箱根編(5):松永記念館(09.10)

 ここから数分ほど歩くと、松永記念館に到着です。戦前・戦後を通じて「電力王」「電力の鬼」と呼ばれた実業家であり、数寄茶人としても高名でもあった松永安左ヱ門(耳庵)が過ごした老欅荘(ろうきょそう)と庭園、彼に関する記念館、そして野崎廣太(幻庵)が建てた茶室「葉雨庵」があります。ここで実業家による近代茶道について、ウィキペディアに依拠しながら薀蓄をひとくさり。幕末以前の茶道は、大名・豪商・寺院などの庇護を得た、上流階級の嗜みという趣が強かったが、明治維新によって、これらの庇護を失うと一時の衰退を余儀なくされます。 しかし茶道は、次第に力をつけてきた実業家たちの間で、西洋文化に負けない優れた日本の伝統文化として再評価され、明治後期には茶道具や古美術の蒐集、茶室や庭園の造営が盛んに行われるようになりました。 やがて、熱心な実業家茶人の中には、自ら茶の湯を研究していくうちに、近代の合理的な発想などの新しい思想を積極的に取り入れて、より自由な茶の湯のあり方を志向する者が登場します。その第一人者が三井物産社長の益田孝(鈍翁)で、1906(明治39)年にここ板橋に「掃雲台」を営んだことから、小田原に近代茶人文化が興隆することになりました。1918(大正7)年に鈍翁の茶友で中外商業新報(後の日本経済新聞)社長の野崎廣太(幻庵)が、小田原に「自怡荘(茶室・葉雨庵)」を造営すると、鈍翁・幻庵を中心として、小田原を舞台とした近代茶人文化はますます盛んになりますが、この二人の他界(鈍翁は1938年、幻庵は1940年)、および太平洋戦争の影響で一時小田原の近代茶人文化は停滞を余儀なくされます。敗戦後の1946(昭和21)年に、鈍翁に導かれて茶の湯の世界に入った松永安左ヱ門(耳庵)が「老欅荘」を造営し移住したことから、ふたたびこの地で茶道が再興され、彼が1971年に亡くなるまで継続されたとのことです。
 それでは中に入りましょう。瓦を幾重にも練りこんだしぶい土塀を愛でながら、記念館に入ると入場料はロハとのことです。これは嬉しい。耳庵の書や愛用品などを拝見し、池をめぐって葉雨庵にまいりました。
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 実業家・野崎廣太(幻庵)が小田原に建てた茶室を移築したものですね。茶道に関してはまったくの門外漢なのですが、その美意識に関しては大いに興味をもっています。いつか本格的にたしなんでみたいという気持ちはあるのですが、いかんせんお金がかかりそう。"美"を想像するのにコストがかかることは重々承知しておりますが、常識的かつ手頃な費用で楽しめないものですかね。鈍翁も『茶是常識』と言っていることだし。世迷言はこれまでにして、門をくぐってみましょう。茶室に付随する庭園、いわゆる露地・茶庭は大好きです。こちらの露地を紹介します。あふれる緑の中をすこし歩むと敷石がとぎれ砂利道となります。そして右へ曲がり中門をくぐると小さな敷石がリズミカルに並んだ小路、左へそして右へ折れると土壁の腰掛待合があります。ふたたび右へ曲がると今度は大きめの敷石、まぎれこんだかのような石臼がしぶいですね。右手には自然石を利用した威風堂々とした手水鉢と灯籠、そして左手に茶室・葉雨庵があります。残念ながら躙り口は閉ざされており、中を垣間見ることも入ることもできませんでした。歩くにつれて刻々と変化する光景、それを演出する木々・木戸・敷石・手水鉢・灯籠、肢体と視覚の快楽を味わえる美の小宇宙。いいものですね。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2009-11-03 07:35 | 関東 | Comments(0)
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