近江錦秋編(14):円満院門跡(08.11)

 ここから歩くこと数分で三井寺に到着。んが、その前に門前の右手にある円満院門跡に寄ることにしました。紅葉の名所という風評は特に聞いてはいないのですが、もしや超スペシャル穴場かもしれないという色気が出たのと、併設されている大津絵美術館への興味にひかれた次第です。こちらのお寺さんは、平安時代後期に遡る古刹で、歴代門主には皇族の出身者が多いいわゆる門跡寺院。宸殿は桃山時代の書院造りで、庭園は相阿弥作と伝えられているそうです。宸殿のとなりはちょっとした会館風の建物になっており、ひっきりなしに人が出入りしています。今日は法要が重なっているのかな、と思いつつこちらでお代を払い宸殿を抜けて庭園へと行きました。
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 回廊にそって細長く池が掘られており、築山・石島・石橋がしつらえてあります。紅葉する木々はそれほど多くはありませんが、観光客が誰一人いないという好条件のもと静謐な雰囲気を楽しめました。そして「思案所」と書かれたトイレに寄って、併設されている大津絵美術館へ。大津絵とは何ぞや、以下スーパーニッポニカ(小学館)から引用します。
 江戸時代、近江国(滋賀県)大津の追分、三井寺の周辺で売られていた素朴な民芸的絵画。東海道を往来する旅人に手軽な土産物として求められたもので、寓意を込めたユーモラスな主題と速筆軽妙な略描が親しまれ、大津絵の名を全国的に広めた。その始源は寛永年間(1624~44)にさかのぼるといわれ、初めは十三仏や来迎仏、青面金剛など、民衆の持仏となる仏画が描かれていた。のちには藤娘、鬼の念仏、瓢箪鯰、鷹匠、奴など戯画的、風俗的な主題が一般的となり、手法も肉筆から版画へと移っていく。仏教や心学の教えを盛った道歌を図上に賛するなど教訓的となり、絵画表現も形式化を進めながら、その余命は明治以降にまでも及んでいる。
 ユーモラスでぬくもりのある大津絵の数々をしばし堪能。おそらく日本の歴史上はじめて民衆をマーケットとして描かれた絵画なのですね。その背景となったのは、生活のゆとりと旅行の活発化、おそるべし江戸時代。
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 なお帰宅後、橋本治氏の「ひらがな日本美術史4」(新潮社)で大津絵の章を読み直しました。それによると、「大津絵」という言葉の文献上の初出は、大津に滞在していた松尾芭蕉が1691(元禄4)年に詠んだ新年の句「大津絵の筆のはじめは何仏」で、芭蕉が命名者である可能性もあるとのこと。この句にあるように初期の画題は仏が中心で、橋本氏曰く一種のプリミティヴ・アート、ほのぼのとした大変素晴らしい仏画だそうです。美術館に初期大津絵があったかどうかまったく記憶にありません、己の眼力の無さと教養の欠落には悲しくなってきます。
 なお余談ですが、さきほど円満院門跡のホームページを見たところ、次のような言葉が巻頭に書かれていました。「日本水子供養霊場会総霊廟所全国30万人の水子様をお預かりする、安心・信頼の水子供養のお寺です。365日年中無休・予約なしで、お参り頂けます。当院は日本一の水子供養のお寺として水子供養の歴史を築いたお寺として広く知られております。水子供養の受付は、年中無休・予約不要」 だからあれだけの参拝客で賑わっていたのか。それにしても門跡寺院と水子供養、どういう関連があるのだろう? 気になりますね。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2009-10-13 06:07 | 近畿 | Comments(0)
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