長瀞・寄居・小川・岩槻編(5):寄居(08.7)

 それでは寄居へと向かいましょう。駅前にある昔なつかしの円筒ポストや、長瀞舟玉まつりの飾り(?)に別れを告げ、列車に乗り込みました。
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 20分弱で寄居駅に到着し、いつも通りの儀式を行いましょう。(1)駅の時刻表を写真に撮っておく、(2)観光案内所で地図や資料をもらい貸し自転車の有無を確認する、(3)喫茶店でモーニング・サービスをいただきながら作戦を練る。ま、この全部が揃うことはそうそうないのですが、寄居では観光案内所は有、貸し自転車は無、喫茶店も無、という結果にあいなりました。腹もへったし、どこかで食事をしながら一人作戦会議を開きたいなと鵜の目鷹の目で地元資本の食堂をさがしたのですが、駅前にはありません。泣いて馬謖を斬る、韓信の股くぐり、眼前にあった大規模小売店舗の中の「華屋与兵衛」に入るしかないか。ひれかつ定食を食しながら、観光地図を分析、みどころは鉢形城址、五百羅漢の少林寺、清流と沢がきれいな日本(やまと)の里のようです。とりあえず鉢形城まで徒歩で行き、見物した後の体力・気力・気温をもって今後の動きを判断することにしました。残りの行程についてはタクシーの利用、場合によってはカットという選択肢も視野に入れておきましょう。さて外界に出ると、そこは灼熱の世界、ぎんぎんぎらぎらとお天道様が容赦なく哄笑されています。いくつかあった商店はシャッターを閉め切り、「私生活も神は見ている 聖書」という看板が陽炎の中悪夢の一場面のように浮かび上がっていました。(それはちょと嫌だな)
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 十分ほど歩き荒川にかかる正喜橋を渡り、Y字路を右に曲がると鉢形城公園です。スーパーニッポニカ(小学館)によると、室町期~戦国期の城で、史料的に確実なのは1473(文明5)年から76年にかけて長尾景春が築いたとするものです。関東管領山内上杉氏と執事・長尾氏が城主を争いましたが、北条氏綱が山内上杉氏を討ち、藤田康邦を城主としました。城はさらに、康邦の女婿となってこの地に入ってきた北条氏邦によって大規模につくりかえられています。以後、小田原城の支城の一つとして氏邦による鉢形領支配の中心となり、1590(天正18)年、豊臣秀吉による小田原征伐のとき、前田利家、上杉景勝らの大軍に攻められ、籠城戦のすえ開城し、廃城となりました。まずは鉢形城歴史館を見学しましょう。
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 小ぶりな資料館で城の歴史について概略を知り、さて一休みとコンピュータの前にすわってこのあたりの史跡データベースを何気なく眺めていました。すると… 「秩父事件記念碑 明治17年に困窮した農民たちが武装蜂起した秩父事件。寄居風布の琴平神社にも、農民たちが結集しました。ここに記念碑が建てられています」というページをゲット。秩父事件関連の史跡を追っかけてきた私にとっては、渡りに舟、盲亀の浮木、優曇華の花、ここで会ったが百年目、これは万難を排していかにゃあなるめえ。さっそく事務室に行って、学芸員の方に風布の琴平神社の所在地をお訊ねしました。        (間)         「わかりません」 ちょっと待った、それはないでしょそれは。しかしそこはそれ、蛇の道は蛇と言いますが(違うか)、すぐに調べ始めてくれました。資料をひっくりかえし、クリックをしまくり、電話をかけまくり、待つこと十数分にしてようやく判明。「日本の里」のあたりから九十九折の坂道をしばらく上ったところにある、稲荷神社でした。(琴平神社は間違い) わざわざ詳細な道路地図をコピーしてくれたのには、感謝感謝です。丁重に礼を言い、まずは鉢形城跡を見学しましょう。

 本日の一枚は、正喜橋から見た荒川です。
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by sabasaba13 | 2009-02-09 06:08 | 関東 | Comments(0)
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