「反貧困」

 「反貧困 -「すべり台社会」からの脱出」(湯浅誠 岩波新書1124)読了。基本的に、人口に膾炙し話題となっている本には食指が動かないたちなのですが、本書は別でした。雨宮処凛氏の著書でしばしば言及されているNPO法人自立生活サポート・センターもやい、その事務局長をしておられる湯浅誠氏ですから、貧困との戦いにおけるフロント・ラインでふんばっておられる方でしょう。なお氏は野宿者(ホームレス)支援活動を行うとともに、反貧困ネットワーク事務局長をも務められています。さまざまなデータを駆使して大所高所から現在の貧困について論及する本はよく見かけますが、氏のように実際の貧困と向き合い手を差し伸べている方による現状の報告と分析、そして対策についての考えをぜひ知りたいと思っていたところです。

 第Ⅰ部「貧困問題の現場から」では、日本社会にどうして貧困が広がってしまっているのか、貧困が広がる中でどのような問題が起こっているのか、貧困とはどのようなものか、そして日本政府は貧困問題に対してどのような立場を取っているのか、についての考察です。まず原因ですが、バブル後遺症から企業を回復させるために、政府は何十兆円もの血税を投入し、非正規雇用を大幅に認めたことに求められます。その結果、財政難による公的扶助の空洞化と、雇用環境の悪化という事態をまねきました。そして貧困の実態・問題点について、現場の立場から詳しくふれられています。その中で湯浅氏は、貧困状態に至る背景には「五重の排除」があると主張されています。第一に、教育課程からの排除、その背景には親世代の貧困があります。第二に、企業福祉からの排除。低賃金で不安定雇用、さらに雇用保険・社会保障に入れてもらえない。福利厚生からも排除され、労働組合にも入れてもらえない。第三に、家族福祉からの排除。親や子どもに頼れない、頼れる親を持たない。第四に、公的福祉からの排除。追い返す技法ばかりが洗練されてしまっている生活保護行政の現状。そして第五に、自分自身からの排除。自己責任論によって第一~第四の排除を「あなたのせい」と片づけられ、さらに本人自身がそれを内面化し、何のために生き抜くのか、それに何の意味があるのか、そうした「あたりまえ」のことが見えなくなってしまう。(p.60) 本来ならば雇用(労働)のネット・社会保険のネット・公的扶助のネットという三層のセーフティネットが機能しなければならないのですが、その綻びが露呈し、刑務所が第四のセーフティネットになっているというおぞましい事態となっています。(生き延びるためにあえて罪を犯し刑務所に入る) しかしこうした状況に対して政府はまったくの無策、実態を正確に捉えるための基本的な調査すらまともにしていません。身の毛もよだつ一例をあげましょう。実際に生活保護基準以下で暮らす人たちのうち、どれだけの人たちが生活保護を受けているのかを示す指標に「捕捉率」がありますが、政府は捕捉率調査を拒否しています。なお学者の調査では、日本の捕捉率はおおむね15~20%程度とされています。(p.28) なぜ日本政府は貧困の存在を認めず放置するのか? その理由は財政難、一円でも福祉関連の予算を削りたいというのが本音のようです。貧困は存在しない、あったとしても「自己責任」として自分を責めてくれれば一銭もかかりません。もしきちんとした調査をして貧困の実態が明らかになれば財政出動せざるをえなくなるので、しないわけですね。これも驚くべき一例です。2007.2.13、当時の安倍晋三首相が国会答弁で「絶対的貧困率は先進国の中で最も低い水準にある」と応えましたが、その根拠は内閣府『平成18年次経済財政報告』で、アメリカの民間団体による調査に基づいた報告です。なんとその調査は、任意に抽出された700人を対象に電話で聞き取ったもの! 恐れ入谷の鬼子母神です。それをきっちりと追求しない野党、報道として取り上げないマス・メディアにも呆れますが。
 第Ⅱ部「「反貧困」の現場から」では、人々が貧困問題にどのように立ち向かっているのかについてのレポートです。詳細についてはぜひ本書を読んでいただきたいのですが、貧困という問題に取り組み解決しようとする大きなうねりが静かに力強くわきおこっているのを知ることができます。

 さてそれではどうすればよいのか。著者が提言するのは、まず貧困の姿・実態・問題を見えるように(可視化)することです。政府にきちんとした調査を行なわせて実態を把握しないことには、問題解決のスタートラインにすら立てません。と同時に、多くの人が他人事だと思わずに貧困の実態について知ろうとすること。本書の執筆動機はそれ以外にはない、とまで氏は言い切っておられます。そして人間が人間らしく再生産される社会をめざして、戦いの矛先を政治へ向けること。きちんとプライオリティ(優先順位)を設定して、この問題の解決を最優先としない政治家には即刻退場してもらうこと。湯浅氏の言を紹介します。
 誰かに自己責任を押し付け、それで何かの答えが出たような気分になるのはもうやめよう。お金がない、財源がないなどという言い訳を真に受けるのは、もうやめよう。そんなことよりも、人間が人間らしく再生産される社会を目指すほうが、はるかに重要である。社会がそこにきちんとプライオリティ(優先順位)を設定すれば、自己責任だの財源論だのといったことは、すぐに誰も言い出せなくなる。そんな発言は、その人が人間らしい労働と暮らしの実現を軽視している証だということが明らかになるからだ。そんな人間に私たちの労働と生活を、賃金と社会保障を任せられるわけがない。そんな経営者や政治家には、まさにその人たちの自己責任において、退場願うべきである。主権は私たちに在る。(p.224)
 最終的な目標としては、貧困状態まで追い込まれた人たちの"溜め"を増やすことです。"溜め"とは、氏独特の言葉ですが、溜め池の"溜め"にあたります。外部からの衝撃を吸収してくれるクッション(緩衝材)の役割を果すとともに、そこからエネルギーを汲み出す諸力の源泉ともなる存在で、お金、頼れる家族・親族・友人、自分への自信などがそれに該当します。貧困とは、このようなもろもろの"溜め"が総合的に失われ、奪われている状態であると氏は主張されています。うーん、鋭い。お金をあげてはいおしまい、ということだけではなく、人間には自分を支えてくれる精神的価値も絶対に必要不可欠なのだという深遠な洞察にみちた言葉です。

 なお著者が事務局長をしておられるNPO法人自立生活サポート・センターもやいの<もやい>とは、嵐のときに小さな漁船同士を結び合わせて、転覆しないようにつながり合うことを指すこともわかりました。望ましい社会のあり方をイメージする一助となる、素晴らしい言葉ですね。嵐に関する予報、防波堤の整備やテトラポットの設置、丈夫なロープの準備については行政の責任。そしていざ嵐が襲来した時に、一人でも多くの、いやできればすべての人の体をロープで縛りみんなでしっかりとつながり合うのは私たちの責任。
 まずスタートラインに立つこと、そしてどこがゴールなのか、その具体的なイメージをみんなでつくりあげること、まずはここから始めましょう。

 追記。「もやい」のホームページに生活保護費の自動計算ソフトがあります。

 ●http://www.moyai.net/modules/m1/index.php?id=17&tmid=31

 ためしに計算してもらったところ、思わず息が止まるような金額が打ち出されました。これで暮らせというのか… ♪これが日本だ、私の国だ♪ なお本書によると、政府は生活保護基準の切下げを画策しています。もしそうなったら、生活保護受給者の所得を減らすだけに止まらず、生活保護基準と連動する諸制度の利用資格要件をも同時に引き下げるため、生活保護を受けていない人たちにも多大な影響を及ぼすという冷厳なる事実も教示していただきました。そしてその背景に「社会保障給付費年間自然増分2200億円を抑制し続ける」という政府方針があることも。永井荷風が「断腸亭日乗」に書きつけた言葉を思い出してしまいました。
 歴史ありて以来時として種々野蛮なる国家の存在せしことありしかど、現代日本の如き低劣滑稽なる政治の行はれしことはいまだかつて一たびもその例なかりけり。かくの如き国家と政府の行末はいかになるべきにや。(1943.6.25)

by sabasaba13 | 2009-02-26 06:07 | | Comments(0)
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