熊野古道編(42):大逆事件顕彰碑(10.3)

 さっそく「大逆事件顕彰碑」に行ってみましょう、踏切を渡ってすこし歩いたところの一角に顕彰碑がありました。碑文を引用します。
1911年、この熊野の地で、「天皇暗殺を企てた」とする「大逆事件」のために、死刑2名無期懲役4名、都合6名の人々が犠牲になった。

・大石誠之助 (1867-1911)      ・成石平四郎 (1882-1911)
・高木 顕明 (1864-1914)      ・峯尾 節堂 (1885-1919)
・成石勘三郎 (1880-1931)      ・崎久保誓一 (1885-1955)

太平洋戦争後、この事件は自由思想弾圧のための国家的陰謀である真相が判明し、かれらはその犠牲者であった。
これらの人々は、必ずしも同じ思想を有していたわけではないが、熊野独特の進取の精神や反骨の気風のなかで、平和・博愛・自由・人権の問題においては、むしろ時代の先覚者であった。こうしたかれらの志は、いま、熊野に生きるわれわれにも当然受け継がれるべきもの、受け継がなければいけないものと確信する。
なお、当記念館の主西村伊作(1884-1963)は、大石誠之助の甥で、幼くして両親を亡くし、誠之助に育てられ、その生き方に深い影響を受けた。
「大逆事件」の犠牲者を顕彰する会
 贅言はやめましょう。この碑の建立に尽力された方々に深甚なる敬意を表したいと思います。そして破壊もせず、ペンキもかけず、いたずら書きもせず、この碑を見守ってくれている新宮の人々にも。ただ一つ気になるのは、西村伊作に触れた最後の二行が、明らかに意図的に文字の白ペンキが剥離されていることです。どういう意味があるのでしょうか。文面からは西村伊作記念館内にあったこの碑を、ここに移す際に削ったと解釈されるのですが。ご教示を乞う。そしてすぐ近くには「中上健次生誕の地」碑がありました。恥ずかしながら、彼の作品は一つも読んだことがありません。これを機会に挑んでみようかな。後学のためにこちらも引用しておきます。
1976年(昭和51年)、新宮の「路地」を舞台とした『岬』で第74回芥川賞を受賞。戦後生まれで最初の受賞者となり注目される。その後、『枯木灘』(1977)『地の果て 至上の時』(1983)を発表、この三作は主人公の秋幸の名にちなみ「秋幸三部作」ともいわれる代表作となった。
さらに「路地」の産婆オリュウノオバが登場する『千年の愉楽』(1982)『奇蹟』(1989)で豊穣な物語世界を構築し、現代日本文学の旗手と目されたが、1992年(平成4年)腎臓ガンにより、46歳の若さで死去した。
右の作品以外に、ルポルタージュの傑作『紀州 木の国・根の国物語』(1978)、母親の半生をえがいた作品『鳳仙花』(1980)などがあり、代表作のほとんどは故郷新宮を中心に紀州・熊野の風土を背景としたものになっている。
作品執筆と併行しながら、1978年には新宮市で「部落青年文化会」を結成。作品の舞台となった「路地」の中央に位置する「春日隣保館」(現・新宮市人権教育センター)で、石原慎太郎氏、瀬戸内寂聴氏らをゲストに招き、「開かれた豊かな文学」をテーマとする連続公開講座を8回にわたり開催した。その後、1987年には新宮高校の同窓生を中心に「隈ノ会」(後に「熊野大学」に発展)を結成するなど、終生熊野を運動の中心に活動した。
 進取の精神・反骨の気風に富んだこの地にそぐわない御仁が一人記されているのが気になりますね。あるいはその対極に位置する、退嬰的・権威主義的精神の体現者としてあえて招致したのかもしれません。

 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2011-06-08 06:19 | 近畿 | Comments(0)
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