そして温故の井、歴史民俗資料館、藩校知新館の正門、復元された太鼓楼を通り過ぎると、いよいよ岩村城跡への上り道となります。
すこしのぼったところにあるのが花菖蒲園、花菖蒲はもうしぼみかかっていますが、紫陽花が満開でした。
その前にあるのが下田歌子の銅像と勉学所、実践女子学院を創設した、近代日本における女子教育の第一人者はここ岩村の出身だったのですね。
そして石畳がしかれた急峻な坂道が始まります。日本三大山城の一つというくらいですから、これは覚悟の上。なお他の二つは、大和高取城、
備中松山城をさすとのことです。岩村城は日本一標高が高いところにある山城、松山城(岡山県高梁市)は天守閣が現存する唯一の山城、高取城(奈良県高取町)は日本一比高[※山頂と麓の高低差]の高い城と、それぞれが日本一の特徴を持っているそうな。かなりきつく、また滑りやすい石畳を二十分ほど歩くのですが、これまで訪れたきついルートを思い起こすとこの程度でへこたれるわけにはいきません。ケルンの大聖堂、
三仏寺投入堂、
しまなみ海道、
屋久島、
熊野古道中辺路と、苦心惨憺した想い出が走馬灯のように脳裡をかけめぐり励ましてくれました。
やがて見事に積み上げられた石垣が現れ、秘蔵の蛇骨を投げ込むと霧がたちこめ城を覆い隠すという伝説の霧ヶ井を通り過ぎると、急峻な地形に石積をする為に工夫された石垣・六段壁に到着。
ここの階段を上ると、天守閣跡です。ここ岩村城は、江戸諸藩の府城の中でも最も高い所(標高717m)に築かれ、高低差180mの天嶮の地形を巧みに利用した要害堅固な山城で、霧の湧き易い気象までも城造りに活かされており、別名「霧ケ城」ともよばれているそうです。その歴史も古く、1185(文治元)年に源頼朝の重臣・加藤景廉がこの地の地頭に補せられ創築されてから、鎌倉・室町の約300年間、戦国の約100年間、さらに江戸期の約300年間にわたり城と城主が連綿と続きました。これだけ長い間、現役を務めた城も稀有でしょうね。汗をふき、水分を摂取し、紫煙をくゆらし、さあ見事な眺望を楽…木々が高く生い茂ってよく見えないじゃないか! そう無暗に木を切り倒してはいけないのは重々承知の上ですが、やはりもうすこし見晴らしがよくなるようにしてほしいものです。
本日の三枚です。