豊橋編(15):田原(10.4)

 五十分ほどで三河田原駅前に到着、さっそく駅で自転車を借りて「田原ウォーキングマップ」を籠に入れさあ出発。まずは田原城跡にある市博物館に行ってみました。
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 残念ながら崋山の書画は少なかったのですが、彼が弟子の椿椿山に与えた遺書が入手できたのは収穫です。参考のため引用します。
 1841(天保12)年10月10日
 一筆啓上仕候、私事老母優養仕度より誤て、半香義会に感、三月分迄認、跡ハ二半ニ相成置候処、追追此節風聞無実之事多、必災至り可申候、然ル上ハ主人安危にもかゝハリ候間、今晩自殺仕候、右私御政事をも批評致ながら、不慎の儀と申所落可申候、必竟惰慢不自顧より言行一致不仕之災無相違候、是天ニ非、自取ニ無相違候、然は今日の勢ニテハ、祖母始妻子非常之困苦は勿論、主人定テ一通ニハ相済申まじくや、然レバ右之通相定候、定テ天下物笑ひ悪評も鼎沸可仕尊兄厚御交リニ候とも、先先御忍可下候、数年之後一変も仕候ハゞ、可悲人も可有之や、極秘詠訣如此候、頓首拝具。
   十月十日
  椿山老兄                                          御手紙等ハ皆仕舞申候
 弟子の半香が崋山の窮状をみかねて開こうとした書画会に、蟄居の身には不謹慎であるという風聞がたち、累が藩主をはじめ周囲に及ぶのを恐れて自殺したのだそうです。あらためてその非業の死に胸がつまります。
 博物館の隣には、崋山会館、崋山神社がありました。その前にある民俗資料館は、戦前の物件らしき洒落たビルです。
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 その先にある池ノ原公園には、崋山の銅像と、復元された幽居跡があります。
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 そして伊能忠敬測量地の記念プレートがある街角へ。解説板によると、1803(享和3)年4月7日、田原城下に着き、海岸を測量して吉田(豊橋)方面へと向かったそうです。糞もよけない二歩で一間の愚直な歩み、一身にして二生を経た四千万歩の男、伊能忠敬。富岡八幡宮赤岡函館など、旅をしていると彼の足跡に出会うことが時々ありますが、あらためてその偉業に頭を垂れたいと思います。
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 そして芭蕉の句碑がある龍泉寺へ。「寿久三行や馬上尓氷る影本うし」という句ですが、読みやすくすると「すくみいくや馬上に氷る影ぼうし」。はじめの字余りに、寒風の厳しさに歩が進まぬ様子がよくあらわれているような気がします。芭蕉が渥美半島を訪れたのは1687(貞享4)年、44歳の時で、東海道をたどって吉田(豊橋)から三河湾沿いに保美の里へ向かいました。芭蕉の愛弟子・杜国は尾張の裕福な米問屋でしたが、禁止されていた米相場を行った罪で保美の里に謹慎していたので、彼の境遇を慰めようとしたそうです。この旅は後に「笈の小文」として結実します。
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by sabasaba13 | 2011-07-02 07:19 | 中部 | Comments(0)
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