小山の中腹をめぐる哲学の小径をすこし歩くと、お目当ての「三木清の碑」がありました。
こちらにあった解説を引用しましょう。
清は明治三十年市内揖西町小神に生まれ、旧制龍野中学、第一高等学校から京大哲学科、西田幾多郎門下に入った。ドイツ留学ハイデッガーに学び帰国して名著「パスカルに於ける人間の研究」を著した。二十年脱走した共産党員の友人に食事と衣服を与えたことが治安維持法に触れて投獄され、戦後九月二十六日獄死を遂げた。
半円形の石碑に、彼のレリーフと短歌「しんじつの秋の日てればせんねんに心をこめて歩まざらめや」、そして事蹟が刻まれています。お恥ずかしい話、彼の著作は読んだことがありません。しかし、治安維持法で逮捕され、敗戦時に釈放されず、その一ヵ月後に獄死したことが強烈に印象に残っています。ウィキペディアに依拠してその経緯をすこし詳しく記しておくと、1945年、治安維持法違反の被疑者
高倉テルを仮釈放中にかくまったことを理由にして検事拘留処分を受け、東京拘置所に送られ、その後に豊多摩刑務所に移されました。この刑務所は衛生状態が劣悪であったために、三木はそこで疥癬をやみ、また腎臓病の悪化とともに、体調を崩し、終戦後の9月26日に独房の寝台から転がり落ちて死亡していることが発見されます。享年48歳。中島健蔵が三木の通夜の当日に、警視庁への拘引から7月下旬まですぐ近くの監房にいて詳しく様子を見たという青年から聞いた話として記しているところによると、疥癬患者の使っていた毛布を消毒しないで三木に使わせたために疥癬が発病したということです。たまたまこの三木の死を知ったアメリカ人ジャーナリストの奔走によって、敗戦からすでに一ヶ月余をへていながら、政治犯が獄中で過酷な抑圧を受け続けている実態が判明し、占領軍当局を驚かせました。この件を契機として治安維持法の急遽撤廃が決められることになります。「なぜ日本人は、敗戦と同時にこうした思想犯・政治犯を救おうとしなかったのだろう」と血を吐くように批判したのは、たしか畏友の羽仁五郎でしたっけ。これほど極端な事例ではなくても、知性を蔑ろにする風潮がいまだはびこっているようで危惧を覚えます。隣にもう一つの碑があり、こう刻まれていました。
怒について
今日、愛については誰も語ってゐる。誰が怒について眞剣に語らうとするのであるか。怒の意味を忘れてただ愛についてのみ語るといふことは今日の人間が無性格であるといふことのしるしである。
切に義人を思ふ。義人とは何か、-怒ることを知れる者である。
「人生論ノート」より
さて哲学の小径をもうすこし歩くと童謡の小径と合流し、つきあたりには国民宿舎「赤とんぼ荘」がありました。白鷺山の中腹に建っているので眺望がよさそう、さっそく中に入り、フロントにことわって五階にあるレストランに行ってみました。おおこれは素晴らしい! 揖保川と山々にいだかれ、いままさに目覚めようと息づく小宇宙を一望することができました。景観を跡形もなく木端微塵に破壊する高層ビルがないので、うねるような甍の波の美しさを堪能できます。
本日の三枚です。