「ファウスト博士」

 「ファウスト博士 (上・中・下)」(トーマス・マン 岩波文庫)読了。以前から読みたいなと思っていた小説です。理由は単純で、何かの本で、主人公である作曲家が無調音楽(十二音技法)に挑戦する時に、友人に対して「あの池の水は冷たそうだ」と語ったという場面があると知ったからです。そしてアルノルト・シェーンベルクがそのモデルではないか、ということも。確かにありました、以下引用します。
 私たちはそれからあと、帰り道でほとんど話をしなかった。私たちがほんのしばらく牛槽(タームルデ)のほとりに立ちどまったのを私は覚えている。私たちは野道から数歩わきへそれて、もう傾きかかった夕日を顔に受けながら水面をながめた。水は澄んでいた。それで岸の近くだけ底が浅いのが見えた。しかし岸からちょっと離れると、もう底はたちまち暗闇に沈んでいた。この池の真中が非常に深いことはよく知られていた。
 「冷たい」と、彼は頭をそっちへ振って見せながら言った。「今は泳ぐのには冷たすぎるな」「冷たい」と、彼は一瞬のちに、今度ははっきりと身震いしながら繰返し、くびすを返して歩き出した。(中p.44)
 しかしこの小説は、前衛音楽家のたんなる苦心譚ではありません。天才作曲家アドリアン・レーヴェルキューンが、芸術の不毛と孤立を、娼婦からの病毒感染による霊感という「悪魔の契約」によって乗り切ろうとし、やがて破滅していく物語です。そして友人である古典語学者ゼレヌス・ツァイトブロームが、1943年5月23日より、故人となったアドリアンの生涯を綴るという仕掛けをもっています。そう、ドイツ第三帝国が破滅に至る時間と同時進行で、アドリアンの破滅を語る、という構成です。悪魔と契約をしたアドリアンと、ヒトラーを招き寄せたドイツ国民が二重写しとなって、小説に大きな深みをもたらしています。人間がもつ魔神的(デモーニッシュ)な性格への洞察が全編を支える通奏低音となって響きますが、いかんせん、晦渋にして象徴的・思弁的な文章のため、浅学非才な小生は十分に意味をとれない箇所も多々ありました。ああ悔しい。でもマンが、おそらく血を吐くような気持ちで綴ったドイツに対する絶望は、痛いほど胸に迫ってきます。例えば…
 われわれがドイツの敗北よりももっと恐れることがある。それはドイツの勝利である。…自分たち自身の未来と人類の未来のために彼らの国家の敗北を望む運命を負わされた国民… (上p.56~57)

by sabasaba13 | 2010-04-02 06:29 | | Comments(0)
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