関東大震災と虐殺 14

 こうした軍隊による朝鮮人虐殺を目撃した福島善太郎氏の証言も紹介しておきます。(④p.47~8)
 「二日の昼下がり私は市川の町へはいる十町余り手前の田圃道を途中で配給された玄米の握り飯で腹をこしらえて歩いていました。遂ぞ見たこともない大型の陸軍飛行機が幾度ともなく炎熱の空を飛んで行きました。鴻ノ台(※国府台)騎兵隊が幾組ともなく避難民の列を引き裂いて砂塵を上げて駆け走ってゆくのでした。
 『朝鮮人を兵隊が叩き殺しているぞ』『暴動を起そうとした片割れなんだ!』『太え野郎だ!畜生!』『うわあっ!』 今迄引きずるように歩いていた避難民の群衆が恐ろしい叫びをあげて勢いよく走りだしました。つい私もつりこまれて走っていました。そして一町近く走ったとき、群衆の頭越しの左側の田圃の中で恐ろしい残虐の事実をはっきり見たのです。粗い絣の単衣を着た者、色の燻んだ菜葉服を着た者達が七人後ろ手に縛りつけられて、しかも数珠つなぎになって早口に叫んでいました…。『ほざくな野郎!』 突然一人の兵隊が銃剣の台尻を振りかぶったと見るや一番端で矢鱈にもがいていた男の上にはっしと打ち降しました。『あっ』 さすがに群衆に声はなかったのです。そして一様に顔をそむけました。やがて恐る恐る視線を向けたときには頭蓋骨はくだかれ鮮血があたり一面に飛び散り、手足をピクピクと動かしていました。『あはははは、ざまあみろ』…『こいつら、みんな叩き殺してしまえ!』『よしきた、畜生!』『やい! 不逞鮮人奴! くたばりやがれ!』
 十人余りの兵隊が一斉に銃剣や台尻を振りかぶりました。あの二日の午後二時前後に、市川へ渡る橋の手前数町のところで、この事実を目撃した人たちが必ずあるにちがいない。
 胸を貫かれて、かすかに空を仰いだだけで息絶えた者、二の腕を殆ど切り落とされんまでに斬られて、泥田の中へ首を突っ込んでもがいていた者、断末魔の深い呼吸を泥といっしょに吸いこんだため、胸を苦しげに大きく波打たせていたもの等々の光景をいま思い出してもぞっとします。…二度目は二日の夕方、菊川橋際で工場の焼跡整理のかえり、素っ裸にされて、電線でぐるぐる巻きにされて、鳶口や日本刀を持ったひとたちにめった殺しにされている二人の朝鮮人をみたのでした」(『民族の棘』 p.25~26)
 旧四ツ木橋付近でも、軍隊による朝鮮人殺戮が行なわれました。(⑨p.76~8) なお2009年9月、「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」によって追悼碑が建立されました。詳細は拙ブログの記事をご参照ください。

 証言のいくつかを紹介します。
「四ツ木橋は習志野の騎兵(連隊)でした。習志野の兵隊は馬で来たので早く来ました。なんでも朝鮮人がデマを飛ばしたそうで…。それから朝鮮人殺しが始まりました。兵隊が殺したとき、みんな万歳、万歳をやりましたよ。殺されたところでは草が血でまっ黒くなっていました」 (高田〈仮名〉)

「一個小隊くらい、つまり2、30人くらいいたね。二列に並ばせて、歩兵が背中から、つまり後ろから銃で撃つんだよ。二列横隊だから24人だね。その虐殺は2、3日続いたね。住民はそんなもの手をつけない、まったく関知していない。朝鮮人の死体は河原で焼き捨てちゃったよ。憲兵隊の立ち合いのもとに石油と薪で焼いてしまったんだよ」 (田中〈仮名〉)

「四ツ木橋の下手の墨田区側の河原では、10人くらいずつ朝鮮人をしばって並べ、軍隊が機関銃でうち殺したんです。まだ死んでいない人間を、トロッコの線路の上に並べて石油をかけて焼いたですね」 (浅岡重蔵)

「9月5日、18歳の兄といっしょに二人して、本所の焼けあとに行こうと思い、旧四ツ木橋を渡り、西詰めまで来たとき、大勢の人が橋の下を見ているので、私たち二人も下を見たら、朝鮮人
10人以上、そのうち女の人が1名いました。兵隊さんの機関銃で殺されていたのを見て驚いてしまいました」 (篠塚行吉)
 これは…戒厳軍です。被災地を戦争状態とみなし、「敵」である朝鮮人を殺戮してよい、そうした命令が出されたわけです。姜徳相氏曰く「宣戦布告なき戦争」です。いや、前述の三・一独立運動や間島での無差別殺戮を考えれば、韓国併合以来続けてきた「宣戦布告なき戦争」の延長といっていいのかもしれません。(④p.38)
# by sabasaba13 | 2017-09-25 08:15 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

近江編(34):修学院離宮(15.3)

 まずは下離宮の見学です。御幸門を通り抜けると右手奥に袖塀を持つ中門があります。石段をのぼると、後水尾院の御座所となった寿月観の御輿寄です。
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 御輿寄を左に見ながら進むと小さな苑池があり、四隅が反った朝鮮灯篭がいいアクセントになっています。
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 そして後水尾院行幸時の御座所となった建物、寿月観に着きました。なお「寿月観」の扁額は,後水尾上皇の宸筆だそうです。
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 寿月観の東にある小さな滝は、後ろの三角形の石を富士山に見立て、水の落ちる様が白糸を引いたように見えることから「白糸の滝」と呼ばれているとのこと。ここから鑓水が流れますが、緑にあふれたこのあたりの景観は格別です。櫓型灯篭もいい風情ですね。
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 東門を抜けると視界が開け、松並木の間を歩いて中離宮へと向かいます。この松並木は明治になって拡幅整備されたもので、かつては田んぼの畦道でした。なお綺麗に手入れされた松並木ですが、葉や枝を間引いて空間を開けて姿を整えつつも、あたかも人手を加えていないような柔らかな感じに仕上げる「御所透かし」という手法で手入れされているそうです。松並木の間からは,のどかな田園風景を眺めることができます。後水尾上皇は、離宮の造営の際に利用する域を最小限にとどめて他は耕作地として残し、耕作する農民の姿を自然景観に取り入れようとしたそうです。いい気なものですが。現在は農地を買い取り、地元の農家と賃貸契約を結んで耕作を依頼しているそうです。おお、京都市街も微かに見えてきました。
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 本日の二枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-09-24 08:54 | 近畿 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 13

 9月2日、日曜日。軍隊がいよいよ動き始めました。9月1日午後11時より、野戦重砲兵旅団第一連隊の第一、第二、第三救援隊は所在地の千葉県国府台を出発し、橋梁の確保・延焼防止・避難民の誘導・食糧の供給など救援活動を行ないました。しかし、9月2日の朝に出発し、午前十時半に小松川に到着した第四、第五、第六救援隊は朝鮮人虐殺を始めています。(④p.44)
 「望月上等兵と岩波少尉は震災地に警備の任を以てゆき、小松川にて無抵抗の温順に服してくる鮮人労働者二百名も兵を指揮して残虐した。婦人は足を引張りまたを引裂き、あるいは針金を首に縛り池になげ、苦しめて殺したり、数限りのぎゃく殺したことについて、あまりに非常識すぎやしまいかと、他の者の公評も悪い」(『久保野茂次日記』)
 また9月2日早朝より出動した騎兵第十五連隊(習志野)所属の越中谷利一氏が次のような証言を残しています。(④p.46)
 「とにかく、市内の連隊はもちろんのこと、東京周辺の連隊はたいてい戒厳令勤務に服したのであった。そして「敵は帝都にあり」というわけで、実弾と銃剣をふるって侵入したのであるから仲々すさまじかったわけである。ぼくがいた習志野騎兵連隊が出動したのは九月二日の時刻にして正午少し前頃であったろうか、とにかく恐ろしく急であった。人馬の戦時武装を整えて營門に整列するまでの所要時間、僅に三十分しか与えられなかった。二日分の糧食および馬糧予備蹄鉄まで携行、実弾は六十発、将校は自宅から取り寄せた真刀で指揮号令をしたのであるから、さながら戦争気分! そして何が何やら分らぬままに疾風のように兵營を後にして千葉街道を一路砂塵をあげてぶっ続けに飛ばしたのである。亀戸に到着したのは午後二時頃だったが、罹災民でハンランする洪水のようであった。連隊は行動の手始めとして先づ列車改め、というのをやった。将校は抜剣して列車の内外を調べ廻った。どの列車も超満員で、機関車につまれてある石炭の上まで蠅のように群がりたかっていたが、その中にまじっている朝鮮人はみなひきずり下ろされた。そして直ちに白刃と銃剣の下に次々と倒れていった。日本人避難民の中からは嵐のように湧き起る万才歓呼の声! 國賊! 朝鮮人はみな殺しにしろ! ぼくたちの連隊はこれを劈頭の血祭りにして、その日の夕方から夜にかけて本格的な朝鮮人狩りをやりだした」(『越中谷利一著作集』 p.772)
 「戒厳令勤務に服した」「敵は帝都にあり」という証言は重要ですね。兵士たちが戒厳令=戦争状態という認識で、武装して東京に乗り込み、敵=朝鮮人を殺すという意識をもっていたことがわかります。

 次は、騎兵第十四連隊の兵士・遠藤三郎氏の証言です。(④p.54)
 「現に、私といっしょに陸軍大学を卒業した石本寅三-(最優秀で卒業した男、お父さんは陸軍大臣までやった人なんだ)-それがね、習志野の騎兵隊におり、私は国府台の連隊の方で、この地震のとき、やつがやってきましてね。そういう優秀な、陸軍大学を卒業して、しかも軍刀をもらった人ですよ、私より士官学校、三年も古い。それだけのそういう人物が"遠藤君、はさみうちをするから君の方も協力してくれ"という。騎兵隊だけでは逃がすから、私の方で退路を遮断しておいて、騎兵隊で江東方面の朝鮮人たちを皆殺しにしようというわけだ。とにかく殺せば勲章でももらえるように思っているんだから。"とんでもない、そんなバカなことするんじゃない"といって、私は反対したんだけどもね。"しかし、どうも空気はそうだぞ、殺してやらんと住民が承諾せんぞ"というんですね。」
 軍民一体の興奮状態がよくわかります。それにしても"空気"が犯人の一人であるとは…絶句してしまいます。そういえば太平洋戦争を起こしたのも"空気"でしたね、「反対できる空気ではなかった」。また、「朝鮮人を殺すと勲章をもらえる」という意識を持つ兵がいたということに注目します。戒厳令下という戦争状態のなかで、異常な功名心と使命感に燃え狂っている中下級軍人の姿が彷彿としてきます。
# by sabasaba13 | 2017-09-23 07:29 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

近江編(33):修学院離宮(15.3)

 それでは修学院離宮を紹介いたしましょう。「京都観光Navi」の紹介文を引用しますと、1656~59年、後水尾上皇が比叡山麓に造営した広大な山荘で、約54万5000平方メートルの敷地に上・中・下、三つの離宮から構成され、いずれも数寄な趣向の茶亭等が閑雅にめぐらせた池の傍らに立ちます。自然と建物の調和が絶妙です。
 当然、莫大な費用がかかりましたが、これには裏話があります。できたてのほやほやの江戸幕府は、朝廷の権威を利用するために秀忠の娘・和子を後水尾天皇に入内させるとともに、禁中並公家諸法度(1615)を制定するなど、その統制に細心の注意を払いました。さらに、幕府の許可なく天皇が高僧に"紫の僧衣"を与えとして、紫衣を取り上げ、抗議した沢庵らを処罰します。これが紫衣事件。以前から幕府に反発していた後水尾天皇はこれで怒髪天を衝き、幕府の制止も聞かずに、和子が産んだ明正天皇に譲位してしまいました。859年ぶりの女帝ですね。天皇に対する統制の難しさを痛感した幕府は以後、強引な統制をやめソフトな融和策をとることになります。例えば、修学院離宮造営に対する援助もその一環です。その結果、可哀相に東福門院和子は朝廷内において孤立を余儀なくされ、やがて"衣装狂い"にのめりこんでいきました。半年間に、約一億五千万円相当の着物を購入したというのですから、これはもう狂気に犯されていたのかもしれません。そしてその注文先が「雁金屋」、そう、尾形光琳の生家です。彼女が亡くなったのは1678年、その時光琳は二十歳です。薄幸の狂気が、一人の天才芸術家を育んだ…などと想像するのも歴史を知る喜びの一つです。
 余談ですが、沢庵の配流先である春雨庵の記事を以前に掲載しましたので、よろしければご笑覧ください。

 表総門から入り、参観許可証を提示して中へ、参観者休所で待機しますが、桂離宮にくらべて質素な建物でした。さあ出発時間です。参観人数は二十人ほど、前に説明担当の方、後ろに歩みをせかす係の方が配置され、サンドウィッチ状態での見学となります。
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# by sabasaba13 | 2017-09-22 06:24 | 近畿 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 12

 いずれにせよ、こうした流言は誰が生み出したのか。朝鮮人への蔑視感や差別意識、あるいは恐怖感をもっていた民衆から自然発生したという説と、朝鮮人を敵視する官憲が流布したという説があります。今となっては真相を明らかにすることは不可能でしょうが、状況証拠から後者を唱えるのが姜徳相氏です。(①p.47~80) 前述のように、三・一運動や間島・シベリアにおける反日闘争などの激しい独立運動、増大する在日朝鮮人労働者による労働運動の活発化や、日本人労働者との連帯の萌芽などにより、日本の官憲は在日朝鮮人の動きを最大限に警戒・監視していました。例えば、留学生を含むめぼしい者を要視察人とし、甲号視察人には五人、乙号視察人には三人の尾行をつけて日常生活を監視していました。また要視察に該当しない者でも、身辺調査を行ない、人相・特徴・交友関係・日本観などを綿密に記録していました。さらにこうした監視や敵視、独立運動に対する苛烈な弾圧に対して、朝鮮人が反発と憎悪を抱き、非常時には日本人への報復を行なうという予断もあったでしょう。そうした状況において、大震災で発生した火災を見て「朝鮮人の放火」とみなし、パニックの中で「朝鮮人が暴動を起す」という疑心暗鬼に官憲がとらわれた可能性は高い、というのが姜氏の考察です。
 9月1日に流布した流言蜚語の特徴として、発生地が関東一円の広大な地域にわたっていることと、災害(特に火災)が僅少ですみ警察力の回復が速かった地域で流布していることもその証左です。前者については、警察の通信網によって流言が伝えられたようです。例えば、埼玉県入間町では、9月1日午後七時頃、自転車に乗った警察官が町民に対して「爆弾凶器を有する鮮人十一名当町に襲来し内一名捕縛さる、此者は六連発短銃と短刀を携帯す、全町は燈を滅し戸締をせよ」と警告をしています。後日、これが誤報であったことを弁明する際に、入間川警察署は「所沢警察署の命に依りたるもの」「警察及鉄道省の電話が以上同一の言を伝達したるは奇という外なく其根源の何れにあるや詳ならず」と述べています。また警官が流言を流布したという証言も残っています。(③p.24)
 帰宅してみたら焼け出された浅草の親戚の者が十三人避難して来ていた。…昨夜上野公園で野宿していたら巡査が来て○○(※朝鮮)人の放火者が徘徊するから注意しろといったそうだ。(寺田寅彦 「震災日記より」9月2日の条)

 九月一日夕方曙町交番巡査が自警団に来て「各町で不平鮮人が殺人放火して居るから気をつけろ」と二度まで通知に来た…。(『報知新聞』 1923.10.28夕刊)
 9月1日夜半以来、こうした流言は権力中枢に次々と還流しはじめました。各地の警察から、朝鮮人の放火・投毒・暴行に関する同じような情報が上がってくるにつれ、水野錬太郎(内務大臣)・赤池濃(警視総監)・後藤文夫(警保局長)は、予断し警戒していたことを「事実」と看做してしまったのではないでしょうか。植民地化に反発する朝鮮人がとうとう蜂起を開始した。飢えた日本人の暴動も起こりかねない。しかし既述のように、閣議の反対によって戒厳令は施行できません。さあどうするか。

 なお、9月1日には、横浜で立憲労働党総理山口正憲を主謀者とする集団強盗事件が起きています。彼は避難民を煽動して物資を調達しようと企て、避難民を集めると、避難民を救うために「横浜震災救援団」という団体を結成したいと提唱。避難民たちは、巧みなかれの弁舌に感激し一斉に賛意を表しました。山口は、さらに自ら団長に立候補することを伝え拍手のうちに団長に推挙され、多数の者がその場で入団を申出ました。山口は、物資の調達が結局掠奪以外にないことをさとり、団員の中から体力に恵まれた者を選び出して決死隊と称させます。かれらは、日本刀、竹槍、鉄棒、銃器などを手に横浜市内の類焼をまぬがれた商店や外人宅などを襲い、凶器をかざして食糧、酒類、金銭等をおどしとって歩き、その強奪行動は、九月一日午後四時頃から同月四日午後二時頃まで十七回にわたって繰り返されました。横浜周辺での「朝鮮人による強盗」という流言の発生に関係するかもしれません。(⑧p.132~7)

 余震と業火の続くなか、恐怖の一日が終わりました。
# by sabasaba13 | 2017-09-21 06:23 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

言葉の花綵167

 絶対平和にいたる非暴力という"くもの糸"に私と一緒にぶら下がってください。(北御門二郎)

 真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし。…真に人のためを為すにはその人たちの群れに入り、ありさまを学び、辛酸を共にし、その人となる。(田中正造)

 世界中どこでも見られる戦争墓地は、人間の命を尊ぶべき国家指導者たちの失敗を記す沈黙の証言です。(イツハク・ラビン)

 少し前までこの国は、「豊かだけれど生きづらい」社会と言われてきた。しかし、いつのまにか「生きづらい上に貧乏」という事態になっている。(雨宮処凛)

 軍隊はしばしば独裁体制によって、国民を力づくで抑圧してきたが、われわれは、民主的な話し合いの道を選ぶ。したがって政権維持のための武器はもういらない。不要なものは今日限りとする。この兵舎はこれからは教育者のものと変わり、博物館へと改造する。(コスタリカ大統領ホセ・フィゲレス)

 戦争を起こすのも人間なら、それを許さないで止めようと努力できるのも人間だということ。ここに一番の基本がある。(品川政治)

 反抗する彼等よりも一層愚かなのは圧迫する吾々である。(柳宗悦)

 人民に対して正義をもって当たること、神の道理も罰も人民のために配慮しておくこと、人民を守り、彼らの家族や婦人を保護し、流血を避け、街道を安全にし、人民に平和な暮しをさせること、神はこれらすべてをお前の義務としておられる。さもなくばお前に与えられた義務と関連づけて神はお前を罰し給うぞ。(イブン・ハルドゥーン 『歴史序説』)

 みなさんは、つぎの事実を隠すことはできない。それはかつてみなさんが、戦争という手段を取ったという事実である。この事実をしっかりと踏まえたうえで、日本人は着実に平和の道を進まなければならない。しかし日本はあろうことか再軍備の道に突き進もうとしている。これは由々しき事態である。私は日本の再軍備に反対する。(ラーダービノード・パール判事)

 指導者たちよ、民衆は論理では動かないことを知っているか。いわんや非論理ではなおさら動かない。民衆を動かすものは、ただ「事実」だ。「事実」については、指導者たちよ、貴君らが知るまいと思っていることまでも知っている。(正木ひろし)

 戦争とは何だろうか。相互の大量殺人、大量破壊行為なのだが、国家が認知さえすれば合法となり、殺人も罰せられない。なぜなら、自衛のための戦争は、近代国家の固有の主権行為であり、それは国際法でも認められているからだという。ただし、「自衛のため」と条件を付けても、最初から「侵略のために」戦争をしたと認める国はないのだから、実際上はすべての戦争が合法化されてしまうことになる。(色川大吉)
# by sabasaba13 | 2017-09-20 06:22 | 言葉の花綵 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 11

 閑話休題。午後2時頃に警視庁も、東京地域の警戒救護のため軍隊に出動を要請しました。

 午後4時頃には、猛火をともなった旋風が本所被服廠に逃げ込んだ避難民を襲い三万八千人が焼死しています。また東京市中の米倉庫や、深川の陸軍糧秣倉庫が焼けたという報告に、水野は強い関心をもっていますが、恐らく米騒動の記憶が脳裡をよぎったのでしょう。水野と赤池は、同日の夜、災害地視察に出かけますが、町の惨状を前にして赤池は次のような感想を残しています。(①p.33~4)
 蓋し当時余の最も痛心措く能わざりしは飢餓より生ずる悲鳴であり失望より生ずる直接行動であった。此非常特別の事実に際しては尋常の縄墨を以て事を律することは出来ない。…万難を排しても此大衆に食糧を与えねばならぬ。水を飲ましめねばならぬ。安心せしむ事か絶望せしむるかは一に臨機の処置如何に懸っている。危急存亡の機とは真に之を謂うのであろう。今は只大責任を負うて機宜の処置を敢行する外はない。
 ここからは、飢えた国民が暴動を起こすかもしれないという恐怖感と危機感、それを乗り切るためにはいかなる超法規的な非常措置でも許されるという決意が読み取れます。そう、戒厳の施行です。閣議の反対でつぶされたのですが、あらためて是が非でも戒厳を施行せねばならないという思いを抱いたのではないでしょうか。

 さて、大地震が発生した9月1日の午後から夜にかけて、朝鮮人による放火・投毒・暴行といった流言蜚語が発生しています。(①p.57~8)

 九月一日午後四時、突如トシテ鮮人放火ノ流言管内ニ起リ (王子署)

 九月一日午後六時頃、鮮人襲来ノ流言初めて管内ニ伝ワリ (芝愛宕署)

 九月一日午後七時頃、「根岸町相沢及山元町方面では鮮人約二百名来襲シ放火強姦井水に投毒の虞ありとの浮説が寿警察署管内中村町及根岸町相沢山元方面から伝わり」 (山手本町署)

 鮮人暴行ノ流言管内ニ伝ワリシハ九月一日午後八時ニシテ之ト同時ニ鮮人ニ対スル迫害モ亦開始セラレ… (小松川署)

 なお井戸に毒を投げ入れたという流言については、保健所等が汚水や生水を飲まないように注意したことから発生したという説もあります。(①p.74) また、三・一独立運動の大弾圧で、日本人は朝鮮半島の各地で、飲料水、鮮魚、砂糖など各種の食料品に毒を投じ、朝鮮人を大量に殺害しました。それを知っている日本の官憲が、大震災時に今度は在日朝鮮人がやったという流言をばらまいたという説もあります。(⑦p.139~40)
# by sabasaba13 | 2017-09-19 06:19 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

『茶色の朝』再読

 日付は記録しておかなかったので不明なのですが、最近の朝日新聞に、『茶色の朝』(フランク・パヴロフ:物語 ヴィンセント・ギャロ:絵 大月書店)というディストピア掌編小説が静かなブームになっているという記事が載っていました。『茶色の朝』については、以前に拙ブログで書評を掲載しましたので、そこからあらすじを転記します。
 茶色党が支配するある国で、茶色以外の猫や犬を飼うことが禁止される。やがて党が指定したもの以外の新聞や本も消されていく。そして以前に茶色以外の猫や犬を飼っていた者が拘束され、夜の霧のようにいなくなっていく、というシンプルなあらすじです。主人公は、「科学者が言っているから」「法律だから」「感傷的になっても仕方がない」「まわりからよく思われていさえすれば、放っておいてもらえる」「街の流れに逆らわないでいさえすれば、安心が得られて、面倒にまきこまれることもなく、生活も簡単になるかのようだった」「茶色に守られた安心、それも悪くない」「俺には仕事があるし、毎日やらなきゃならないこまごましたことも多い」と呟きながら、こうした事態を傍観していきます。そして茶色の朝早く、以前白に黒のぶちの猫を飼っていた彼の家のドアを誰かがたたきます。彼はこう言います、「いま行くから」
 不安から逃れ安心を得るために、"党"の決めた思考・行動パターンを受け入れ、周囲の人々と一体化し、異物を排除していく。全体主義が浸潤しすべてを覆い尽くす過程を、普通の市民の視点から眺め、そしてそこに彼らがどのように関与するかを描いた恐るべき小説です。なお全体主義とは、『全体主義』(エンツォ・トラヴェルソ 平凡社新書522)にしたがって、下記のようなものであると考えておきます。
 彼女(※ハンナ・アーレント)にしたがえば、全体主義は、ただ単に国家による個人の吸収ではなく、人々の複数性と相違性の表現の場としての(それなくしては自由もありえない)政治的なものの破壊なのである。(p.114)

 それからわれわれは、全体主義とは人間を、その意見、その振舞い、その生活様式を、規格化する意志であると定義した。(p.145)
 しかしこの記事を掲載したのは2005年5月、第二次小泉純一郎内閣のとき。己の書評を読み返すと、どことなく他人事のような呑気な感じがします。いくら自民党だって本気で全体主義化を考えているわけはないだろうし、考えていたとしても実行はまだ先のことだろうと根拠のない楽観をしていたようです。
 甘かったですね。安倍上等兵率いる自民党政権が、特定秘密保護法案や共謀罪法案を強行採決するなど、これほど本気かつ迅速に全体主義化を推し進めるとは思いもしませんでした。そして多くの人びとがこの政権の禍々しさに気づかず投票し支持し棄権し、"俺とシャルリー"のように、事態の推移を傍観しようとは。そう、現今の日本はとうとう「茶色の朝」を迎えてしまいました。これは読み返さなくては、と思って本棚をひっかきまわしましたが見つかりません。インターネットで購入して再読、あらためて肌に粟が生じるとともに、本の最後にあった高橋哲哉氏のメッセージ「やり過ごさないこと、考えつづけること」を読んで考えさせられました。以下、引用します。
 「茶色の朝」は、私たちのだれもがもっている怠慢、臆病、自己保身、他者への無関心といった日常的な態度の積み重ねが、ファシズムや全体主義を成立させる重要な要因であることを、じつにみごとに描きだしてくれています。(p.41)

 そんな「ふつうの人びと」である私たちは、「俺」とシャルリーがそうであるように、社会が「茶色」に染まっていく傾向に、ときにはとまどい、ときには呆れ、ときには不安や疑問を感じながらも、結局は、さまざまな理由をつけて、そのつど「流れ」を受けいれてしまっているのではないでしょうか? そうでないとしたら、いったいどうして、国内外の非難を浴びた暴言を撤回も謝罪もしない政治家が、選挙で堂々と当選したりするのでしょうか? 市民の自由を奪う法律をつぎつぎに成立させる政治勢力が、国会で絶対多数を占めつづけるのでしょうか? 平和憲法をもつこの国で、イラク攻撃への反戦運動参加者が、ドイツ、フランス、イタリア、韓国、それどころかイラク攻撃当事国のアメリカ、イギリスに比べてさえも、圧倒的に少ないのでしょうか? (p.43)

 「では、どうすればいいのか」と言われるかもしれません。
現状の危険性を訴える議論にたいして、「現状はわかった。では、具体的にどうすればいいのか教えてほしい」という反応が返ってくることはよくありますが、そんなとき、私はいつも一抹の懸念を覚えます。仕事の性格も、生活の場所も、社会的責任の大きさもみなそれぞれ違う人びとに、それぞれが「どうすればいいか」を具体的に指示することは困難だ、というだけではありません。自分が「具体的にどうすればいいか」は、あくまで自分自身が考え、決定すべきことがらです。それさえも他者から指示してもらおうというのは、そこに、国や「お上」の方針に従うことをよしとするのと同型のメンタリティがあるのではないか、と感じられてならないのです。(p.45)

 「茶色の朝」を迎えたくなければ、まず最初に私たちがなすべきこと-それはなにかと問われれば、思考停止をやめることだと私なら答えます。なぜなら、私たち「ふつうの人びと」にとっての最大の問題は、これまで十分に見てきたとおり、社会のなかにファシズムや全体主義につうじる現象が現われたとき、それらに驚きや疑問や違和感を感じながらも、さまざまな理由から、それらをやり過ごしてしまうことにあるからです。
 やり過ごしてしまうとは、驚きや疑問や違和感をみずから封印し、それ以上考えないようにすること、つまりは思考を停止してしまうことにほかなりません。「茶色の朝」を迎えたくなければ、なによりもまずそれをやめること、つまり、自分自身の驚きや疑問や違和感を大事にし、なぜそのように思うのか、その思いにはどんな根拠があるのか、等々を考えつづけることが必要なのです。
 思考停止をやめること、考えつづけること。このことは、じつは、意識を眠らされてでもいないかぎり、仕事や生活や社会的責任の違いを超えて、私たちのだれにとっても可能なことです。そして、勇気をもって発言し、行動することは、考えつづけることのうえにたってのみ可能なのです。(p.46)
 誰かに考えてもらうのではなく、自分で考えること。思考を停止しないこと。怠慢や臆病や自己保身を克服し、他者へ関心をもつこと。そして勇気をもって発言し、行動すること。さもないと「黒い朝」を迎える破目になります。嫌だ。
# by sabasaba13 | 2017-09-18 06:28 | | Comments(0)

関東大震災と虐殺 10

 三人は、弱体化した警察力を補完し、治安を維持するためには、軍事力の展開、すなわち戒厳以外にはないという結論に達したようです。このあたりの動きについては、史料が残されていない(隠蔽された?)ので、推測するしかありません。詳細は後述しますが、この戒厳の施行が、朝鮮人をはじめとする虐殺に大きく関係しますので、補足しておきたいと思います。

 日本大百科全書(ニッポニカ)によると、戒厳とは「戦時または事変に際して、平時の法を停止し、行政権・司法権の全部または一部を軍隊の司令官にゆだねること」です。戦前の日本における戒厳は、大日本帝国憲法の第14条「天皇ハ戒厳ヲ宣告ス」に基づいていて、詳細は1882(明治15)年に布告された法律「戒厳令」によって定められています。戒厳には「真正戒厳」と「行政戒厳」があります。「真正戒厳」は戦時や事変に全国または一地方を警戒する法律で、これには二種類あります。ひとつめは「臨戦地境戒厳」で、戦時にあって警備を要する地域で施行され、軍事に関する事件に限り、地方行政・司法事務が当該地域軍司令官の管掌となります。ふたつめは、より緊迫した状況の時に施行される「合囲地境戒厳」です。敵に包囲されている、または攻撃を受けている地域で施行され、一切の地方行政・司法事務が当該地域軍司令官の管掌となります。ちなみに、「臨戦地境戒厳」が施行されたことは二回だけで、対象とされた地域は、日清戦争(1894~5)のときの広島および宇品、日露戦争(1904~5)のときの長崎、佐世保、函館、台湾、対馬などです。これは、国民をひきしめ統合を強化するための戒厳で、軍事的な必要性は少なかったようです。いずれも臨戦地境戒厳で、合囲地境戒厳が宣告されたことは一度もありません。
 ふたつめが「行政戒厳」で、内乱やクーデターなど平時の緊急事態に施行し、戒厳令に規定がないため緊急勅令で行ないます。施行されたことは三回、日比谷焼き打ち事件(1905)、関東大震災(1923)、2.26事件(1936)です。なお戒厳をしくほどではないが、警察では対応できない非常事態に対して軍隊が治安維持のために出動することもあり、これは治安出兵といいます。明治憲法の非常大権を根拠とし、知事や現地指揮官に治安出兵権が付与されます。実例としては、秩父事件(1884)、米騒動(1918)、三・一独立運動(1919)などです。

 さて、この場合の戒厳は、戦時ではないのですから当然「行政戒厳」です。しかも内乱も暴動も起きていない、あるいは確認できていない状況で布告しようとするのですから、非常に問題の多い決断です。予断といってもいいでしょう。それはともかく、「行政戒厳」は緊急勅令によって布告されるので、枢密院の諮詢が必要です。水野らは閣議に戒厳令の施行を具申しますが、反対意見が強く沙汰やみとなりました。理由としては、諮詢をすべき枢密顧問官の招集が不可能である、事務引継ぎ内閣がそのような重大な決定をする事への疑問、そして臨戦でも内乱でもないのに戒厳令を布く名分がない、といった理由です。こうして戒厳令は回避され、警視庁による出兵要求にとどまりました。午後4時頃、赤池は森岡守成近衛師団長に対し、正式の出兵要求書を提出します。

 こうした動きの一方で、軍事当局は独自の判断から、午後1時10分に非常警戒令を発し、近衛師団と第一師団の軍事力を東京各地に展開していました。これは衛戍(えいじゅ)条例に基づくものでしょう。『国史大辞典』2(吉川弘文館)から引用します。
 陸軍軍隊の永久駐屯地の警備に関する条例。…衛戍とは、陸軍軍隊の永久一地に駐屯することであって、衛戍条例は、衛戍地の警備および陸軍の秩序・軍紀・風紀の監視、ならびに陸軍に属する建築物などの保護に任ずる衛戍勤務を規定した法規である。本条例は、衛戍勤務令(軍令)によって活用され、その地に駐屯する軍隊(憲兵隊および陸軍教化隊を除く)の長のうち、上級先任者(東京は警備司令官)が衛戍司令官となる。衛戍司令官は、災害または非常の際、治安維持に関する処置については、当該地方官と協議する。もし地方官から兵力の請求あるとき、事が急であれば、直ちにこれに応ずることができる。またその事が地方官の請求を待つ余裕のないときは、兵力をもって便宜処置することができた。(p.225)
 近衛師団長の代理として臨時衛戌司令官に就任した第一師団長・石光真臣は、水野と赤池が爆弾を浴びた当時の朝鮮で、憲兵司令官を勤めていたことも指摘しておきましょう。なおこの名前で気づかれた方も多いと思いたいのですが、そうです、あの石光真清の弟でもあります。1868(慶応4)年、熊本に生まれ、少年時代を神風連の乱や西南戦争などで激動する熊本で過ごし、その後軍人として日清戦争・日露戦争に出征、また生涯の大半をシベリア・満州での諜報活動に従事し波瀾に富む人生を送った方です。自伝的な手記は没後『城下の人』『曠野の花』『望郷の歌』『誰のために』の四部作として出版され、私も読みましたが、近代日本の側面史を伝える資料および文学作品として非常に素晴らしい作品でした。その波瀾万丈の人生、信じ難い記憶力、そしてソリッドで的確な描写力、いずれも圧倒されたのですが、何といっても己の眼で事実を見詰め己の頭でそれについて考え抜く、およそ凡百の軍人にはありえない自立した冷徹な精神に感銘を受けました。例えば、以下のような文章を書ける人物が、日本の近代史において何人いたでしょうか。
 国籍が違っても階級が違っても、人間の生活感情や思想は互いに共通する部分の方が、相違する部分より遥かに多いのに、相違点を誇大に強調して対立抗争をしている。僅かな意見の相違や派閥や行きがかりのために、ただでさえ不幸になりがちな人生を救い難い不幸に追い込んでしまう。情けないことである。なにか大きいものが間違っていて、私たち人間を奴隷のようにかりたてている。一国の歴史、一民族の歴史は、英雄と賢者と聖人によって作られたかのように教えられた。教えられ、そう信じ己れを律して暮して来たが…だが待て、それは間違っていなかったか。野心と打算と怯懦と誤解と無知と惰性によって作られたことはなかったか。胸の中が熱くなり、また冷えた。(『誰のために』より)
 野心と打算と怯懦と誤解と無知と惰性、朝鮮人虐殺を理解するキーワードかもしれませんね。なお彼の生誕の地を訪れた時の旅行記を以前に掲載しましたので、よろしければご笑覧を。
# by sabasaba13 | 2017-09-17 07:50 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

近江編(32):修学院離宮へ(15.3)

 それでは修学院離宮へと向かいましょう。伏見桃山駅から京阪本線に乗って出町柳駅へ、叡山電鉄本線に乗って修学院駅で下車しました。徒歩20分ほどで着けるようですが、まだ時間があるので途中にあった軽食喫茶「千房」でやきめしをいただきました。心あたたまる家庭の味でした。
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 みごとな白漆喰の蔵を撮影して、参観予約時間午後三時のすこし前に到着です。
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 修学院離宮は1.5回訪れたことがあります。1回は予約をした上でのオフィシャルな参観、0.5回は…以前に掲載した拙ブログの記事を転記します。
 そして修学院離宮の脇を通って… おっ離宮の畑と植込みがすぐ目の前に見えます。おまけに人が自由に入っている! 「立入禁止」という看板が裏返しになっているので、こりゃ紅葉特別拝観なのか、宮内庁もなかなかういやつじゃ近う寄れ苦しゅうないぞ帯を解け、と勝手に判断し自転車で乗り込みました。もちろん庭園内部には入れませんが、付属の畑や、尋常ではない凝った造りの見事な垣根、絨毯のような苔と数本のもみじを見物できました。われわれの血税を使って手入れしてあるためか、何となく気品のある素晴らしい紅葉でした。するとキコキコと皇宮警察の方が自転車に乗ってやってきて「すみません、立入禁止です」と腰に下げた拳銃の引き金に指をかけながら(嘘)言うではありませんか。どうやら何者かが看板をひっくり返したようです。どなたか知りませんが、なかなか洒落たことをなさる通人ですね、ありがとう。裏技(犯罪?)ですが、看板をひっくりかえせば素知らぬ顔で修学院離宮に入れますよ。簡単に裏返せるので、お試しあれ(犯罪教唆?)。
 今となっては甘美な思い出ですが閑話休題。
# by sabasaba13 | 2017-09-16 06:26 | 近畿 | Comments(0)