丹波・播磨・摂津編(10):篠山(10.2)

 そしてその一角にある丹波古陶館に入ってみました。いつの頃からか陶磁器が好きになり、べつに骨董として蒐集したり自ら土をひねったりはしないのですが、窯のある町を訪れてその雰囲気を味わい日常雑器を買うのを喜びの一つにしています。これまでも、有田、伊万里の大川内山、唐津、壺屋、備前、伊賀、常滑、瀬戸、信楽、笠間益子を経巡ってきましたが、今回の丹波焼の窯は町から離れたところにあるので探訪は断念。せめてこちらで丹波焼の名品を堪能することにしました。さて丹波焼について、当館でいただいたパンフレットの紹介文を引用しましょう。
 平安時代の終わりに、なぜか丹波、常滑、越前などに、同じ様式の壺が造られています。それらは一般的に「三筋壺(さんきんこ)」とよばれているもので、小振りでやや外に開いて立ち上がった口造りを持ち、胴の三ヵ所に横筋の文様が施されています。
 須恵の窯から、新しい窯業集落に変わったおおよそ八百数十年前、丹波の工人たちは、中央政庁や社寺のもとめに応じて祭器、経器、薬壺など、かなり上手物を焼きましたが、三筋壺もその一つです。しかし、陶土や窯の条件は、その目的に応えることができず、丹波窯はやがて大衆の生活を支える窯業集落として、独自の道を歩むことになります。
 紐造りの困難な成形、長い日時と破損の多い焼成の結果に、陶工たちはどのような思いで取り組んだのでしょうか。
 今、私たちが感じる器そのもののもつ力強さや、窯業の生んだ鮮やかな緑の自然釉も、不可抗力な焼物造りの障害の産物だったのではないでしょうか。平安末期から慶長年間に至る穴窯の時代は、ひたすら成形と窯とのたたかいであったのです。
 慶長末年、登窯の導入によって、新しい技法を得た丹波の陶工たちは、轆轤、釉薬を巧みに使い斬新な仕事ぶりをみせます。それは生活の用に即した、美しく逞しい器の数々でした。
 登窯と塗土が生みだした燃えるような「赤土部(あかどべ)」の輝きは、すでに陶工の心にかけがえのない"美"として映っていたでしょう。それは、陶土の悪さに阻まれた穴窯の焼締め無文の時代とは大きくイメージを異にするものです。
 江戸時代末期になると、さらに新しい釉薬や漉土による陶土の改善がなされ、白、黒、灰、鉄などの釉薬の掛け合わせによる多彩な文様と、さまざまな用途をもつ器が生まれました。
 平安時代末期に生まれ、いつの時代にも衰微することなく、常に生活の器を焼き続けてきた丹波焼は、間違いなく日本民陶の歴史を代表する焼物なのです。
 質実で剛毅なフォルムと自然釉が生み出す偶然の美、丹波焼の名品を十分に満喫いたしました。なお周囲の景観に溶け込むような、白壁・なまこ壁の建物もいいですね。観光ポスターで使われている写真はここの中庭から通りを写したものです。
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 なお近くに能楽資料館もありますが、時間の関係でスキップ。そしてしばし路地裏まで舐めるように散策、その途中であるお宅に壁に貼ってある「丹波篠山とってもレトロなまち歩き」という地図を見つけました。普通のガイドブックには紹介されていないディープな物件まで記されているすぐれものです。なぜこれを配布してくれないのだろうブツブツ、ま、いたしかたない、写真におさめこれから活用いたしましょう。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2011-02-19 09:42 | 近畿 | Comments(0)
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