下館・益子編(2):加波山事件志士の墓(09.8)

 巽坂をすこしのぼって左に折れると妙西寺があり、道をはさんで山門の前に「加波山事件志士の墓」がありました。加波山事件とは? 以下、岩波日本史辞典から引用します。
 1884(明治14)年9月要人暗殺を企てた福島・北関東の自由党員らが茨城県真壁郡の加波山に本部を置き、警察分署・商家を襲い警官隊に包囲・検挙された事件。自由民権運動激化事件の一つ。福島事件で逮捕された河野広躰と栃木自由党急進派の鯉沼九八郎、上毛自由党員らが連携、83年以後三島通庸暗殺などを計画し、たびたび延期・失敗。茨城自由党の富松正安も参加した84年9月栃木県庁落成式での襲撃計画も延期により失敗、官憲に察知され、加波山に追いつめられた16人が襲撃行動に走って逮捕された。86年死刑7人・無期徒刑7人。公然と<専制政府転覆><自由立憲政体の造出>を唱えて蜂起し、爆弾を使用したことは、政府や自由党中央に衝撃を与え、弾圧を強め、自由党解党の一つのきっかけとなった。
 そういえば、この事件の際に金品を強要された豪商・中村家を、真壁で見たことがありましたっけ。小さな広場の正面に、四本の白い石柱が立っていますが、これが事件に加わった下館の民権家、富松正安・保多駒吉・玉水嘉一と、栃木県の民権家、平尾八十吉の墓標です。解説板には「事件後、百数十年を経た今日、志士の高邁な行動は、国民の広く認めるところとなり、志士の目指した「平和と民主主義」は、現在、国民生活の中に定着しました。」と記されていました。
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 うむむむ、さすがに"国家への反逆者"という見方はなくなったようですが、この一文には二つの留保をつけたいですね。まず自由民権運動の中に国権論そして海外侵略へと向かう思想上の契機があった、つまり一概に平和を求めていたとはいえないこと。そして「平和と民主主義」がほんとうに国民生活の中に定着したのか、疑問であるということ。前者については、戦後の日本は西側アメリカ陣営の一員としてアジア三十年戦争(朝鮮戦争・ベトナム戦争)に積極的に関与し、その戦争の時代が生み出した利益をアメリカ経由で全部吸い上げて肥え太ったということに対する国民的認識がいまだにないことを挙げるだけで十分でしょう。"戦後日本は平和であった"という言説をふっとばしてしまう冷厳なる歴史的事実です。後者については、確かに民主主義(関係者の全員が対等な資格で意思決定に加わること、と定義しておきます)を実現するための制度や手続きは整いつつありますが、それを十全に機能させる精神や心構えが私たちに根づいているのか。いくつかあげると、個々人の思想・信条の自由が最大限尊重されているのか、一人一人が異なった意見をもちその発表や表現について不利益を被らないか、意思決定のために絶対に欠かせない報道の自由や知る権利が守られているのか、などなど。ちょっと考えただけでも寒心にたえません。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2010-04-16 06:26 | 関東 | Comments(1)
Commented at 2010-09-23 07:22 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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