言葉の花綵58

 お人好しには二種類あって、ひとつは生菩薩のように純粋な人だが、もうひとつは馬鹿だ。(川本輝夫)

 たのしみはそぞろ読みゆく書(ふみ)の中(うち)に我とひとしき人をみし時 (橘曙覧)

 われらのもとには話しても話しても
 倦むことのない友がおります
 彼らは陰に陽に誠実で信用できる者たちです
 皆、過去の知識をわれらに教えてくれます
 意見、教養、名誉、威厳すべてを
 それらの者は「死者だ」と申されたところで
 間違ってはおりません しかし
 「生きた人間だ」と申されたところで
 嘘を申されたのでもございません (イブン・アッティクタカー 『アルファフリー』)

 読書をしていて困難な個所にぶつかっても、わたしはいつまでも爪をかんでなんかいない。一、二度、突撃をこころみて、あとはほうっておく。そこにいつまでも立ちつくしていても、こんがらがるだけだし、時間がもったいない。わたしは直感的な性格だからして、第一撃でわからなければ、しつこく攻めても、よけいわからなくなるだけなのだ。(モンテーニュ 『エセー抄』)

 私は、権勢の人と、どちらの生命が長いか、どちらの権威が大きいか、どちらが天下の後世の人たちに貢献するか、それを比べてみたいのです。権勢にこびるたわけ者は、われわれ文学をなす者を馬鹿にしていますが、私は、われわれ文学をなす者の権威をば、彼奴らの目につきつけてやりたいのです。(郭沫若 『歴史小品』)

 人が目指すべきは、学問か、さもなければ政治である。(イーサー・イブン・イブラーヒーム)

 世の識者は、将来の出来事をあらかじめ知ろうと思えば、過去に目を向けよ、と言っている。この発言は道理にかなったものだ。なぜかといえばいつの時代をとわず、この世の中のすべての出来事は、過去にきわめてよく似た先例をもっているからである。つまり人間は、行動を起こすにあたって、つねに同じような欲望に動かされてきたので、同じような結果が起こってくるのも当然なのである。(マキャヴェッリ 『ディスコルシ』)

 惣じて学問は飛耳長目之道と荀子も申候。此国に居て、見ぬ異国之事をも承候は、耳に翼出来て飛行候ごとく、今之世に生れて、数千載の昔之事を今目にみるごとく存候事は、長き目なりと申事に候。されば見聞広く事実に行わたり候を学問と申事に候故、学問は歴史に極まり候事に候。(荻生徂徠 『徂徠先生答問書 上』)

 江戸伝来の趣味性は九州の足軽風情が経営した俗悪蕪雑な『明治』と一致する事が出来ず。(永井荷風 『深川の唄』)

 深い思索には、広い体験が不可欠である。(九鬼周造 『書斎漫筆』)
by sabasaba13 | 2011-09-08 06:17 | 言葉の花綵 | Comments(0)
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