深川七福神・洲崎編(7):洲崎(09.1)

 地下鉄に乗って次の駅が木場、かつての貯木場ですね。スーパーニッポニカ(小学館)から抜粋しますと、1701(元禄14)年に、江戸幕府が材木問屋に払い下げて町屋を開いたのが始まり。縦横に堀割が通じ、その水路を木置場としたことが地名となりました。筏を操る川並(かわなみ)の姿は江戸情緒として明治以後も残り、1975(昭和50)年ごろまでは約500の材木問屋、製材所が集中していました。しかし、地盤沈下による水面の上昇のための橋下の通行困難などで、14号埋立地(夢の島の南部、新木場)に移転したことにより、貯木場としての機能は消滅してしまいます。その一角でかつて栄えた赤線が洲崎です。以下、「赤線跡を歩く」(木村聡 ちくま文庫)から引用します。
 洲崎遊郭は根津にあった遊郭が1888(明治21)年、東京湾の埋立地に移転してきたもので、長崎の出島のように海に突き出した、廓だけの町だった。大正半ばの全盛期には業者数が三百軒を超えていた。戦時中は軍需工場の寮として接収され、やがて空襲で全焼。戦後は東側の半分(洲崎弁天町二丁目)だけが指定地になり、百軒あまりのカフェーがあったという。
 なおおしょすい話未見なのですが、川島雄三監督の映画「洲崎パラダイス・赤信号」(1956)の舞台ともなりました。話はそれますが、「幕末太陽伝」(1957)を見て以来、たいへん気になる方です。「日本映画史2」(佐藤忠男 岩波書店)によると、はじめは松竹大船で安物映画をせっせとつくっていましたが、日活に移って見違えるような才気を現すようになります。当時の一流監督が深刻な社会問題を生真面目にとりあげる傾向に反発した彼は、日本軽佻浮薄派を自称し、愚かな人物、強欲な人物、調子のよすぎる人物を面白おかしく軽妙に描くことに熱中して、独自のスタイルの風俗映画をつくりだしていきます。しかし劣性遺伝的筋萎縮症のため、45歳で急逝。今村昌平や浦山桐郎は彼の助監督として育ったこともつけくわえておきましょう。
 というわけで赤線跡探訪の一環、そしてまだ見ぬ傑作(怪作?)「洲崎パラダイス・赤信号」の舞台の地に立ってみたいという思いもあり、訪れた次第です。
 いちおう「大人のための東京散歩案内」(三浦展 洋泉社COLOR新書)は持参したのですが、詳しい地図が掲載されておらず、勘を頼りに歩き回るしかなさそうです。まずは東陽一丁目の西半分(大門通りの西側)を徘徊してみましょう。碁盤の目状の町並みをしばらくぐるぐると徘徊したのですが、それらしい建物は見当たりません。ただ気づいたのは、異様に床屋さんが多いということ。十数分間の散策で五軒も見つけてしまいました。三浦氏は、水商売の女性が足を洗って、とりあえず手に職をつけようとして床屋か美容室を始めることになったのではないかと推測されています。
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 その他として、屋根が立派な酒屋、西洲崎橋たもとの「戦災殉難者供養塔」、フェイス・ハンティング二連発、トマソン物件「空中ドア」をゲットしました。なおトマソンとは、赤瀬川原平氏らの発見による芸術上の概念で、不動産に付着していて美しく保存されている無用の長物をさし、創作意図の存在しない、視る側による芸術作品のことです。
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 本日の一枚は、新田橋からの眺望です。かつてこの運河にたくさんの材木が浮かび、川並たちの威勢のいい声がとびかっていたのでしょうか。
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by sabasaba13 | 2009-12-14 06:10 | 東京 | Comments(0)
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