天浜鉄道・中津川編(10):中津川(10.7)

 路地に分け入っていくと、十一屋旅館という趣のある重厚な旅館や、漆喰塗の旧林病院をゲット。これはなかなかいけるかもしれません。
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 地図を頼りにまず桂小五郎隠れ家址へ行ってみました。さすがは「逃げの小五郎」、ここ中津川にも隠れ家があったのですね。ここはかつて「やけ山」という料亭で、1862(文久2)年6月江戸屋敷から中山道を京都に向かった長州藩主毛利慶親の到達を待ち受けた桂小五郎が、幕吏の眼から逃れ密かに身を隠していた所と伝えられます。中津川宿で藩主の到達を待って、極秘の会議がもたれ、長州藩は従来の「公武合体」から「尊王攘夷」へ踏み切る大きな藩論の変更をしたそうです(中津川会議)。
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 私ごとですが、実はこの尊王攘夷論をどう評価するか、判断に迷っています。欧米列強との全面戦争に踏み切れば間違いなく敗北し、清朝のように一方的な敗戦条約を押しつけられ、事実上の植民地にされてしまうわけですから。欧米の軍事力に対する無知と、幕府への憎悪と、ナショナリズムの萌芽がからみあった暴虎馮河の勇ととらえるべきなのか。あるいは単なる暴論ではない、深い読みと意図があったのか。たぶん尊王攘夷派にはその両者が混在していたと考えますが、後者について最近興味深い分析を知りました。『大人のための近現代史 19世紀編』(東京大学出版会)の中で、三谷博氏はこう述べられています。
 (中岡慎太郎は)攘夷とは西欧による支配を防ぐことである、それには日本の大改革が不可欠だが、それは「卓見」ある「暴客」が指導してきた薩摩と長州ではすでに実現しつつある、これからその両藩が提携し、王政復古を実現すれば、攘夷の元来の目的は初めて実現するだろうと答えようとしたのである。水戸・長州系の尊王攘夷論は、他の単純な攘夷論と異なって、当初からその目的を、攘夷自体と並んで、国内改革の起爆剤とすることに置いていた。(p.108)
 なるほどねえ、「国内改革の起爆剤」か。ただこの考えは、薩英戦争や四国連合艦隊砲撃事件によって、軍事力の彼我の差を骨の髄まで思い知った後に根付いたものではないのでしょうか。この事件以前の尊王攘夷論は、やはり暴論に近いものであったと愚考します。個人的に幕府贔屓の私としては、当時の状況において、不平等なものとはいえできうる限り日本の不利益を回避した条約交渉を高く評価したいし、攘夷派が引き起こした様々な事件の尻ぬぐいをさせられた幕府に同情もしています。ただ最終的には、改革に対する断固たる意志と、軍事力の差が、明暗を分けたと思いますが。この問題についてはこれからも考え続けていきたいと思います。歴史って面白いですね。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2011-08-02 08:08 | 中部 | Comments(0)
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