紀伊編(8):貝塚(08.9)

 ふたたび南海線に乗って20分ほどで岸和田に到着、ここの駅舎も古いものだという情報を得ていたのですが、残念、新しい駅舎に建て替えられていて影も形もありませんでした。しゃあない、また列車に乗って次の貝塚で下車、寺内町・貝塚を散策することにしましょう。16世紀後半、当地の一向宗門徒が紀州・根来寺から卜半斎了珍を迎え、願泉寺を中心に町づくりを行い石山本願寺から寺内町として取り立てられました。1577(天正5)年には本願寺の支城として織田信長と戦って敗れ、焦土と化します。その後、町は再興され、紀州鷺ノ森より顕如上人を迎えて二年間本願寺御堂となったこともあるそうです。南北約800m、東西約550mの広さをもつ環濠城塞都市で、西は大坂湾、北は北境川、南は清水川を濠と見立て、これらをつなぐ形で東に濠が掘られていました。駅のすぐ近くにある感田神社境内には、その濠の跡が一部残されていました。
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 ここから西へ歩くと、願泉寺の巨大な甍がすぐ眼に入ってきます。修復工事中のため中には入れなかったので、その周辺の路地をしばし散策することにしました。富田林には及びもしませんが、それでもところどころに虫籠窓や格子窓のある町屋が残っていました。
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 踏切の近くには、鋸型屋根の町工場がありましたが廃屋になっているようです。今、調べてみたところ、貝塚はかつて紡績業の中心地で、大日本紡績(現ユニチカ)があった町でもあるのですね。そう、「東洋の魔女」、ニチボー貝塚の本拠地です。この物件もかつては家族経営による小さな紡績工場だったのかもしれませんね。駅前の商店街に歩を進めると、ある廃屋の軒下に「遺族の家」という錆びたプレートがありました。これまでも由比では「殉国の家」、御手洗では「靖国英霊の家」というプレートを見かけてきました。戦死者の遺族を顕彰しようとするのが狙いだと思いますが、地方ごとに表記が違うのが興味深いですね。どういう組織が作成していたのでしょうか。またこれを掲げたことにより、地域ではその家庭はどのよう扱われたのでしょうか。
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 本日の一枚です。
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 追記。後日、「反貧困」(湯浅誠 岩波新書1124)を読んでいたら次のような記述がありました。
 一説には「大阪の北九州」などとも言われ始めた貝塚市では、2005年から生活保護の被保護世帯数が減少し始めており、この他にも違法行為の蔓延している可能性が拭えない。(p.172)

by sabasaba13 | 2009-07-07 06:19 | 近畿 | Comments(0)
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