深川七福神・洲崎編(3):龍光院(09.1)

 そして南へと歩いていくと清澄庭園の裏手につきあたります。ここは何度か訪れているので省略、大きな池とホオジロザメのように飢えた鯉たちが印象的な庭園です。なお芭蕉の句碑「古池や…」があるのはこの園内。(※写真は以前に撮影したもの) 塀ぞいに東へ歩いていると、「町会の良識あるみなさんへ ここは護美(筆者注:ゴミ)の捨てる場所ではありません 護美を一時預ける場所です 皆様の宝・国の宝・護美は決められた日・時に大切に出してください」という謎の看板がありました。うーん、ディープだ。
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 そして清澄通りぞいに南へと曲がり、すぐ東へと進むと松平定信の墓所である霊巖寺、そして深川江戸資料館ですが、こちらも訪れたことがあるのでカット。なお後者は、江戸時代の深川佐賀町の町並みを実物大で復元し、その中を自由に逍遥できるというなかなか面白い展示です。おまけに一日の移り変わりを照明や効果音で短時間のサイクルで再現するのも、往時の暮らしを体感できるいい試みですね。雀の声、行商人の売り声、お寺の鐘の音、「火の用心」の掛け声、按摩の笛など、昔はなんと優しい音々に囲まれていたことか。(※写真は以前に撮影したもの)
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 閑話休題。そろそろ小腹がへったので、深川飯でも食べますか。表通りに面した店は行列ができていますが、とてもそこに並ぶガッツはありません。脇道にある福佐屋に入ると席が空いていたので、こちらであさり丼(深川めしの異称?)をいただくことにしました。深川めしには、アサリを使った炊き込みご飯系と、アサリの味噌汁ごはんぶっかけ系がありますが、この店は後者、ごはん+汁系が大好きな山ノ神はご満悦の体でした。しかしディスプレイを借りて言わせていただくと、1050円は高い! 庶民の食べ物に1000円以上の価格をつけてはいけません。給仕のおばさんがテーブルに座り込み、TVを見ながら「そうそう、前に箱根駅伝を見ていた時にたいへんなことがあってねえ…」と客に世間話をはじめるような、ざっかけない雰囲気のお店です。そして深川江戸資料館の前の道に戻りしばらく東行、白河三丁目の交差点を南へ曲がりましょう。先端の尖った門松を見かけてちょっとほっとしました。門松の先端を切り落とすという無粋な所業が目についた頃から、"過剰なセキュリティへの希求"という動きが蔓延しはじめたような気がするもので。
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 そして毘沙門天を祀る龍光院に到着ですが、こちらも参拝客で長蛇の列ができています。ツーパス。列の脇で写真を撮影し、寺務所で朱印をもらって退散。
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 さらに歩を南へ進めると、右手にあるのが間宮林蔵のお墓です。以下、岩波日本史辞典から引用します。
 間宮林蔵(1780‐1844) 江戸後期の北方探検家。名は倫宗。常陸筑波郡上平柳村の農家に生れる。1799(寛政11)年、村上島之允の従者として初めて蝦夷地に渡り、翌年蝦夷地御用雇となる。1808(文化5)年、カラフト探検を命じられ、松田伝十郎とともにカラフトに赴く。この年カラフトが島であることを確認、翌年対岸に渡り、黒竜江下流の満州仮府のあるデレンに到る。その見聞は「東韃地方紀行」に詳しい。1822(文政5)年普請役。1828年のシーボルト事件は、林蔵の密告によるともいわれ、隠密としての行動も知られる。
 へー、彼がシーボルトと天文方高橋景保の関係を密告したことははじめて知りました。そのシーボルトが著書「日本」で間宮海峡を紹介し、世界的に知られるようになったのですが、彼はこの事実を知っていたのでしょうか。なお、わが敬愛する伊能忠敬の弟子であることも付言しておきましょう。不思議なのは街角に彼の墓石のみがぽつんと孤立していること。菩提寺が廃寺になってしまったためか、はたまた何か理由があるのか。ご教示を乞う。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2009-12-10 06:11 | 東京 | Comments(0)
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