丹波・播磨・摂津編(31):旧真田山陸軍墓地(10.2)

 というわけで、軍隊の草創期から主に日露戦争期までの兵士の個人墓碑、さらには軍夫や中国兵・ドイツ兵捕虜の墓碑まで残るという、稀有なる墓地です。歴史を学ぶしょぼい市井の一学徒としては行かねばなりません。JR玉造駅には幸いなるかな、周辺地図が掲示してありました。えーと、たしか三光神社の裏手裏手…ありました、「旧真田山陸軍墓地」。写真におさめ、これを頼りに駅から歩くこと数分で到着しました。門扉が固く閉ざされていましたが、通用口が開いています。人の姿は見えず、特別な入場許可は必要ないようです。中に入って一瞥、言葉を失いました。ほぼ同じ規格の墓碑が、整然と、心肝が冷たくなるくらいに整然と林立しています。
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 雨はあがっていますが、濡れそぼち悴み震えるように佇む同じ形の無数の墓、墓、墓。軍人には個々の人格は必要ないのだ、ということが痛いほどわかります。せめていくつかなりとも墓碑を読むことによって、ある人間がたしかに生まれ、暮らし、戦い、死んだことを心に刻みたいと思います。「一等兵卒 三橋順一 明治十年鹿児島縣賊徒征討之役八月十日負傷 鹿児島縣下金山峠九月十八日没 大阪陸軍臨時病院時三十年十一月」「軍役夫 永井亀之助 明治二十七年十一月八日 於朝鮮南部仁川兵站病院死」「陸軍歩兵一等卒 藤本歌蔵 明治二十八年十月二十七日 清国海城舎営病院死」「陸軍歩兵一等卒 石田徳三郎 明治三十八年七月二十日 於清国盛京省太平匂舎営病院病死」
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 ただ残念ながら風化が激しく、また私の読解能力不足のため、半数以上の墓碑が判読できませんでした。なお軍夫の過酷な待遇とそれを補うための掠奪については「旅順と南京 日中五十年戦争の起源」(一ノ瀬俊也 文春新書605)に詳述されていますが、大阪歴史教育者協議会「真田山陸軍墓地を訪ねてみませんか」というサイトによると、「明治二十八年八月九日解雇帰国途中大東溝死」という墓碑もあるそうです。見つけることはできませんでしたが。他にも「俘虜」という文字が削られた清国兵・ドイツ兵捕虜の墓碑、獄中死・事故死・自殺といった死因がわかる墓碑、教育期間中の兵士(「生兵」)の墓碑などもあるとのことです。かけがえのない貴重な歴史の証人、そして何よりも一人の人間の生と死の証、ぜひとも丁重に修復・保存してほしいと思います。ここに眠る方々にジャン・タルジューの詩を捧げます。
死んだ人々は、還ってこない以上、
生き残った人々は、何が判ればいい?

死んだ人々には、慨く術もない以上、
生き残った人々は、誰のこと、何を、慨いたらいい?

死んだ人々は、もはや黙ってはいられぬ以上、
生き残った人々は沈黙を守るべきなのか?

 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2011-03-18 06:19 | 近畿 | Comments(0)
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