「ドン・キホーテ」

 「ドン・キホーテ(前編・後編 全六巻)」(セルバンテス 牛島信明訳 岩波文庫)読了。ジョイスの「ユリシーズ」という巨大な存在と格闘し圧倒され、しばし茫然自失の状態でした。そして過激な実験的手法に翻弄された後だけに、頭と心は数週間も雨が降らなかった砂漠の植物のように楽しくて分かりやすい「物語」を渇仰しています。さて次は何を読もうかなと思い悩んでいると、「ユリシーズ(Ⅲ)」(丸谷才一・氷川玲二・高松雄一訳 集英社)の巻末に掲載されていた丸谷才一氏の解説「巨大な砂時計のくびれの箇所」の中の次の一文に出会いました。「セルバンテスの『ドン・キホーテ』がまづ遊びとして書かれたというふことなど、鹿爪らしい文学論に親しんだ人には受入れられない考へ方かもしれない。…しかしセルバンテスはまづ遊戯として書いた。…こんなふうに伝統的なさまざまの語り口に新手の工夫を加へながら、主従の異様な冒険譚はつづいてゆく。そのとき、書くエネルギーも、読むエネルギーも、まづとりあへずは遊興や逸楽を求める心から発してゐたことに注意しよう」 はいっ、決まり、そうです私は遊興や逸楽に満ち満ちた物語を読みたかったのです。
 思うにこれほど人口に膾炙されていながら、まともに読まれていない小説も珍しいのではないかな。「源氏物語」と双璧をなしそうです。実は私もその一人、全六巻の大部の書、気合を入れて挑戦してみました。しかしセルバンテスによる序文の冒頭の一句「おひまな読者よ」で肩透かし。「小説とは美しく愉快で気のきいた暇つぶしなのさ」という著者のお言葉で、気合も緊張感も一気に緩みました。
 周知のように、ラ・マンチャに住む老いた郷士が、そのころ大流行していた騎士道物語を日夜読みふけったすえ、自ら遍歴の騎士となって世の中の不正を正し、虐げられた者を助けようと、ドン・キホーテと名のって旅立ち、行く先々で悲喜劇的な事件を引き起こすお話です。さまざまな挫折にあいながらも、見果てぬ夢と理想を追い求める高潔な老騎士の物語という先入観をもっていたのですが、とんでもない。自らを正義と断じ、風車や羊の群や村人を勝手に巨悪の権化と見誤って突進し酷い目にあわされる(歯が折れる、二本の指の骨が折れる…)、その姿は凄絶ですらあります。ドン・キホーテの言です。
 ほら、あれを見るがよい。三十かそこらの途方もなく醜怪な巨人どもが姿を現わしたではないか。拙者はこれから奴らと一戦をまじえ、奴らを皆殺しにし、奴らから奪う戦利品でもって、お前ともども裕福になろうと思うのだ。というのも、これは正義の戦いであり、かくも邪悪な族(やから)を地上から追いはらうのは神に対する立派な奉仕でもあるからだ。[前編(1)p.141]
 森達也氏が「王様は裸だと言った子供はその後どうなったか」(集英社新書0405)の中で次のように述べられているのは(通説だと謙遜しておられますが)卓見です。大航海時代、スペインは騎士道精神とキリスト教の伝道という大義名分のもと、他国への侵略と掠奪、そして殺戮を重ねてきた。そして無敵艦隊の敗北以後凋落していくこの国を、同時代人(無敵艦隊の食料調達係)として眺めていたセルバンテスは、自らの国へのアンチテーゼとしてドン・キホーテの物語を発想した。彼の異常なまでの暴力性、そしてその報復として受ける過剰なダメージの描写は、そこから説明できる。なお当時のスペイン民衆はその諧謔や皮肉を理解せず、ストレートに解釈して熱狂したために、苦悩したセルバンテスは狂気の夢から醒めたドン・キホーテが自分の悪行を悔いながら死ぬ後編を書かねばならなかった、とも述べられています。なるほど、そう考えると前編と後編の対照がよく理解できます。
 正義の旗の下に国家が行う侵略・暴虐・掠奪を、ドン・キホーテという狂気に陥った老騎士が行う「遊び・ごっこ」に仮託し、これを容赦なく徹底的に哄笑する。もしかしたらこの小説の本質はそこにあるのかもしれません。してみると、現在のアメリカの姿がドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャに二重写しされてくるのはあながち穿ちすぎではないでしょう。何が打ち壊すべき暴虐、正すべき不正、改めるべき不合理、排除すべき弊害であるかを一方的に決め付け、「正義・自由・民主主義」という御旗を掲げてそれらを叩き潰し戦利品を得ているアメリカの姿に… なおドン・キホーテは、戦利品となるであろう島の領主にとりたてるという甘言を弄して、近所に住む善良だけれどちょっと脳味噌の足りない農夫サンチョ・パンサを従士として口説いて、旅に連れ出します。そう、こちらには戦利品目当てにアメリカに阿諛追従する現在の日本の姿が彷彿としてきます。セルバンテスはあるカスティーリャ人をして、こう語らせています。
 お前さんは気がふれているのよ。それも、自分ひとりで勝手に狂人になり、自分の狂気のなかに閉じこもっている分にゃ、それほど悪いこともなかろうさ。ところが、お前さんの狂気には、お前さんと接し、付き合う者たちをも巻きこんで、阿呆にしてしまうという、変な力があるんだ。…愚か者め、さあ、とっとと家に帰って自分の仕事に精を出し、女房子供の面倒をみることだ。そして、お前さんの脳味噌をむしばみ、思慮分別をそこねているばかげた戯れとはきっぱり手を切るんだ。[後編(3)p.231]
 そしてこの魅力的な物語をよりいっそう彩りあるものにしているのが、酷い目にあいながらもドン・キホーテを決して見捨てない好漢サンチョ・パンサの存在です。単純、軽率、素直、誠実、機知といったさまざまな顔をもつその多面的で豊穣なキャラクターは空前絶後でしょう。ただ一貫しているのは人生を謳歌し、争いを好まぬ平和主義者であることです。彼が紡ぎだす警句、諺、言い訳、減らず口を読んでいるだけで、「人間ってそう悪いものではない」という豊かな気持ちになってきました。この脇役を創造しただけでも、セルバンテスの名は世界の文学史上で記憶されるべきでしょう。というわけで彼に現在の日本を投影するのは失礼でしたね、少なくともサンチョ・パンサにはドン・キホーテの狂気からは一歩距離を置き、何とかして彼を救おうとする優しさとガッツがあります。それでは叡智と喜びに溢れたサンチョ・パンサの言葉をいくつか紹介します。
 旦那様、おいらはおとなしくて穏やかな性質(たち)の、争いを好まねえ人間だし、それに家には養っていかにゃならねえ女房と子供もいるから、どんな侮辱だって平気で受け流すことができますだ。…相手が百姓だろうと騎士だろうと、おいらは決して刀には手をかけねえつもりでござります。これから先、神様に召される日まで、おいらは人から受けたどんな辱めも、いや、これから受けるはずの、受けるかも知れねえ、受ける気づかいのありそうな一切の辱めをぜんぶ赦してやりまさあ。[前編(1)p.264]

 否でも応でも狂人だってやつと、自分からすき好んで狂人になるやつと、どっちがより狂ってるんでしょうかね?[後編(1)p.245]

 誰だって人は、どこにいようと、自分にとって大事なことを話さなきゃならねえ。[後編(2)p.113]

 音楽のあるところにゃ、悪いことは起こらねえです。…音楽はいつでも喜びと祭りのしるしだから。[後編(2)p.189]

 おいらはわざわざ自分から死のうなんてこたあ考えねえよ。それよりか、自分の歯で革を必要なだけの長さに引きのばす靴屋みたいにやってくつもりです。つまり、おいらはせいぜい食って、神様がお決めになってる最後のところまで、この命を引きのばすつもりなんですよ。[後編(3)p.166]

 巷で《運命の女神》と呼ばれているあのお人は、酔っぱらいでひどく気ままな、おまけに目の悪い女だっていうからね。それで自分のしていることが見えねえものだから、誰をぶっ倒し、誰を持ち上げたかもご存じねえってわけですよ。[後編(3)p.298]
 もしサンチョ・パンサが今、実在していたらぜひ訊いてみたいことがあります。「ねえ、日本てえ国は正気なのかい、狂ってしまったのかい、それとも自分からすき好んで狂っているのかい?」
by sabasaba13 | 2009-03-26 06:08 | | Comments(0)
<< 「ロシア 語られない戦争」 「人間の未来」 >>