丹波・播磨・摂津編(30):旧真田山陸軍墓地(10.2)

 JR甲子園口駅に行く途中、アーチ型の窓と車寄せが印象的な、和洋折衷の瀟洒な洋館がありました。中には入れないので門扉の隙間から撮影し、解説を読むと松山大学温山記念会館とあります。松山大学の前身である松山高等商業学校を設立した実業家・新田長次郎の邸宅だそうです。設計は娘婿にあたる木子七郎とのこと。
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 その近くには交通安全足型がありました。東京でよく見かけるものと酷似していますが、「とまれ」という文字が弱気な印象を受けるのは、「おまえに言われとうないんじゃ、だあほ」とどやしつけられるのを恐れているためでしょうか。
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 十分ほどで甲子園口駅に到着、ここから大阪駅まで行き、環状線に乗り換えて玉造駅までたどり着きました。所要時間は約五十分でした。お目当ては旧真田山陸軍墓地です。それではその沿革について、旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会のサイトをもとに紹介します。ここは1871(明治4)年、当時の兵部省が大阪を選んで陸軍を創り出そうとしたとき、その一環として現在の地に埋葬地として設置したものです。当初は、墓碑の形など明確な規則がないまま、訓練中死亡した兵学寮生徒や兵卒などをここに埋葬し、その墓碑を建立していましたが、1873(明治6)年に初めて埋葬手続きが定められ、翌年その法則が全面的に改正されて、下士・兵卒の墓標の大きさが規定されます。1877(明治10)年に西南戦争が起こると、陸軍臨時病院が大阪に設置され、戦場で傷ついたり、病気にかかった将卒等が多数ここに送り返されて手当てを受けることになります。そして亡くなった人、および凱旋後流行したコレラによって死亡した将卒らが埋葬されました。なおこの人たちの所属は大阪鎮台に限らず、北海道の屯田兵も含んで全国にわたっています。1894~95(明治27~28)年の日清戦争では、戦争直前に戦時陸軍埋葬規則が制定されて、戦場にも埋葬できるようになりました。ただし、第四師団は戦場に派兵されたとき講和が結ばれたので、実戦がなく、戦病死者についてすべてここに墓碑が建てられました。また台湾での戦闘、および領有化のための戦闘では、現地住民の激しい抵抗と、土地特有の疫病に悩まされて、派遣された日本軍に多くの死者が出ることになります。従軍した軍夫たちの墓碑も数多く残されています。なお、1897(明治30)年に陸軍埋葬規則が制定されて、戦地で死亡・火葬されても後必ず陸軍埋葬地に改葬するものとされます。このとき初めて「陸軍一定ノ埋葬地」から「陸軍埋葬地」と規定されることとなりました。1904(明治37)年から翌年にかけて日露戦争が戦われます。日清戦争に比べはるかに多くの戦病死者を出した日露戦争ですが、個人墓碑は413基。これは、戦後すぐに衛戍地ごとに「明治三十七八年戦役合葬墓碑」が建立されたことと関係します。死者の数があまりに膨大となったため、個人的な墓碑の建立が基本的に中止されたのですね。
 1931(昭和6)年に満州事変、1937(昭和12)年に日中戦争開始と、中国大陸への日本の侵略が拡大する中で、1938(昭和13)年には「陸軍埋葬地」は陸軍墓地規則によって「陸軍墓地」と名称変更され、真田山陸軍墓地も、始めてその名が法規において確認されます。1939(昭和14)年、財団法人大日本忠霊顕彰会が全国で忠霊塔の建立運動を始めると、大阪においても、大阪府仏教会が資金を集め、旧真田山陸軍墓地に1943(昭和18)年に仮忠霊堂(納骨堂)を建築し、陸軍に引き渡して、戦死者の遺骨を納める施設とします。ただし、戦局が極度に悪化する中では大阪府すべての戦死者の遺骨がここに納められることはありませんでした。
 戦後の1945(昭和20)年12月、陸軍省廃止にあたり、真田山陸軍墓地は大蔵省大阪財務局の所管に移り、翌年8月には国はこの墓地を大阪市に無償貸与します。このころ墓地は荒廃したようですが、これを憂えた四天王寺管長田村徳海などの有志によって1947(昭和22)年11月、行政の後援を受けて財団法人大阪靖国霊場維持会が結成されます。以後、その奉仕活動により墓地の祭祀は維持され、加えて大阪市の協力や、地元の人々の努力によって、この貴重な歴史的景観が保たれることとなって、今日に至っています。
by sabasaba13 | 2011-03-17 06:18 | 近畿 | Comments(0)
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