下館・益子編(7):益子陶芸美術館(09.8)

 さてそれでは目抜き通りからすこし坂をのぼった高台にある益子陶芸美術館へ行ってみますか。常設の展示室では、濱田庄司、河井寛次郎、バーナード・リーチらの手による馥郁たる名品に出会えました。そうです、益子といったら濱田庄司、濱田庄司といったら益子です。スーパーニッポニカ(小学館)から引用しましょう。
 浜田庄司(1894―1978) 陶芸家。神奈川県川崎生まれ。15歳のときルノアールのことばに触発されて工芸を志し、1913年(大正2)東京高等工業学校窯業科に入学。板谷波山に師事し、先輩の河井寛次郎を知る。のち京都市立陶磁器試験場に入所し釉(うわぐすり)の研究を行う。20年、在日中のバーナード・リーチに同行して渡英し親交を深め、24年帰国後、栃木県益子に築窯。同地の陶土や釉薬を基本として無作為ともみえる加飾を重厚な器に施した質朴雄勁な作風を確立し、35年(昭和10)には独自の様式を完成した。また、大正末期より柳宗悦らと民芸運動を推進し、62年(昭和37)には柳の後を継いで日本民芸館館長に就任。55年には民芸陶器の重要無形文化財保持者に認定され、68年には文化勲章を受章。益子に没。多くの作品は同地の益子参考館に陳列されている。
 さきほど拝見した板谷波山の器には緻密で求心的な美を感じましたが、濱田庄司の器からは天衣無縫な躍動感が伝わってきます。桂文楽と古今亭志ん生、ジョン・コルトレーンとソニー・ロリンズ、王貞治と長嶋茂雄、イワン・レンドルとジョン・マッケンローといういいかげんな対比を思いついてしまいました。さて、なぜ濱田庄司は益子を作陶の地として選んだのか。美術館に解説があったので紹介しますと、当時の濱田はイギリスから帰国したばかりで陶芸界の寵児でした。畏友の河井寛次郎も、京都など陶芸の先進地で活躍すべきだと猛反対したそうです。益子といえば、生活雑器を関東一円に出荷する無名の地。鑑賞するものよりも日常使うものに美を求め、作り手の健康的な暮らしから真の美は生まれると考えた濱田は、それだからこそここを選んだのですね。「京都で道をみつけ、英国ではじまり、沖縄で学び、益子で育った」、彼の言です。企画展では第七回濱田庄司・加守田章二益子陶芸展受賞者展が開かれており、斬新な意匠の器の数々を堪能。二階では益子焼の歴史についての展示があります。それによると、益子焼の創業は江戸時代末期、黒羽藩が保護・奨励したことで盛んになります。主に生活雑器が中心で、ナコソと呼ばれる鮫肌釉の土瓶が有名ですね。また駅弁とともに販売されたお茶の容器の東日本唯一の生産地でもありました。そして濱田庄司の影響で、民芸陶器づくりが活発となり飲食器や花器もつくられるようになります。現在では原土の不足という問題を抱えながらも、耐熱容器の試作などへのチャレンジが行われているそうです。そうそう、階段踊り場に何気なく飾られている清水登之の「陶土の丘」もお見逃しなく。さて喫茶室で珈琲をいただいていると、濱田庄司の志を継ぐ浜田製陶所がつくった器を展示・販売するコーナーが近くにありました。値段も手頃だし、寝酒のウィスキー用にきれいな蕎麦猪口をひとつ購入しました。なお、今当該のサイトを見ていてわかったのですが、こちらには濱田庄司の旧宅が移築保存されていました。奥の方にあったので気づかなかったなあ、不覚。再訪を期しましょう。
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by sabasaba13 | 2010-04-21 06:25 | 関東 | Comments(0)
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