下館・益子編(1):下館(09.8)

 葉月の某日、下館と益子の散策に日帰りで行ってきました。このあたりは以前も訪れたのですが、下館にある板谷波山記念館と、遠藤新が設計した真岡の久保講堂が見られなかったのがずっと心にひっかかっていた次第です。その後、下館には商家の蔵がかなり残っているという情報を入手し、また焼き物の町・益子にも行ってみたいという思いも重なり、こやつらを一括りにした日帰り旅行を決行いたしました。持参した本は「東北」「続・東北」(河西英通 中公新書)です。
 まずは池袋から湘南新宿ラインに乗ること一時間強で小山駅に到着、ここから水戸線に乗り換えです。駅構内には「旅情報・水戸線沿線コーナー」という展示があり、特産品の石灯籠(真壁町)、益子焼(益子町)、稲田みかげ石(笠間市)が並べられていました。また「おかげさまで水戸線一二〇周年」というポスターがあったので、どりゃどりゃと置いてあったパンフレットを頂戴し、下館に向かう列車の中で拝見いたしました。
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 それによると、前身は水戸鉄道で1889(明治22)年、ということは大日本帝国憲法発布の年に小山~水戸間で開通、1906(明治39)年に国有化され、県北の文明開化や常磐炭の輸送に貢献したとのことです。沿線には、結城下館稲田笠間といったディープな町が点在しており、私もかつて愉しませてもらいました。さて、二十分ほどで下館に到着、真岡鐵道に乗り換えて、長駆、益子まで移動する心積もりでしたが、次の列車まで約三十分の待ち時間があります。よって予定を変更し、先に下館の町を徘徊することにしました。まずはこの町の紹介です。往古に、藤原秀郷が平将門討伐のため、伊佐庄に上館、中館、下館の三館を築いたことより地名が出たと言われます。古代は常陸国新治郡に属しましたが、中世は真壁郡となり、近世には下館藩(石川氏)の城下町となりました。真岡木綿として知られる綿の産地で、二宮尊徳が藩の財政再建に尽くした所でもあります。交通の要地のため古くから商業が盛んで、近世には酒造のほか木綿、肥料、米などを集散し、明治以後は県西から栃木県東部にかけての商業都市となりました。工業では足袋底織業が大正、昭和時代にかけて全国の80%を生産、第二次世界大戦中に軍需工場が移ってから近代工業もおこり、茨城県有数の工業都市となります。なお2005年(あー平成に読み替えるのは面倒くさい)年、下館市・関城町・明野町・協和町が合併して「筑西市」となりました。
 以前来た時に観光案内所がないのは確認済み、まずは駅前に設置されている周辺案内図を確認することにしましょう。すると「加波山事件志士の墓」を発見、これはぜひ寄ってみなければ。なおここ下館は、画家の青木繁房州で「海の幸」を書き上げた後、臨月のたねを伴ってこの地の旅館に三ヵ月逗留し、「大穴牟知命」を書き上げ、子息の幸彦(「海の幸」に因む)が生まれた縁の地です。よって彼の絵を陶板に複写した"CERAMIC MUSEUM"が各所にあり、駅前には「海の幸」、その裏に「大穴牟知命」が展示されています。
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 駅前からは二つの道がのびていますが、左側が旧市街を貫く道のようです。駅前だというのに、シャッターを閉めた店や廃業した店がよく見かけられ、地方経済の窮状を目の当たりにする思いにいたたまれなくなってきました。
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by sabasaba13 | 2010-04-15 06:30 | 関東 | Comments(0)
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