五島・対馬・壱岐編(4):浦上(09.9)

 さてそれではバス停に戻りますか。資料館に寄って丁重にお礼を言い荷物を受け取り、坂道をおりると「人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです」と刻まれた遠藤周作の「沈黙の碑」がありました。眼下にひろがる海は黙して語りません。なお、帰郷後、ひさしぶりに「沈黙」を読み直したのですが、当該の一文は見あたりませんでした。そのあたりの仔細についてご存知の方、ご教示ください。そしてやってきたバスに乗り込み、長崎市街へと戻ります。途中で、石壁の民家や立派な石の鳥居があるのを見かけました。長崎県では石の文化に注目したほうがよさそうです。
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 バス停「大橋」でおりて、まず訪れたのは永井隆博士の病室兼書斎であるわずか二畳の「如己(にょこ)堂」。被曝して白血病となりながらも被災者の救護活動に尽力された方です。
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 そして十分ほど歩くと浦上天主堂に到着です。東洋一の大聖堂と謳われながらも、原子爆弾によって倒壊。現在の建物は1958(昭和33)年に再建されたものです。前の植え込みには、原爆によって破壊された石の聖像が展示されていました。なお今調べていてわかったのですが、ここから北方30mのところに吹き飛ばされた鐘楼の一部が野外展示されており、また信徒会館の二階には原爆資料室があるそうです。
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 そして平和公園へ、途中にあったマンホールの蓋の意匠は、紫陽花に囲まれた五芒星、その由来が気になりますね。長い石段をのぼると「天主堂の見える丘」、浦上天主堂を遠望することができます。
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 北村西望が制作した平和祈念像に一礼を捧げて、南へ歩いていくと原爆によって破壊された長崎刑務所浦上刑務支所の鉄筋コンクリート塀の根元部分が残されていました。
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 姉妹都市のポルト(ポルトガル)とミデルブルフ(オランダ)から贈られた記念碑、浦上刑務支所の遺壁を拝見して石段をおり、小川ぞいにしばらく歩きます。1945年8月、この川にも多くの被災者が水を求めて押し寄せたのでしょう。その光景を想像しただけでも慄然とします。
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 そして原爆落下中心地へ、浦上天主堂の遺壁がモニュメントとして野外展示されています。そのとなりに原爆落下中心地を示す黒御影石の石柱が屹立していました。Ground zero… 石柱が指し示す紺碧の空を見上げても、そこには何もありません。言葉にならない思いが胸に去来しますが、それを言葉にするのがせめて私たちにできることでしょう。
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 近くには「被爆50周年記念事業碑」があり、解説に「…この尊い犠牲が今日の平和の礎となった…」と記されていました。尊い犠牲? 平和の礎? まるで歴史を糖衣で包んだような曖昧な表現に、おもいきり違和感を覚えます。
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 ジャン・タルジューに、次のような詩がありましたっけ。
 死んだ人々は、還ってこない以上、
 生き残った人々は、何が判ればいい?

 死んだ人々には、慨く術もない以上、
 生き残った人々は、誰のこと、何を、慨いたらいい?

 死んだ人々は、もはや黙ってはいられぬ以上、
 生き残った人々は沈黙を守るべきなのか?
 私たちは何を判り、何を語り、そして何をすればよいのか。原爆投下をふくむ第二次世界大戦の全体像を冷徹に考究すること、その間になされた戦争犯罪の責任を記録と記憶にとどめること、それらを生んだ文化的土壌をなくすこと、そして核(原子力)発電をふくむすべての核利用を廃絶することではないかと考えます。小川のほとりへとおりると、ガラス越しに多くの瓦礫をふくむ被爆当時の地層が保存されていました。整備された川沿いの遊歩道を歩く幸せそうな親子連れの姿がやけに眩く見えます。
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 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2010-07-06 06:32 | 九州 | Comments(0)
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