中山道編(5):望月宿(10.1)

 そしてふたたびやや広い車道に合流、火の見櫓やダブルの交通安全足型を写真におさめ、国道142号線の下をくぐってすこし歩くと望月宿の入口に到着です。
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 ここからゆるやかな下り坂になっていて、やや高い視点から、道の両脇に家々が建ち並ぶ宿場の様子がよくわかります。景観をぶちこわす高いビルや建物がないのがいいですね。これで電柱・電線がなかりせば冬の心はのどけからまし。おっ気がつくと「信濃毎日」という看板がありました。いまだ現役なんだ(失礼しました)。信濃毎日といえば、桐生悠々のことが思い出されます。以下、スーパーニッポニカ(小学館)から引用します。
桐生悠々(1873-1941) 新聞記者。本名は政次。明治6年5月20日金沢生まれ。1899年(明治32)東京帝国大学法科卒業。博文館、下野新聞社、大阪毎日新聞社、大阪朝日新聞社などを転々としたのち、1910年(明治43)『信濃毎日新聞』主筆となる。12年(大正1)9月、乃木将軍の殉死を陋習として社説で批判し、非難攻撃を受ける。14年『新愛知』の主筆として名古屋へ行くが、24年退社。
28年(昭和3)ふたたび『信濃毎日』に主筆として迎えられるが、33年8月11日付けの社説「関東防空大演習を嗤ふ」が軍関係者の間で問題化し10月退社。以後、名古屋郊外守山町に移り、名古屋読書会を組織、かたわら個人雑誌『他山の石』を毎月発行して時局批判、軍部攻撃を続ける。発禁を受ける回数が増えるとともに喉頭癌が悪化、41年(昭和16)8月「廃刊の辞」を友人、読者に発送したのち、9月10日死亡。反軍ジャーナリストの壮絶な最期であった。
 そう、菊竹六鼓とならび、世論に迎合せず敢然と軍国主義を批判した硬骨のジャーナリストですね。「ご臨終メディア」(森達也+森巣博 集英社新書0314B)の書評でも述べましたが、昨今の日本のメディアの低劣さには目を覆いたくなります。中身の無い醜悪なテレビ番組・紙面を垂れ流し、強い者には媚び諂い、弱い者はみんなの憎悪や恨みを代行するかのように徹底的に叩いて懲罰し、世界の重要な動きを報道せず、視聴率や販売部数が稼げそうな国内の話題を追いかける… この二人の事跡についてふりかえって、メディアのあるべき姿について思いを馳せるのも必要かと思います。『関東防空大演習を嗤ふ』の一部を紹介します。
 私たちは、…かかる架空的なる演習を行っても、実際には、さほど役立たないことを想像するものである。…何ぜなら、是の時に当り…一切の敵機を射落すこと能わず、その中の二、三のものは、自然に、我機の攻撃を免れて、帝都の上空に来り、爆弾を投下するだろうからである。そしてこの討ち漏らされた敵機の爆弾投下こそは、木造家屋の多い東京市をして、一挙に、焼土たらしめるだろうからである。…逃げ惑う市民の狼狽目に見るが如く、投下された爆弾が火災を起す以外に、各所に火を失し、そこに阿鼻叫喚の一大修羅場を演じ、関東地方大震災当時と同様の惨状を呈するだろうとも、想像されるからである。…だから、敵機を関東の空に、帝都の空に、迎え撃つということは、我軍の敗北そのものである。[『信濃毎日新聞』 1933.8.11]
 もう一つ、彼が友人たちに送った「廃刊の辞」の一部も紹介します。「畜生道の地球」(中央公論新社)におさめられていますが、残念ながら絶版のようでした。
 さて小生『他山の石』を発行して以来ここに八個年超民族的超国家的に全人類の康福を祈願して孤軍奮闘又悪戦苦闘を重ねつゝ今日に到候が…時偶小生の痼疾咽喉カタル非常に悪化し流動物すら嚥下し能わざるように相成やがてこの世を去らねばならぬ危機に到達致居候故小生は寧ろ喜んでこの超畜生道に堕落しつつある地球の表面より消え失せることを歓迎致居候も唯小生が理想したる戦後の一大軍粛を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何にも残念至極に御座候。
 絶句するような凄絶な文章ですね。"超民族的・超国家的な全人類の幸福"という言葉の響きは、その輝きを失っていません。もちろん、今では"全生物"と言い換えたほうがよいかもしれませんが。そしてわれわれは畜生道から脱することができたのか。多くの他者・生物、そして環境を犠牲にして、一部の者だけが極楽を享受する、陰湿で洗練された新しい畜生道に陥っているような気もします。手遅れにならないうちに畜生道から脱け出すため、彼らの奮闘・苦闘から学ぶところ多々あるでしょう。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2011-01-13 06:27 | 中部 | Comments(4)
Commented by 出がらし紋次郎 at 2011-01-23 10:54 x
桐生悠々には、こういう見方もありますが…
http://www.geocities.jp/showahistory/history02/16e.html

桐生や菊竹六鼓は元々保守、と言うよりは明治時代の自由民権運動の生き残り、といった存在で、当時の軍部専横・ファシズム批判も、
「世論に惑わず政治に拘らず只々一途に己が本分の忠節を守り」
(平仮名・現代かなに改めた)とある軍人勅諭や五箇条の御誓文を論拠にしていたようです。(稲垣武『朝日新聞血風録』より)

 まぁ、戦時中でも己の筋を通した、ということでしょうが、当時の一気に戦時体制になだれ込んだ状況を考えると、どんなに正論を吐いても受けいられずに

 あっしが当時の人間なら、
 永井荷風みたいに徹底的に世間に背を向けるか、
 ヒトラーとムソリーニと日本の東條秀機を並べて三国同盟を批判して国会(大政翼賛会)を追われた、田渕豊吉よろしく、
「カキマゼ(出身地である和歌山でいう五目飯)でも喰うて昼寝でもしとった方がマシじゃ!」となるのでしょうがw
中々うまくいかんでしょうねw
Commented by 出がらし紋次郎 at 2011-01-23 11:01 x
当時の一気に戦時体制になだれ込んだ状況を考えると、どんなに正論を吐いても受けいられずに
(つづき)
、一方的に社会的な地位を葬りさられても仕方がなかったでしょうね。あるいは、赤紙一枚で最前線に放りこまれるか。

#田渕豊吉(WIKI)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B8%95%E8%B1%8A%E5%90%89
Commented by sabasaba13 at 2011-01-23 20:21
 こんばんは、出がらし紋次郎さん。コメントをありがとうございました。桐生悠々に関する当該サイト、たいへん参考になりました。やはり国家権力というビヒモスと対峙するには、天使の如く大胆で悪魔の如く細心なしたたかさが必要なのですね。
 当時のような状況に自分が置かれたらどうするか、想像もつきませんが、物が言えるうちに物を言っておかないと、物が言えない時がやってくるのは間違いないと思います。そういう時代が来てからでは手遅れでしょう。“もう一回言っておけばよかったと後悔しないように、何千回も言われ尽くしたようなことでももう一度言わねばならない”というブレヒトの言葉を肝に銘じます。
 なお田渕豊吉という方は寡聞にして知りませんでした。興味深い人物ですね、ご教示感謝します。
Commented at 2011-02-03 21:09 x
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