天浜鉄道・中津川編(7):渋川の凱旋紀念門(10.7)

 ただ日露戦争がもたらした熱狂的な愛国心の発露について、田山花袋の『田舎教師』ではこう語られています。
 遼陽占領! 遼陽占領! 其聲は何んな暗い汚い巷路にも、何んな深い山奥のあばら家にも、何んなあら海の一孤島にも聞えた。號外賣の鈴の音は一時間と言はずに全國に新しい詳しい報を齎(もた)らして行く。何處の家でも其話が繰返される… 遼陽占領の祭で、町では先程から提灯行列が幾度となく賑かに通つた。何處の家の軒にも鎭守の提灯が並んでつけてあつて、國旗が闇にもそれと見える。…「萬歳! 日本帝国萬歳」

 日本が初めて歐洲の強國を相手にした曠古(こうこ)の戰争、世界の歴史にも數へられるやうな戦争-その花々しい國民の一員と生れて來て、其名誉ある戰争に加はることも出來ず、その萬分の一を國に報いることも出來ず、其喜悦の情を人並に萬歳の聲に顯(あらは)すことすらも出來ずに、かうした不運な病の床に横つて、國民の歡呼の聲を餘所(よそ)に聞いて居ると思つた時、清三の眼には涙が溢れた。
 津々浦々、全国をまきこんだ熱狂的な雰囲気が手に取るようにわかる描写です。名誉ある戦争を戦い生還した兵士への称賛、戦死した兵士への慰霊、そうした人々の思いを具現するものとしてこうした凱旋門が各地でつくられたのでしょう。たまたま持参した幸徳秋水の『帝国主義』は、「帝国主義はいわゆる愛国心を経となし、いわゆる軍国主義を緯となして、もって織り成せるの政策にあらずや」として、その一章を愛国心の分析にあてています。その一節を紹介しましょう。
 富者の戦うや、富益す多きを加え、奴隷臣従益す多きを加うるなり。而して貧者は何の加うるところあらず、ただ曰く、国家のために戦えりと。彼らは国家のために戦うて奴隷の境に沈淪するも、しかもなお敵人を討伐せりという過去の虚栄を追想して、甘心し満足し誇揚せる者、ああこれ何の痴呆ぞや。(p.25)
 彼が国家権力にとっていかに危険な存在であったか、そして抹消しなければならない人物であったがよくわかる辛辣な一文です。貧者を兵士・労働者として奴隷の如く酷使し使い捨て、富者がますます豊かになるための戦争、その内実を貧者の眼から覆い隠すための"愛国心"。膚に粟が生じるのは、戦争の前に「経済」という一語を加えれば、この状況は今でも続いているということです。もちろん、戦前のような露骨なかたちではなく、きわめてマイルドなものに変化はしていますが。格差社会とワールドカップへの熱狂を見ると、そう思わざるをえません。たとえ軍事力は行使しなくとも、国内の貧者と他国民を犠牲にして一部の富者が富み栄え、その状況を覆い隠すために"愛国心"を利用する。もちろん日本だけのことではないでしょう。秋水は、前掲書の最後をこう締めくくっています。
 能くかくの如きにして、吾人は初めて不正、非義、非文明的、非科学的なる現時の天地を改造し得て、社会永遠の進歩もって期すべく、人類全般の福利もって全くすべきなり。もしそれ然らず、長く今日の趨勢に放任してもって省みるところなくんば、吾人の四囲はただ百鬼夜行あるのみ、吾人の前途はただ黒闇々たる地獄あるのみ。(p.117)
 "百鬼夜行"、"黒闇々たる地獄"という表現に切実なリアリティを感じてしまう昨今の情勢です。いずれにせよ、戦争・愛国心・近代日本について考え思いを馳せる縁となる貴重な戦争遺跡、末永く保存してほしいものです。
 余談ですが、先日読んだ「世界の歴史16 現代-人類の岐路」(加藤秀俊 中公文庫)に、第二次大戦後におけるナショナリズムの変質について述べた章で、下記のような一文がありました。これなども愛国心について考察する際の一つのポイントになりそうですね。administratorたちが、愛国心や国家主義を煽って国民をコントロールするためには、彼ら/彼女らの知的水準を下げるに如くはない、ということでしょう。
 ひとことでいえば、人類全体の知的水準は、おどろくべき上昇カーヴをえがいているのだ。こういう世界では、狂信的な国家主義は、かなり強力な知的チェックをうけないわけにはゆかない。(p.383)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2011-07-27 06:18 | 中部 | Comments(0)
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