松本・上高地編(25):開智学校(09.5)

 それでは中に入りましょう。扉や灯りのところなどに彫刻がほどこされていますが、外観とは違い全体的に質素なつくりです。
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 二階の講堂には半円形のステンドグラスがありましたが、当時の子どもたちはこれを見てびっくらこいたでしょうね。なお当然あるものと思っていた御真影の遥拝所が付設されておりません。この校舎が建てられた1876(明治9)年の段階では、まだ御真影を利用して天皇崇拝をすりこむ儀式は行われていなかったのかもしれません。
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 そして外に出て、もう一度外観をしみじみと眺めました。これまでは、単純に当時の人々の教育にかける熱い想いに感服しながら明治の学び舎を眺めてきたのですが、先日「日本の歴史十三 文明国をめざして」(牧原憲夫 小学館)を読む機会があって、それとは別の見方も必要だなと教えられました。以下、引用します。
 多くの地域指導者の念頭にあったのは、「国体」「国の富強」といった観念よりも、幕末以来の混乱を収拾し地域秩序を回復させなければ村の発展は望めないという、切迫した思いだった。武蔵国多摩郡で小野郷学をつくった石坂昌孝らは、明治五年(1972)の「誓則書」で、<孝悌をおさめ、道理を弁え、御法度を会得致させ、風俗を正しくすべきため>と学校を位置づけている。彼らが依拠したのは、これまでと同じく儒教倫理と勤勉実直を説く通俗道徳であり、目の敵にしたのは、やはり若者組だった。
 もともと近世後期の教育熱の高まりも、若者組から子どもを引き離す意図があったとされる。(p.126)

 「小学生」が雑多であればあるほど、一定の教育水準を確保するには統一的で厳格な試験が必要だった。何より、いまや自由経済、弱肉強食の社会である。物乞いへの施しは功徳だといった<頑愚固陋>の通念を打破し、試験という難関を突破する意欲と実力のある者こそが<一身独立><立身出世>に値する人間なのだということを、子どもや親に痛感させる必要があった。
 それだけではなかった。始業時間の10分前に登校し、起立・礼・着席から教科書の取り出しまでを号令に従って素早く行ない、細かい時間割に区分された授業をじっと座って辛抱強く受けつづける、そうした身体―精神規律を身につけた者こそが文明社会に適合的な人間であり、近代的な組織体、とりわけ軍隊や工場が求めたものだった。試験は学習の成果のみならず、そうした規律を身につけたかどうかを点検する場でもあった。(p.134)
 うーむ、なるほど。地域秩序の回復、自由経済(弱肉強食)社会への適応とそのための訓練、子どもたちをめぐる様々な思惑が、こうした斬新なデザインの校舎の中でせめぎあっていたのですね。しかも子どもたち自身のためというよりは、大人たちの利害のために。近代社会のもつ光と影、その双方についてきちんと考えねば、とあらためて思いました。なお旧開智学校は、愛媛県宇和町の開明学校の姉妹館として提携しているそうです。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2010-03-28 07:09 | 中部 | Comments(0)
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