五島・対馬・壱岐編(3):出津教会(09.9)

 途中で黒崎教会や、遠藤周作文学館を車窓から眺め、70分ほどで出津文化村に到着です。美しい海とわずかな平地に密集する集落を眺め、バス停のすぐ眼の前にある坂道をのぼると外海(そとめ)歴史民俗資料館に到着です。
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 キリシタンや民俗・生活関係の展示を拝見し、事務室にお願いして荷物を預かってもらい、教会へと向かいましょう。おお、資料館のすぐ前にあるトイレもまるで教会のようなつくりです。
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 このあたりは「歴史の道」として整備され、道案内板や解説板もありますので道に迷う心配はありません。斜面を縫うように走る眺めのよい遊歩道を気持ちよく散策。
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 数分歩くと授産場・マカロニ工場・鰯網工場からなる出津救助院に着きました。困窮を極める村人たちを救うために、ド・ロ神父が私財を投じて設立した授産・福祉施設です。彼は、1840年、フランス・ノルマンディのヴォスロールに生まれ、宣教および石版印刷の技術を伝えるために1868(慶応4)年に来日、74歳で亡くなるまでの46年間を日本で過ごし、そのうちの大半、33年間を外海の人々のために捧げた方です。製粉、搾油、パン、マカロニ、ソーメンなどの製造、イワシ網工場、農業、土木、医療活動など、外海の人々のためにさまざまな分野で尽力しましたが、これらをすべて一人で行なったというのですから、その知識と能力には驚嘆します。なお残念なことに授産場・マカロニ工場は修復中のため見学できませんでしたが、ド・ロ壁は見ることができました。地元の雲母片岩で築いた石壁ですが、当時は岩の粘着用としてアマカワ(赤土と石炭にのりとすさを混ぜてこねたもの)が用いられていましたが、ド・ロ神父の教えによりアマカワを用いず石炭と砂のみを使ったところにあるそうです。そのため頑丈となり、多くの大工・左官がこの技法を学び取り、九州各地に広がったそうな。
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 鰯網工場はド・ロ神父記念館として公開されており、彼が私費でヨーロッパ諸国から購入した機械器具や、教会関係の資料が展示されています。その前には神父の銅像がありました。
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 そして記念館の先へ行くと、教会の屋根が見えてきました。石壁のある小道をすこし歩くと、1882 (明治15)年、ド・ロ神父の設計施工で建てられた出津教会に到着です。まるで大地に根をはったような平べったい白亜の建物に切妻造りの大きな瓦屋根、そして両サイドに屹立する大小二つの塔楼がよいアクセントになっています。この低さは、強風に対処するための処置だそうです。
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 中に入ると、木造のシンプルなつくり、正面の祭壇も質素なものでした。まるでついさっきまで神父と信者がそこにいたような告解室、先唱者当番表・平日朗読当番表・典礼奉仕当番表や、御ミサ依頼の封筒などを見ていると、今でも信仰の拠り所として息づいているのがよくわかります。
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 窓からさしこむ柔らかな光をあびながら、しばし席に座り、この地のキリシタンの歴史について思いを馳せてしまいました。それにしても、遠い遠い異郷の地に赴き、身命や私財を投げ打って困窮した人々を救い、教えをひろめる、そのパワーはどこから湧出してくるのでしょう。仏教の僧侶が海外に赴いて貧しい人々を救いながら布教したという話は、寡聞にして聞いたことがありません。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2010-07-04 05:50 | 九州 | Comments(0)
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