紀伊編(3):誉田山古墳(08.9)

 それにしてもでかい… なぜこんな巨大な墳墓を築く必要があったのか。死せる王を後円部に埋葬した後、その霊を継承した新しい王がそのお披露目パフォーマンスを行うステージとして前方部が巨大化したのだという説を支持しておりますが、それにしてもここまで巨大化する必要があったのか。可視的に大きいほど権威も高まると言ってしまえばそれまでですが。
 実は先日読んだ好著「日本の歴史1 列島創世記」(松木武彦 小学館)の中で、松木氏がきわめて説得力のある説明をされていますので、以下私なりにまとめてみます。(p.321~324)

 まず氏は、原始・古代におけるモニュメントを、人工物の知覚を通じて上位の人の「偉さ」を演出し下位の人の不満を麻痺させるためのものと位置づけられます。それが美的(エステティック)モニュメントで、巨大前方後円墳もその一つです。しかし文字の出現によって、上位の人の権威の由来にかかわる思想や、それに基づく複雑な身分の制度を、言葉の情報という形でたくさんの人びとが体系的に共有できるようになると、その必要は薄れていきます。
 日本列島に前方後円墳という美的(エステティック)モニュメントが現れた要因は、文字が本格的に使われるようになる以前に社会の格差が先行して進んだために、人工物の近くを通じてそれを合理化する必要性がどこよりも著しく高まったからだろうと述べられています。
 さらに副次的な三つの理由をあげられています。
 ①この時期の序列関係が、遠距離交渉を通じて鉄などの必需物資や先進的文物を獲得する競争の中から形成されたという事情に根ざしているということ。朝鮮半島や大陸から切り離された列島からそれを求めようとすると、運搬や技術に大きな負担がかかります。そうなると、多数の人がおのおのみずからそれらを求めるよりも、少数の人による交渉にほかの人びとが依存するという流通の仕組みができやすい。いいかえれば、多数の小さな窓口が、少数の大きな窓口にしぼられやすい。大きな窓口を占めた人や集団は、鉄や諸物資の差配を梃子に威信を獲得していくので、窓口が大きくなればなるほど威信は広がり、かれを頂点とした集団間や個人どうしの序列は、より大きく複雑となります。こうした肥大化した序列関係を安定させ、維持するために、より大規模で説得力をもった美的(エステティック)モニュメントが必要となった。
 ②個人や集団のタテ・ヨコの序列を軸とした弥生社会がつくられた北部九州ではなく、個人が突出せず、ムラの同列性が遅くまで維持された近畿の社会で前方後円墳は生み出されました。このような集団の一体性や共同性、つまり大勢で集まって何かをしようという伝統的な行動パターンが、それまでの巨大環濠集落の造営・維持や青銅器によるまつりから、新たに受入れた墳墓を中心とするまつりにそのままあてはめられた結果、古墳づくりに膨大な労働力が集中し、巨大古墳が生み出された。
 ③同じころに巨大化した高句麗の古墳は、規模は小さいが、精妙な切石や石組みなど、高いレベルの技術が駆使されています。これに比べて、列島の前方後円墳は、土や石の採掘・運搬・積み上げという比較的低いレベルの単純労働が集積された結果といえます。高句麗の王陵は王権お抱えの技術者集団による注文建築、列島の大古墳は、それ自体がまつりとしての意味合いももった集団労働、という色彩が、それぞれ濃かったと考えられます。

 なるほどねえ、格差や序列を可視的に納得させるための巨大装置、そして古墳をみんなで築造することをまつりとみなすmentalityか。現代からするとついつい奴隷的な強制労働と想像してしまいますが、当時の人にしてみれば一体感を心身で感じ取れる祭典のような共同作業だったのかもしれませんね。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2009-07-02 06:09 | 近畿 | Comments(0)
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