「日本浄土」

 「日本浄土」(藤原新也 東京書籍)読了。「東京漂流」「メメント・モリ」を読んで以来、藤原氏のファンです。世界各地を放浪・徘徊・漂流・遍歴して、人間のいろいろな生き方を写真と文章で活写し、人間の真っ当な暮らしを阻害する現代文明を厳しく批判してきた氏には多くのことを教えられてきました。本書は氏にしてはちょっと珍しい、日本国内の旅行記を兼ねたエッセイです。しかしただの旅行記ではありません。その意図を述べた「あとがき」を、氏の文章の魅力を紹介する意味も込めて全文引用します。「教育的指導!」と言われようと「ディスクオリファイング・ファウル!」と言われようとかまいません、ぜひご堪能あれ。
 本書に登場する土地は有名な土地でも名所旧跡でもない。またことさら声高に述べるような出来事が書かれているわけでもない。
 この日本のいずこにもあるようなありふれた土地を徘徊する「日本浄土」の旅は、私がこれまで行って来た数多くの旅の中でもっとも目立たない地味な旅ではないかと思う。
 私は時おり私自身の存在がどこかに消え入るようなそんな無名の旅をしたいという欲求に駆られるのだ。
 その無名の旅の中で無名の何かに出会う。
 そこに目的を持った旅にはない、対象と一対一の親密な関係が生まれる。
 だがこの日本においてはその無名の麗しきものやことに出会うことが年々難しくなりつつある。
 過剰な情報の流入は風景のみならず人間の心をも画一化し、大規模店舗の展開はささやかに息づいてきた土地のモノの流通や人の情を消し去り、中央と直結した土建行政によって古きものは跡形もなく破壊され、いずこにおいても無感動なツルリとした風景が目の前に立ちはだかる。
 今日、佳景に出会うことは大海に針を拾うがごとくますます至難になりつつあるのだ。
 だが歩き続けなければならない。
 歩くことだけが希望であり抵抗なのだ。
 歩行の速度の中でこそ、失われつつある風景の中に息をひそめるように呼吸をしている微細な命が見え隠れする。
 そしてそのような地味でありながら独自の呼吸をしている細部のそれぞれが、ひとつの集合体となった時、そこにもうひとつの日本が私の中で息を吹き返す。
 それは私にとって手のひらサイズの「浄土」である。
 ごく普通の風景、そして出来事でありながら、いや、であるからこそ現代においては得がたいという意味において本書を『日本浄土』としたのだ。(p.236)
 「命」「普通」「無名」「麗しき」「息づく」「息をひそめる」「息を吹き返す」といった、氏の考えを理解するためのキーワードがちりばめられています。それぞれの土地土地で息づき根づいてきた人間や自然が、中央から怒涛のように流れ込むモノと情報によって窒息させられている現代。そうした瀕死の人や自然を歩きながら見出すのが旅であり、そこに希望と抵抗があるのだというのが著者の発するメッセージだと受け取りました。旅人の端くれとして、心と体に刻み付けたいものです。
 そして自分や父や家族や友人にまつわる思い出の地、島原、天草、門司港柳井祝島尾道、能登、房総を彷徨して、そこで出会った「無名の麗しき命」を、写真と言葉によって紡ぎだしたのが本書です。例えば、深刻な不漁ながらも「海は見放せん」と出漁しつづける天草の漁師に、氏はこう語りかけます。
 いかに何もなくなっても写真屋ってのは希望を探し出すのが仕事ですからね。誰も気がつかないようなちょっとした美しいものでも拾い集めて、何とか世界はこうしてまだ生きてるんだって見せてやりたい。まるでものを乞うように、生きているかい、生きているかい、ってこつこつノックして歩くんです。たいていは返事はないですけどね。(p.44)
 また氏独自の旅の楽しみ方にもふれることができます。例えば、毎年の年始めに贅沢をすることに決めておられるそうです。それは、フグ・ホッケ・チャンポンといった好物を現地(下関・北海道・長崎)で食べること。500円のうどんを食べるために、84000円かけて五島列島にも行ったそうです。「これは浪費というより自爆である」という氏のぼやきには大笑い。ただこれには夭逝した友への追悼の意も込められています。また桜の時期になると、前の年に「あっ、この桜、咲くとちょっと粋だな」と見つけておいたところに行って一人で花見をするというのもいいですね。その土地と切り離せない、画一化・均質化されていない「無名の麗しきもの」を追い求める著者ならではの、旅の楽しみ方でしょう。
 「見えていない」ということは「世界を失っている」に等しい。氏の言に導かれながら、もうしばらく旅を続けようと思います。
by sabasaba13 | 2009-09-05 08:29 | | Comments(0)
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