変身

変身_c0051620_6192961.jpg 最近、「あたしは林光の薫陶を受けているのよお」とはしゃいでいる山ノ神に誘われて、六本木の俳優座劇場でこんにゃく座のオペラ「変身」(台本+演出:山元清多 作曲+芸術監督:林光)を見て聴いてきました。へんしん? そう、フランツ・カフカの「変身」をオペラ化したものです。きわものか、ばったものでなければいいのだが、とちょっと不安でしたが、これがまったくの杞憂。大変面白うございました。
 小三治師匠の域にはとてもとても及びませんが、まずはまくら。お互い仕事場から直行するので夕食は別々、座席で落ち合うことにしてあります。地下鉄六本木駅に着いたのが午後六時十五分ごろ、開演は七時なので少々急げば食事をかっこむことができそう。とはいうものの、劇場付近を埋め尽くすのはファスト・フードのチェーン店ばかり、そういう店で食べるのは人間としての沽券に関わります。とはいうもののあまり時間もないので妥協せざるをえません。路地にあった全国展開をしているらしき博多ラーメンの「一風堂」に入り、赤丸かさね味と一口餃子を所望。まあまあそれなりに美味しかったのですが、先日食べた喜多方の「食堂なまえ」のラーメンの如く、全宇宙の中で己の口と咽喉と胃だけが存在しているような忘我の境地には至りません。さてそれでは俳優座劇場へと向かいますか。やれやれそれにしても何て不快な街なのでしょう、六本木は。街路のほとんどを車道が占め、自動車が傍若無人に行き交っています。見上げれば無粋な首都高のおまけつき。狭い狭い歩道には人が満ち溢れ、櫛比する無個性なチェーン店。この街が女房だったら、すぐに三下り半を叩きつけますね。本を常時持ち歩くと、けっこう偶然の符合というのがあるもので、さきほどまで電車の中で読んでいたのが「脱ファスト風土宣言」(三浦展編著 洋泉社新書y152)。まるでファスト風土のフィールド・ワークをしているような気分になってきました。小言幸兵衛のようにぶつぶつとぼやきながら、満面に笑みをたたえながらこのジャガノートに身を投げ出す善男善女の群れをかきわけて数分歩くと劇場に到着です。チケットをもぎってもらい二階に上ると、壁面に彫刻と「汝は人間だ。常にそれを忘れるな」という(正確には覚えていませんが)言葉が掲げられていました。うん、いいなあ、六本木に群れ集うすべての人々に捧げます。なお今調べたところ、この彫刻をつくったのは土方久功(ひじかたひさかつ)という彫刻家・詩人・民族学者・絵本作家の方だそうです。座席に荷物を置き、一階に下りてパンフレットを買うと、目の前にイギリスやアイルランドのパブを模した店がありました。…ギネスが呑める… モウセンゴケに誘われる蝿のようにふらふらとカウンターに行き、ギネスのハーフ・パイントを注文。ああ美味しい…のですが、もう一つ心と体をキックしてくれません。注ぎ方のせいなのか、湿度など気候のせいなのか、つくりたてでないせいかは判然としませんが。座席に戻ると山ノ神がすでに到着していました。さあはじまりはじまり。

 舞台のセットはカジュアルなレストラン、これから行なわれる朗読会の準備が行なわれています。オペラの伴奏をする楽士たち(ピアノ・バイオリン・クラリネット・ファゴット)も登場しました。三々五々集まってきた数人の男女、そしてある男性が物語を読み始めます。ある朝、突然大きな虫になってしまったグレーゴル・ザムザの話を… 余談ですが、カフカも新作の小説をこうして友人たちを集めて読み聞かせていたそうです。そしてこれらの人たちがそのまま物語の登場人物となって、話を進めていきます。やはり気になるのは、巨大な虫になった男をどう表現するのか、というところです。まさか着ぐるみ? はないよね、それはそれで面白そうですが。基本的にはそのままの姿で演じるのですが、時たま大きなテーブルを背中にかついだり、話の進行に関わらない数人が手や椅子の足を使ったりして、上手く表現していました。歌の歌詞は、小説の地の文をそのまま引用していますが、時々オリジナルなものも加わります。林光の曲はさすがに秀逸です。不安、恐怖、嫌悪、笑い、憎しみ、悲しみ、さまざまな感情を喚起する場面に合わせて、さまざまなタイプの音楽をもりこんだ多彩な音楽をつくりあげていました。ポルカ、ユーモレスク、モーツァルト、バルトーク、ボヘミア民謡、ジャズ、ポップスなどなど、聞いていて飽くことがありません。人間の息吹にも似た音を出すクラリネットとファゴットが、場に暖かみと憂愁を添えています。そしてこんにゃく座メンバーの歌唱力・演技力の素晴らしさ! 特に感銘を受けたのが、聞き取りやすい言葉の発音です。歌詞のもつ意味を十全なかたちで聴衆に伝えるのだ、という熱い意思をひしひしと感じます。えてして陰惨で救いようのない話だと思われていますが、彼ら/彼女らのコミカルな演技やダイナミックな動きが、そうした思い込みを吹き飛ばしてくれました。難解な解釈なぞどうでもいいから、面白くて引き込まれるような悲喜劇にしちゃおうぜ、という意図だと思うし、だとしたらそれは見事に成功しています。なおカフカ自身も、この小説を喜劇としてとらえていた節があるそうです。

 そしてグレーゴルの悲惨で滑稽な死、厄介者がいなくなり喜んでピクニックに出かける両親と妹。原作はここで終わりますが、舞台では全員による合唱がフィナーレとして歌われます。(第17番「出発」) その歌詞の一節が耳朶に突き刺さりました。たしか「この家族も貨車に積み込まれていくのだろうか…」という内容です。この一家は(カフカも)ユダヤ人、よって二十数年後に行なわれた強制収容所への輸送とホロコーストを暗示しているのでしょうか。だとしたら… 虫=無価値なものになった兄を見殺しにした一家は、やがてナチスから虫=無価値なものと見なされ抹殺されていくということを含意しているのでは。"虫"とは、現代社会によって無価値なものにおとしめられた人々のメタファーなのかもしれません。ふとポーランドにあるイエドヴァブネという村のことを思い起こしました。ポーランド人とユダヤ人がずっと仲良く暮らしてきた村ですが、1941年、ポーランド人村民が1600人のユダヤ人を虐殺するという悲劇が起こります。ある朝、彼らが不安な夢から目を覚ましたところ、自分たちが無価値なものに変わっているのに気がついた… そういえばこのオペラでも、主人公が私たちに向かって、「君たちの身にも起こるかもしれないんだ」と語っていました。

 心地良い興奮と重い余韻を感じながら外へ出ると、六本木はあいかわらずの喧騒でした。人間を、「消費する」というたった一つの価値でしかとらえないこの街、ということは「消費する能力がない」人間はこの街にとって"虫"なのでしょうね。なお、来年には、こんにゃく座による「三文オペラ」(ベルトルト・ブレヒト+クルト・ワイル)の公演があるそうです。うん、絶対に見に聞きに行くぞと心に誓い、虚飾の街をそそくさと立ち去りました。
by sabasaba13 | 2009-09-15 06:20 | 音楽 | Comments(0)
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