目白編(6):林芙美子記念館(10.1)

 なお、設計を依頼された山口文象については時々耳にする方なので、ウィキペディアで調べてみました。山口文象(やまぐちぶんぞう)[1902‐1978]、1930年代から60年代にかけて活躍した、近代日本建築運動のリーダーのひとりであり、モダニズム建築デザインと同時に和風建築の名手であった建築家。東京工業学校附属職工徒弟学校木工科卒業後、清水組を経て、逓信省営繕課の製図工、そして帝都復興局橋梁課の嘱託技師となり、主に震災復興の橋梁デザインに関わりました(清洲橋、数寄屋橋、浜離宮南門橋など)。さらに日本電力の嘱託技師も兼務し、富山県の庄川や黒部川のダムや発電所の建築や土木デザインにも関わります(黒部第2発電所、目黒橋、小屋平ダムなど)。1930年に渡欧、当時バウハウスを辞してベルリンにいた建築家ワルター・グロピウスのアトリエで働きつつ、ダム関係の調査、ベルリン在住の左翼系日本人たちとも交流しました。帰国後、山口蚊象建築設計事務所を主宰、最先端のモダニズム建築を次々と発表していきます。その一方で、大工棟梁の息子として和風建築にも造詣が深く、鎌倉浄智寺・関口邸茶席、画家・前田青邨邸、小説家・林芙美子邸、自邸など木造の本格的和風住宅にも多くの秀作があります。戦中は各地の軍需工場に動員された工員たちの木造宿舎群を、ドイツで学んだジードルングになぞらえて数多く設計しました。
 戦争による逼塞の後、1949年に猪熊弦一郎と企画して、美術団体の新制作協会に谷口吉郎、前川国男、丹下健三等とともに建築部を設立し、戦後の活動に踏み出しました。1951年、三輪正弘、植田一豊とRIAグループと称して集団建築設計方法の模索ののち、1953年に協同設計組織として「RIA建築綜合研究所」を設立し、戦後のモダン住宅設計をリードすることになります。
 黒部第2発電所の写真を見て、その力強くも美しいモダニズム建築に心奪われたのですが、その彼の作品にここでお目にかかろうとは思いもしませんでした。遠藤新とならんで、彼の作品もしばらく追っかけることになりそうです。なお御茶ノ水の聖橋(設計:山田守)の透視図を山口文象が描いているという指摘もあったので、彼が関与していた可能性もあるかもしれません。また山形県山形市七日町に彼が設計した梅月堂が現存していることも知り、先日訪れたのに無知の故見過ごしてしまったことを悔やんでおります。中国国歌「義勇軍行進曲」の作曲者にして、鵠沼海岸で水死したニエ・アルの記念碑も彼の手になることも知ってびっくり。
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 それでは中に入ってみることにしましょう。生活棟・アトリエ棟・大谷石蔵が並んで建っており、数奇屋造りと民家風の趣を合わせたような瀟洒な木造建築です。ところどころに山口文象らしいモダンな味付けがされているのが印象的。台地の端に建っているので、彼女の願い通り、風がよく吹きぬけたことでしょう。建物前方に広がる庭には、ブナや白樺が植えられ、彼女の趣味なのでしょうか蹲や石灯籠がそこかしこに置かれていました。奇を衒わない落ち着いた雰囲気に満ち住みやすそうなお宅でした。彼女が放浪の果てにつくりだした安住の地であるのかと思うと、感慨もまた一入です。
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 そして都営十二号線中井駅に向かうと、またまたトンガリ物件をゲット。そして舗装されていない路地を発見。もう都会ではなかなかお目にかかれない懐かしい風景ですね。
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 妙正寺川を渡って商店街を歩いていると、「洋品の店 赤のれん」がありました。あれれ、たしか和歌山県湯浅に「赤のれん洋装店」があったはずです。まさか全国展開しているチェーン店…ではないよね…なのかな。そして中井駅から帰宅。
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 目白文化村のあたりは、もっとくまなく渉猟すれば古い物件を見つけられそうです。また機会をつくって訪れてみたいと思います。

 本日の二枚です。
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 追記。先日、山口文象設計の東京電力山崎発電所を見てきました。箱根鉄道入生田駅から国道一号線に出て、湯本方向に十分ほど歩くと、左手にあります。
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by sabasaba13 | 2011-02-04 06:17 | 東京 | Comments(0)
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