南東北錦秋編(4):山形へ(09.10)

 裏磐梯高原駅(物産館側)でやってきたバスに乗り込み、さきほど気になった石碑を撮影するために左側の席を陣取りました。磐梯山噴火記念館、そして五色沼入口を通り過ぎ、たしか「国際スキー場」というバス停のあたりにあったはずだと、eye of the tigerになって車窓から見つめていると…あった…ぱしゃ。もう一つあったはずだ…ない。おのれ、見過ごしたか。さっそくディスプレイで確認してみると、窓枠によって三分の一ほど見えなくなっています。失敗でした。
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 それでも気になるので、帰宅後、インターネットで調べてみると、次のようなことがわかりました。1939(昭和14)年、東京電灯は秋元発電所の下流に「磐瀬発電所」の建設を申請しましたが着工には至らず、しかし戦争が始まり電力不足となったため、短期間に完成可能な発電所としてこの地が再浮上しました。1943(昭和18)年に日本発送電が着工しましたが、沼倉発電所として完成したのは敗戦後の1946(昭和21)年となります。(「福島県史」「猪苗代湖利水史」) その際に、強制連行した712人の中国人が投入され、苛酷な労働環境と酷使により、僅かに二ヶ月半の間に13名の者が、極度の栄養失調と過労と寒さのために死亡しました。1947(昭和22)年、発電所の作業現場近くに「中華民国人殉難者慰霊碑」が、その近くに「朝鮮人殉難者慰霊碑」が建てられたそうです。いつの日にか再訪する機会があったらぜひ立ち寄り、黙祷を捧げたいと思います。
 市街地に入ったところで「野口英世博士の想いで 清作が医師を志す出発地 六角橋」という掲示を見かけました。彼が三城潟の自宅から猪苗代尋常高等小学校へ通うとき、また医師試験のために上京するとき(1895)、渡った橋だそうです。猪苗代駅に到着し駅前広場をぶらつくと、ここにも野口英世物件がありました。彼と母堂シカと恩師小林栄のレリーフおよび「忍耐」と刻んだ石碑。そして1900(明治33)年に、郷里の人々に見送られ、この駅からアメリカに向かったと記する解説板。とどめは駅構内に貼ってあった「野口英世博士のふるさと 猪苗代にようこそ」という垂れ幕。
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 そして磐越西線で郡山に戻り、13:31発の山形新幹線で山形に向かいます。自由席で余裕のよっちゃんだなとなめていたら、あらまっちゃんでべその宙返り。立錐の余地が多少あるぐらいの大混雑です。やれやれ。しょうがないのでデッキに立って坂口安吾を呼んでいると、赤湯で下りる方が多くようやく坐ることができました。みなさん、温泉に行くのかな。さっそく車内販売で米沢名物「牛丼弁当 牛肉どまん中」を購入してたいらげ、珈琲を飲んでいるとそろそろ山形に到着です。おっ茂吉記念館前駅だ。斉藤茂吉は山形の金瓶の生まれ、かなり前にこの記念館を訪れたことを思い出しました。とはいっても記憶に残っているのは、茂吉は小便が大変近く、いつも「極楽 茂吉」と書いてある小さな金のバケツを持ち歩いて用を足したというエピソードだけですが。そのバケツが展示してあったのには驚愕しました。余談ですが「線路を楽しむ鉄道学」(今尾恵介 講談社現代新書1995)によると、この路線の庭坂~関根間のうち約25kmは、大半を33.3パーミル(最大で38パーミル)が占める、日本有数の急勾配だそうです。だからどうしたと言われても困ってしまいますが。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2010-09-25 06:34 | 東北 | Comments(0)
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