怒りて視る、何の惨虐ぞ
 たとえ異民族であろうとも、罪なき人間がなぶり殺されたことを怒る真っ当な方がいたことは救いです。しかし少数派であったことも否定できない事実。なぜ下劣な差別意識がこれほど蔓延したのか/しているのか、きちんと考えたいと思います。そうしないとまた我々は惨劇を繰り返しそうな恐怖に襲われます。
 なおJR前橋駅に「萩原朔太郎ゆかりの駅」という記念プレートがあることも紹介します。

 本日の一枚です。
c0051620_12412781.jpg

# by sabasaba13 | 2016-12-05 20:34 | 関東 | Trackback | Comments(0)

虐殺行脚 埼玉・群馬編(22):前橋(14.12)

 本日はまず前橋へ移動です。両毛線に乗って十五分ほどで前橋駅に到着。駅前で貸自転車「マエチャリ」を借り受けました。午前八時から借りることができるので便利です。まず目指したのは、群馬でもっとも歴史のある公会堂、群馬会館です。昭和天皇の即位を記念して、1930(昭和5)年に建設された県内最初の公会堂だそうです。ルネサンス様式を採り入れた重厚な建物ですが、スクラッチタイルが洒落た雰囲気を醸し出しています。
c0051620_618089.jpg

 その近くあるのが、1928(昭和3)年に竣工された群馬県庁本庁舎です。鉄筋コンクリート造3階建で、外壁は1階部分が石張り、2・3階がスクラッチタイル張りになっています。群馬会館にくらべて、こちらは官僚的な重厚さを感じますね。
c0051620_6183665.jpg

 偶然見つけたのが松山医院、前面に並んだ三角屋根がラブリーですね。おとぎ話に出てくる館のようです。
c0051620_6191877.jpg

 とろとろペダルを踏みながらふと路地を見やると喫茶店がありました。よろしい、モーニングサービスをいただきながらこれからの行程を確認しましょう。りんごトーストを頬張り、香り高いコーヒーを楽しみながら、地図と観光パンフレットで道順をチェックしました。このひと時が至福なんですね。ごちそうさまでした。
c0051620_620732.jpg

 まずは1932(昭和7)年に完成した前橋カトリック教会聖堂へ。正面に聳え立つ、恰幅のよい二つの塔が印象的です。
c0051620_6204949.jpg

# by sabasaba13 | 2016-12-03 06:21 | 関東 | Trackback | Comments(0)

虐殺行脚 埼玉・群馬編(21):高崎(14.12)

 もう一つ目に入ったのが「維新史に名を残す知将小栗上野介の顕彰慰霊碑」です。転記します。
 明治近代化の大きな業績を残した上野介は、徳川幕府崩壊に伴い現在の倉渕町権田に隠棲。しかし、「反逆の企てあり」として慶応4(1868)年西軍に捕らえられ、水沼川原で斬首されました。終焉の地には顕彰慰霊碑が建っています。
 倉渕村にある水沼橋のたもとにあるとのことです。また近くの東善寺には、彼のお墓があるそうです。これは是非訪れたい…のですが、高崎駅からバスで70分。かなり遠いですね、襟を正して再訪を期すことにします。
 小栗上野介忠順、彼の名を聞くと心が震えます。1827(文政10)年に幕臣の子として誕生、万延元年(1860)に日米修好通商条約批准のため渡米、地球を一周して帰国しました。その後勘定奉行、軍艦奉行などを務め、財政再建や日本初の株式会社(兵庫商社)の設立や郵便制度と鉄道建設の計画、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行います。幕末期には徳川慶喜の恭順に反対し、徹底抗戦を唱えたと言われます。(これについては諸説あり) 1868(慶応4)年に辞職して上野国群馬郡権田村に帰郷しますが、同年薩長軍に逮捕され烏川のほとりで斬首されてしまいます。ま、要するに明治政府の行った近代化政策のほぼすべての面において先鞭をつけた能吏だったのですね。「小栗上野介は謀殺される運命にあった。明治政府の近代化政策は、そっくり小栗がおこなおうとしたことを模倣したことだから」という大隈重信の言葉がありますが、その才能を怖れた薩長勢力が謀殺した可能性もあります。彼は、アメリカで見た重工業の総合工場をつくって日本の近代化が進めようと幕閣を説得し、ヴェルニーと共に江戸湾を見まわって、絶好の場所・横須賀を見つけて横須賀製鉄所を建設します。現地を指揮した栗本鋤雲は明治中頃に当時を思い出しこう語っています。「小栗は、これが出来上がれば、土蔵付き売家の栄誉が残せる、と笑った」 いい言葉だなあ。彼は幕府の滅亡を見越した上で、日本の近代化に必要な施設として横須賀製鉄所をつくったのですね。先見の明、広い度量、そして並外れた才能。私は彼のことを学校の授業で教わった記憶がありません。なぜ歴史教育が彼の存在を無視してきたのか、一考の価値はあります。おそらく江戸幕府の後進性と明治新政府の進歩性・正当性を子どもたちにすりこむためには、目障りな人物だからでしょう。
 なお以前に掲載した書評、『覚悟の人 小栗上野介忠順伝』(佐藤雅美 岩波書店)と『持丸長者 幕末・維新編 日本を動かした怪物たち』(広瀬隆 ダイヤモンド社)もよろしければご笑覧ください。また横須賀にあるヴェルニー公園には彼の胸像があります。また高崎市倉渕商工会のホームページには倉渕にある小栗上野介関連史跡案内図がありました。さらにさらに彼のお墓がある東善寺のホームページは、小栗上野介に関するたいへん充実したコンテンツがあります。その中で紹介されていたのですが、福地源一郎著の『幕府衰亡論』によると小栗はこう言ったそううです。
 一言で国を滅ぼす言葉は「どうにかなろう」の一言なり。幕府が滅亡したるはこの一言なり。
 うわお、安倍伍長、東京電力を筆頭とする原発マフィアの皆様方に熨斗をつけて進呈したい言葉です。
 そしてホテルに戻り、シャワーを浴びて、地酒を一献傾けながら明日の旅程に思いを馳せました。この時間が至福なんですね。

 本日の一枚です。
c0051620_6275216.jpg

# by sabasaba13 | 2016-12-02 06:28 | 関東 | Trackback | Comments(0)

虐殺行脚 埼玉・群馬編(20):高崎(14.12)

 それではもう一つのお目当て、日本聖公会高崎聖オーガスチン教会聖堂へと向かいます。歩道には自転車レーンが設置されていました。さすがは高チャリを提供する町、見識を感じます。途中に黒塗りの重厚な商家がありましたが、解説によると明治15年頃に建てられた旧山源漆器店でした。『七人の侍』に登場する島田勘兵衛のような風格、町のランドマークですね。
c0051620_6374253.jpg

 印刷して持参した地図を見ながら右往左往して、ようやく日本聖公会高崎聖オーガスチン教会聖堂に着きました。1929(昭和4)年に建てられた高崎初の鉄筋コンクリート建築で、四角い鐘楼が印象的です。なお古い教会を訪ねていると"聖公会"という組織によく出会いますが、それについての解説板がありましたので後学のため転記します。
 私たちの高崎聖公教会はイエスをキリスト(救い主)と信ずるキリスト教会で、イギリス国教会(アングリカン・コミュニオン)の一員です。(中略) 聖公会の信仰の特色は「あれかこれか」式の二者択一を避ける「あれもこれも」式の包括性にあると言うことができます。聖公会はカトリックともプロテスタントとも呼ばれますがローマカトリック教会がローマ流のカトリック教会であるのと同じように英国流のカトリック教会なのです。
 なるほど…よくわかりません。ごめんなさい。
 教会の近くには、煉瓦造のりっぱな蔵があるお宅がありました。それでは高崎駅に戻って夕食をいただきましょう。途中にあった「あがり歯科医院」はモダンな造形、おそらく戦前の物件でしょう。
c0051620_6381550.jpg

 そして高崎駅に到着。自転車をラックに返却し、駅ビルの中にある「登利平」でご当地B級グルメの鳥めし重をいただきました。舌鼓を打ちながら、さきほどいただいた観光パンフレットを見ていると、「だるま生産量日本一 高崎だるま」という記事がありました。
c0051620_6384548.jpg

 何の後学になるのかわかりませんが、とりあえず転記しておきます。
 年間約90万個をつくり、日本一の生産量を誇る「高崎だるま(筆者注:登録商標です)」。まゆ毛は鶴、ひげは亀を表し、別名「福だるま」「縁起だるま」とも呼ばれています。
 だるまと群馬県で盛んな養蚕との関わりは深く、蚕の脱皮を「起きる」、繭になることを「上がる」と言い、七転び八起きのだるまは養蚕の縁起物とされました。
 だそうです、はい。

 本日の二枚です。
c0051620_6391045.jpg

c0051620_6393428.jpg

# by sabasaba13 | 2016-11-30 06:40 | 関東 | Trackback | Comments(0)

虐殺行脚 埼玉・群馬編(19):高崎(14.12)

 それでは今夜の塒、高崎へと向かいましょう。群馬藤岡駅から八高線に十数分揺られると高崎駅に到着です。観光案内所で地図と観光パンフレットをもらって駅前に出ると、ん? 貸自転車らしきものが並べられています。高チャリ? 解説を読むと、ハンドルについているキーボックスに100円硬貨を入れると、チェーンキーがはずれてラックから取り出せます。返却するときは、チェーンキーをボックスに差し込むと鍵がかかり100円が戻ってくるという仕掛けです。ブラーボ、ブラーバ、ブラービ、アミーゴ! なんて素晴らしいアイデアなんだ。こうしたシステムが普及して、自転車レーンを拡充して、駐車料金を高額にして、重量税を大幅に引き上げれば、化石燃料を貪欲に喰らい、有害物質を吐き出し、騒音で静かな環境を破壊し、人様を死や怪我へと追いやる悪魔の機械をかなり駆逐できるのではないでしょうか。高崎アーバンホテルにチェックインをして荷物を置き、高チャリをお借りしてしばし高崎の町を散策することにしました。
c0051620_6291547.jpg

 まず訪れたのは豊田屋旅館本館です。1932(昭和7)年に建てられた老舗旅館で、正面の庇や唐破風に風格を感じます。
c0051620_629448.jpg

 次なるはモダンな意匠のコンサートホール、群馬音楽センターです。アントニン・レーモンドによって設計された建築で、竣工は1961(昭和36)年です。アントニン・レーモンド(1888‐1976)は、チェコ出身の建築家。フランク・ロイド・ライトのもとで学び、帝国ホテル建設の際に来日しました。その後日本に留まり、モダニズム建築の作品を多く残し、日本人建築家に大きな影響を与えました。私も彼の建築が好きで、これまでもカトリック新発田教会聖パウロ教会東京女子大学を訪れたことがあります。
 アントニン・レーモンドの名前が出たついでに、一つエピソードを紹介しましょう。[参考文献:『建築探偵 神出鬼没』(藤森照信 朝日新聞社 p.108~9)] 日本で活躍したレーモンドは1938(昭和13)年にアメリカに帰国し、軍が立案した計画に参加することになります。それは「空襲」という日本の木造都市だけに有効な世界初の戦略で、アメリカ軍もその実効性には疑問がありました。そこで日本の都市や建築事情を知悉しているレーモンドを招き、彼の指導でユタ州に木造の町が作られ、繰り返し燃やされたそうです。戦後、彼は再び来日し活動を開始しますが、当然の如く日本の建築家から強い批判をあびることになります。しかし彼はこの計画に参加した理由については、黙して語りませんでした。藤森氏はその理由について、こう推測されています。レーモンドはチェコ出身で、彼が建築の勉強のため渡米した後、ナチス・ドイツによる侵攻が行われました。その際に、彼の五人の弟と妹は、ある者は国外脱出をはかって処刑され、ある者は強制収容所に送られて消息を絶ってしまいます。彼は、ナチス・ドイツと手を組む日本を叩くことによってしか、自分たちは救われないという思いがあったのではないか。そして以下は私の推測ですが、戦後彼が高崎の音楽センター建設に献身的に協力したのは、ある種の罪滅ぼしの意があったのではないか。うーむ、建築の歴史あり、ですね。
 なお同センター内には「アントニン・レーモンド ギャラリー」があり、群馬音楽センターや旧井上邸の模型の他、数点のパネル、プロフィールが展示されているとのことです。今回は時刻も遅く中に入れなかったので、再訪を期しましょう。
c0051620_6302618.jpg

c0051620_6304717.jpg

# by sabasaba13 | 2016-11-29 06:31 | 関東 | Trackback | Comments(0)

虐殺行脚 埼玉・群馬編(18):成道寺(14.12)

 憎まれ、呪われ、責任を問われなければ、また同じことを繰り返す。自明の理です。それでは加害者たちは憎まれ、呪われ、責任を問われたのか。違いました。まず国家権力は、こうした事件の本質をできうる限り隠蔽し、その実態を軽微なものに見せかけ、さらには責任の追及も表面的・微温的なものでした。『日本の歴史14 明治時代中期から1920年代 「いのち」と帝国日本』(小学館)の中で、小松裕氏はこう述べられています。
 関東大震災下の朝鮮人・中国人虐殺は、まぎれもなく日本歴史の一大汚点である。しかし、さらに問題であったのは、その後の日本政府の対応であった。虐殺の真相糾明を妨害したばかりか、国際世論の批判を緩和させようと、朝鮮人による大逆事件を仕立てあげたのである。
 1923年(大正12)9月5日、臨時震災救護事務局警備部打ち合わせが開催され、暴走する自警団の取り締まりに加え、国際的非難を恐れての宣伝の方針が決定された。それは、「赤化日本人」と「赤化鮮人」の煽動があった事実を強調することと、朝鮮人の被害を少なく、日本人の被害を多く宣伝するというものであった。こうして、関係者に対する口止めと隠蔽工作が始まる。
 だいぶあとのことになるが、野戦重砲兵第一連隊第六中隊の久保野茂次は、11月28日に、中隊長から〈震災の際、兵隊が沢山の鮮人を殺したそのことにつきては、夢にも一切語ってはならない〉と訓示されたことを日記に記している。
 政府は、朝鮮人の犠牲者数を、内務省警保局が231名、司法省が233名(加えて東北・沖縄出身の日本人59名が犠牲になったと)、朝鮮総督府が832名と発表した。朝鮮から来た金承学(キムスンハク)を代表とする罹災同胞慰問団は、官憲の妨害や、新聞社、一般民衆の非協力のなかで調査を進め、最終的に6661名の同胞が犠牲になったと発表した。こうした政府の姿勢は、政府に協力的であった右翼の内田良平さえ批判していたのである。
 それに加えて政府は、自警団に責任を転嫁しようとして、10月1日から自警団員の大量検挙を始めた。しかし、因果を含めての検挙であったことは、そのほとんどが無罪か執行猶予付きの判決であり、収監された人も、1924年1月26日の皇太子結婚の恩赦で釈放されていることから判明する。なおかつ、1926年には、叙勲されたり恩賞をもらったりしているのである。
 加害者の側も罪悪感はほとんどなく、地域全体で彼らをかばっていた状況がうかがわれます。東京の千歳村(現世田谷区)での様子を、『九月、東京の路上で』(ころから)の中で、加藤直樹は次のように記されています。
 「このとき(12人が起訴されたとき)千歳村連合議会では、この事件はひとり烏山村の不幸ではなく、千歳連合村全体の不幸だ、として12人にあたたかい援助の手をさしのべている。千歳村連合地域とはこのように郷土愛が強く美しく優さしい人々の集合体なのである。私は至上の喜びを禁じ得ない。そして12人は晴れて郷土にもどり関係者一同で烏山神社の境内に椎の木12本を記念として植樹した。今なお数本が現存しまもなく70年をむかえようとしている」「日本刀が、竹槍が、どこの誰がどうしたなど絶対に問うてはならない。すべては未曽有の大震災と行政の不行届と情報の不十分さが大きく作用したことは厳粛な事実だ」 …烏山神社には、当時植えられた椎の木のうち4本が残り、参道の両側に高くそびえている。(p.50)
 私たちは、この冷厳たる事実ときちんと向き合い、そして学んだのでしょうか。"歴史から学ぶことのない人は、その歴史を再度生きることを運命づけられている"、ヨハン・ガルトゥングの言です。どうやら私たちは、差別と人権蹂躙という運命にまた甘んじなければならない暗い予感がしてなりません。

 本日の一枚です。碑文には“非常の死”という曖昧な表現が記されていました。
c0051620_1935042.jpg

# by sabasaba13 | 2016-11-27 19:35 | 関東 | Trackback | Comments(0)

虐殺行脚 埼玉・群馬編(17):成道寺(14.12)

 もう一つは、群馬県玉村町町会議員石川まさお氏のブログです。
 1923年9月1日の関東大震災に際し、デマ・流言飛語により全国で6000人とも言われる朝鮮人が日本人の手により虐殺された。藤岡市でも9月5日、藤岡警察に「保護」されていた朝鮮人17人が、警察に乱入した自警団により虐殺された。
 当時の藤岡警察は成道寺の隣にあり、当時の藤岡町長の依頼で成道寺に埋葬された。以来、墓地には犠牲者の慰霊碑が建てられ、先代の住職自筆による当時の状況が書かれている。

 〈流言や官民やや狼狽の色ありて、各県皆在郷軍人会、青年団、消防団を持って自警団を組織し、各自獲物をもって昼夜警す。ただし、警察、役場より通知を発し組織せしむ。なお、警察は自警団に対し朝鮮人を発見次第警察に同行して来たれと命ず。ときに人心激高の極みに達し、朝鮮人と見れば皆敵国人を見るがごとく、殺気充満す。たまたま、新町鹿島組配下岩田金治郎方に雇いし者12名、他より5名、当藤岡署に保護す。
 民衆9月4日武州本庄町神保原にて百数十人撲殺の実況を視察し、藤岡もかの例にならい、国賊朝鮮人を撲滅すべしとなし、警察に談判すること数日、ついに夜8時ごろより10時、民衆数千人警察前に集まり、拘置所を破壊し、16人引き出し、門前にて撲殺し警察に並べて死の山となす。なお7日の夜、民衆非常に激昂し、残りの一人の朝鮮人を拘置所より出し、殺し、警察を破壊し、8時より11時までまったく無警察状況となり。乱暴すること非常なり。当夜警鐘を乱打す。18日町役場より命を受け
岡住豊吉(朝鮮人の日本名)ら17名の朝鮮人の死体を集め大葬す。即ち、遺骨は成道寺墓地に埋める〉 一読慄然、肌に粟が生じます。これが人間のすることか… こうした虐殺事件の裁判で、朝鮮人のために尽力した弁護士・布施辰治の、臓腑を抉るような言葉を思い起こします。
 殺されたものの霊を吊(とむら)うの前に先ず殺したものを憎まねばならぬ、呪わねばならぬ、そしてその責任を問うべきである。

 本日の一枚です。
c0051620_5281111.jpg

# by sabasaba13 | 2016-11-26 05:29 | 関東 | Trackback | Comments(0)

虐殺行脚 埼玉・群馬編(16):成道寺(14.12)

 閑話休題。さて肝心の成道寺ですが、目抜き通りから路地を入ったところにありました。見事な屋根瓦が印象的ですが、やはり地元産なのでしょう。道路をはさんだ向かい側に墓地があり、そこに入ったすぐ右側に慰霊碑がありました。
c0051620_6332264.jpg


合掌

 いったいここ藤岡では何が起きたのか。まずは『関東大震災』(吉村昭 文春文庫)から引用します。
 群馬県多野郡藤岡市では、九月二日頃から早くも朝鮮人来襲の流言が、東京方面からの避難者の口から伝わりはじめていた。そしてその日、同郡鬼石町の自警団員が不審な朝鮮人一名をとらえて藤岡町の藤岡警察署に連行した。
 警察では、その朝鮮人を検束して厳重な取調べをおこなったが、かれには自警団員の訴えるような不穏な点は全く見られなかったので、五日に釈放した。
 が、その頃藤岡町の空気は極度に険悪なものになっていた。それは前日に埼玉県本庄町等で起った朝鮮人殺害事件の発生が伝わってきたためであった。しかもその報せは、朝鮮人が貨物自動車で本庄町等に来襲した結果起ったものであるとして伝えられたので、町民の恐怖はたかまり、夜も自警団が交代で検問と警戒をつづけていた。
 その頃、内務省から朝鮮人来襲説は根拠のない流言にすぎないという指示があって、県警察部では朝鮮人の保護に手をつけはじめていた。
 そして、藤岡警察署でも警察部からの指令で五日早朝に朝鮮人労働者ら十七名を署内に収容し、震災後の行動を取調べていた。
 藤岡町では、それら朝鮮人が警察に検束されたことを知って不穏な空気がたかまった。
 そして、日没頃から自警団員らが、竹槍、棍棒、鳶口、日本刀、手槍、猟銃等をたずさえて各所に集りはじめ、警察に向かって動きはじめた。人の流れは他の流れと合流し、日が没した頃には、警察の周囲に群衆がひしめいていた。
 自警団員は群衆とともに気勢をあげて喧騒をきわめたので、勤務中の巡査部長が五名の署員とともに応接した。これに対して自警団員数名が、
 「九月二日に、われわれ自警団が不逞朝鮮人をとらえて警察に渡したのに、警察ではろくに調べもせず釈放したのはどういうわけだ。このように朝鮮人の来襲が各地で起っている時に、釈放するなどとは論外だ」
 と、激しくなじった。
 巡査部長は、
 「不審な点が全くないことがわかったので釈放したのだ」
 と答えたが、自警団員らは承服せず、警官に荒い言葉を浴びせかけはじめた。
 群衆も曖昧な警察側の回答に憤激し、
 「今、鮮人をどこにかくしている。逃がしたのだろう。嘘をつくとただではすまないぞ」
 と威嚇し、さらには署内にいる朝鮮人を引渡せと要求した。
 提灯の灯はさらに増して、凶器を手にした群衆の数は五、六百名に達し、かれらは口々に朝鮮人を引渡せと叫んだ。
 「やっつけろ、やっつけろ」
 と煽動する声に、自警団員と群衆は警察署内に乱入した。そして、留置場の板塀をこわし、場内になだれこんだ。
 かれらは狂ったように看守巡査を殴打し突き倒し署内を荒し廻った。そして、
 「朝鮮人をかばう警察は、社会主義だ」
 「朝鮮人をにがした警察官は殺してしまえ」
 と、口々に叫び、遂に留置場から朝鮮人十七名中十六名を引きずり出して殺害してしまった。
 さらに翌日の夜にも、約千名の群衆が押しかけて投石の後署内になだれこみ、重要書類を場外に持ち出して焼却し、署長官舎にも乱入して家財を叩きこわした。そして、その日収容していた朝鮮人一名を路上にひきずり出して殺害した。
 この間、署員は群衆の慰撫につとめたが、暴徒化した群衆を制圧することが出来ず殺害事件を傍観する形になった。(p.178~80)

 本日の一枚です。
c0051620_6342321.jpg

# by sabasaba13 | 2016-11-24 06:35 | 関東 | Trackback | Comments(0)

虐殺行脚 埼玉・群馬編(15):藤岡(14.12)

 児玉駅から八高線に乗って、十分ほどで群馬藤岡駅に到着です。山小屋風の洒落た駅舎は、1931(昭和6)年だそうです。さて時刻はそろそろ午後三時、さすがに空腹となりました。藤岡には、「藤岡ラーメン」「トンコロ」「キムトマ焼きうどん」「肉巻きライスドッグ」といった食指をそそられるご当地B級グルメがあるそうですが、残念ながらお目にかかれませんでした。駅周辺をぶらぶら歩いていると「麦挽屋今助」という蕎麦屋があったのですが、残念ながら昼休みでした。いたしかたない、その近くにあったイトーヨーカ堂に寄って「ポッポ」という軽食屋で、焦がし玉葱ラーメンとキムチチャーハンをいただきました。
c0051620_83217.jpg

 それでは慰霊碑が立つ成道寺へと向かいましょう。途中に旧倉林歯科医院という古い病院がありました。さて、成道寺はどこかなとうろうろしていると…こ、ば、た…やった、久方ぶりの「こばた物件」を発見しました。車に気を付けて向こう側に渡り、慎重に撮影。井上陽水ではありませんが、♪さがすのをやめた時、見つかることもよくある話で♪というやつですね。これは嬉しい。マンホールの蓋は鬼瓦の意匠ですが、児玉瓦と同様、このあたりも良質な粘土が取れる瓦の一大産地だったようです。あるお宅の玄関には「雷除 雷電神社」というお札が貼ってありました。そうか、このあたりは雷もよく落ちるのですね。雷除けの呪文としては「くわばらくわばら」が有名です。御霊となって雷を落としまくった菅原道真ですが、自分の領地である桑原荘にだけは落とさなかった、という伝説から生まれたようです。
c0051620_834871.jpg


 本日の二枚です。
c0051620_841043.jpg

c0051620_843257.jpg

# by sabasaba13 | 2016-11-23 08:05 | 関東 | Trackback | Comments(0)

虐殺行脚 埼玉・群馬編(14):児玉(14.12)

 なおこちらには「児玉地域文化財マップ」があったので、再訪のために撮影しておきました。
c0051620_8202437.jpg

 つらつらと眺めると…「秩父事件 金屋戦争激戦地」がありました。しかし旧給水塔の先にあるので、これから戻るとすればかなり時間がかかります。これからの予定もあるし、泣いて馬謖を斬る、訪れるのは断念しました。再訪を期しましょう。こんな時に折りたたみ自転車があればなあ…と、これは伏線です。
 秩父事件については、先日掲載した秩父編でふれましたので、よろしければご一読を。金屋戦争については、「秩父事件と和同開珎」というサイトに下記の記述がありました。
 しかし、皆野の本営が崩壊した後も、各地で戦闘が行われています。「恐れながら天朝様に敵対するから加勢しろ」の大野苗吉らが指揮する5~600の部隊は、塙保己一の故郷・旧児玉町(現本庄市域)の金屋に転戦し、鎮台兵70余及び警察官と小銃戦となりました。この戦闘では、困民党側に死者6名、負傷者9名、軍・警察側に負傷者4名が出ました。大野苗吉は、この最中、銃弾を受けて倒れたと伝えられています。
 ここ児玉は、塙保己一の故郷だったのですね。なお彼の墓所は東京の愛染院にあります。

 それはさておき、以前にも書きましたように、秩父事件とは、進行しつつある近代(優勝劣敗の競争社会)化に対し、「弱者を助けない強者には制裁を加えてよい」という前近代の社会通念(モラル・エコノミー)に基づいた抵抗だと考えます。しかし警察と軍隊の前に敗れ去り、こうした抵抗は消滅しました。言うなれば、秩父事件は近代化に対する最後の抵抗でした。以後民衆は、他者を蹴落とすためにひたすら勤勉に働くことになります。しかし(当然ですが)ほとんどの民衆は強者・富者になれず、心には不安感・孤立感・劣等感が宿ることになります。それらを解消するために、ナショナリズムと差別意識が、民衆の間に浸透していったのではないでしょうか。強大な国家の一員であると意識して、自尊心と一体感を感じるナショナリズム。弱者(女性・被差別部落・アイヌ・沖縄人・朝鮮人・中国人)を見出すことによって、優越感・満足感を充足させる差別意識。関東大震災時における朝鮮人虐殺は、このナショナリズムと差別意識が結びつき、暴発した時に起こったのではないでしょうか。

 本日の一枚です。
c0051620_8205259.jpg

# by sabasaba13 | 2016-11-21 08:21 | 関東 | Trackback | Comments(0)