奈良編(11):今井町(10.3)

 近鉄の踏切を渡ると、飛鳥川にかかる橋からは端正な姿の畝傍山を遠望できました。川沿いにすこし歩くと、珍しい六角井戸をゲット。これまで平戸室津竹原福江で見かけましたが、何か由来があるのでしょうか。
c0051620_619389.jpg

 そして今井町に到着です。観光案内所でもらったパンフレットからその歴史について引用します。今井の地名は至徳三年(1386)の興福寺一乗院の文書に見えますが、その寺内町としての成立は戦国の世、天文年間(1532~1555)この地に一向宗本願寺坊主の今井兵部卿豊寿によって建設されたことに発します。一向宗の門徒が、今井に御坊(称念寺)を開き、自衛上武力を養い、濠をめぐらし、都市計画を実施しました。永禄十一年(1568)、織田信長が、足利義昭を擁して上洛以来、本願寺も反信長の旗を立て、寺を中心に城塞都市の形態を整え、抵抗しますが、天正三年(1575)年今井氏は、明智光秀を通じて信長に降服し、事なきを得ました。かくして、大坂や堺などとも交流がさかんになり、商業都市としての変貌をとげ、江戸時代には南大和最大の在郷町となって、大いに栄えました。なかでも繰綿・古手・木綿の取引が中心で、両替商を営むような有力商人も登場し、「今井札」という紙幣の発行を幕府から許可されたほどです。「大和の金は今井に七分」と里謡にもうたわれたほどの繁栄でした。堺とならび自治的特権が認められ、惣年寄、町年寄をおき町政にあたらせました。その時代の古い街並みが奇跡的に、いや住民の大いなる努力によって保存されているわけです。さほど広くはない町域に重要文化財が九件というのですから、たいしたものです。実は以前に一度訪れたことがあるのですが、その時はそぼ降る雨の中素通りしただけ、今回はじっくりと拝見したいと思います。楽しみだなあ、わくわく。
 なお寺内町を拠点とする一向一揆は、全国を支配するような強大な武士権力を拒否し、信仰と商工業・農業で結びついた、地域ごとの共和国をめざしていたのではないでしょうか。自由で対等な取引・商売をしていれば、必然的に平和はもたらされるという「市場の論理」により、日本という国を巨大な"市場"にしたともいえます。よって戦国大名にとっては不倶戴天の敵、結局は信長らによって徹底的に殺戮・壊滅させられることになるわけですね(根切り)。歴史におけるもう一つの可能性を示してくれ、またこれからの世界を考える上でも重要なヒントを与えてくれそうな寺内町、これまでも平野、久宝寺、一身田、八尾、長島、山科、金沢、富田林貝塚御坊を経巡ってきました。環濠がほぼ完全な形で残っていたのが一身田、町並みがよく保存されていたのが富田林でしたが、きっと今井町も期待を裏切らないと思います。Here we go !
by sabasaba13 | 2011-04-09 06:20 | 近畿 | Comments(0)
<< 奈良編(12):今井町(10.3) 奈良編(10):箸墓古墳(10.3) >>