熊野古道編(5):紀伊田辺(10.3)

 さてそれでは、土饅頭のような小山を背後に抱く田辺駅を後にして、薄暮の街をそぞろ歩きますか。田辺については以前の拙ブログで紹介しましたが、小さな小売店が身を寄せ合うように、ざっかけない真っ当な商いをしているという雰囲気が壊されていないのには安堵の溜息をつきました。はあ でも以前に比べて活気がないような気がしました、杞憂だといいのですが。鰹と薙刀を手にした弁慶らしき金属製のオブジェが街灯になっているのは御愛嬌。
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 駅から十数分程歩くと、南方熊楠の旧居のある中屋敷町に着きました。それでは岩波日本史辞典から、引用します。
南方熊楠 (1867‐1941)
植物学者、民俗学者。和歌山市生れ。1886年大学予備門を中退して渡米、中南米を放浪し、動植物の観察収集に努めた。92年イギリスに渡り、学界で認められ、大英博物館東洋調査部に入る。1900年帰国、和歌山県田辺町に定住し、県下一帯の隠花・顕花植物の採集とその分類整理に没頭した。人間と自然との共生の立場から明治政府がすすめた神社合祀に反対し、また民俗学の分野でも独自の方法論による地球的規模での民俗の比較を試みた。
 なお神社合祀とは、日露戦争後の疲弊した社会を立て直すためのいわゆる地方改良運動の一環として、1906年頃から内務省の主導によって行われた部落神社の整理統合、1町村1社化のことです。そのねらいは、部落単位を越えた町村の結合を強化することですが、整理した神社の鎮守の森を売り払ってひと儲けしようという思惑も、地元の一部にはあったようです。さて、旧居の門扉は固く閉ざされ、中に入ることはできません。以前に来た時は、「南方」という表札があったと記憶しているのですが、それもなくなっていました。経緯についてはわかりませんが、ぜひ公開を望みます。その隣にあるのが「南方熊楠顕彰館」、最近できたのでしょうか、見学をしたかったのですがすでに閉館時間を過ぎていました。無念。なお白浜には彼の記念館があります。
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 周辺には、瓦を練りこんだ土塀や、白塗りに木壁の土蔵など、往時を彷彿とさせる物件が散見されます。
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 ここから数分程歩くと、闘鶏神社に到着です。変わった名前ですが、その由来を紹介しておきましょう。源平合戦の終盤、戦いは海上へと移り、当時最強といわれた熊野水軍の動向が勝敗の行方を決定する状況でした。源義経は説得のため弁慶を、彼の父である熊野別当湛増のもとに派遣します。湛増は、社前で紅白の鶏を闘わせ、白鶏が勝ったので源氏に味方することを決意、総勢二千余名、二百余の舟を率いて壇ノ浦に出陣、源氏の勝利に貢献したということです。駐車場には、「神様にお尻を向けての駐車はご遠慮下さい」という律義な張り紙がありました。みなさん、ちゃんと守っているのが偉い。
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 鬱蒼と生い茂る森に沿っていくつもの社が点在していますが、これも神社合祀の結果なのでしょうか。弁慶と湛増の銅像を拝見し、四方を睥睨する大楠を仰ぎ見ました。作家の神坂次郎氏が、汽車の時間待ちの際にこの根元でしばし休息をとったという解説板がありました。なお熊楠の奥さんはこちらの宮司の娘さんです。門前の桜は五分咲き、これからの旅程でところによっては満開の桜をみることができるかもしれません。期待しましょう。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2011-04-18 06:20 | 近畿 | Comments(0)
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