「わたしの非暴力2」

 「わたしの非暴力2」(マハトマ・ガンディー みすず書房)読了。
 ガンディー―このような人物が、かつて地上に存在したと、およそ未来の世代には信じられぬであろう。(アインシュタイン)
 彼については以前に掲載しました「ガンディー 反近代の実験」(長崎暢子 岩波書店)の書評をご覧ください。実は、東南アジアを破竹の勢いで占領し、インド国境にせまりつつあった日本軍に対し、帝国主義戦争の停止をもとめた有名な公開状(1942.7.26.『ハリジャン』)である「すべての日本人に」が無性に読みたくなりました。いくつかのホームページで紹介されて入るのですが、私の調べたかぎりでは全文を掲載しているものはありません。そこで1941年から、死の前日の1948年までのガンディーの言葉を収めた本書を購入した次第です。その中で心につきささる一文だけを紹介しましょう。
 わたしがこうしてあなたがたに訴えかけているのは、わたしたちの運動が、あなたがたやその同盟国を正しい方向に導くよう影響を与えるかもしれない、またそれが、あなたがたの道徳的崩壊と人間ロボットへの転落に終わるにちがいない軌道から、あなたがたと同盟国を救出することができるかもしれないという希望をもっているからです。(p.37~38)
 暴力とは病理であり、それを振りかざす者の道徳は崩壊し、やがてロボットへと転落していく。ガンディーの思想の核心部分がここに現れています。そしてこの暴力を単に物理的なものだけではなく、人間が人間を害するすべての行為を含意していると、彼は言いたかったのではないでしょうか。飢餓と失業で脅かし労働者を低賃金で競争させ酷使する行為、人間の正当な要求を超えて富を蓄積する行為、貧しい国々の福祉予算を削らせて負債を強引に返済させる行為などなど。そう考えると、ガンディーの言葉はグローバリゼーションや市場原理主義まで射程にとらえています。いや贅言はやめましょう。叡智と愛に満ちた彼の言葉の数々を紹介します。
 なお前述の記事で、ガンディーがジョン・ラスキンの影響を受けたと書きましたが、本書の解説でもうすこし詳しいことがわかりました。1904年にラスキンの『この最後の者に』を読んで感動したガンディーは、この本の理想を実現すべく家族や同志たちと共同生活を始めるために、ダーバン近郊のフェニックスに自給自足の農園を設立しました。この農園は、後年サバルマティー・アシュラムがインドにおけるガンディーの活動のセンターとなったように、南アフリカの民族運動のセンターであったそうです。(p.104)
 わたしたちは、戦場で彼らを打ち負かすのではなく、改心させようとしているのです。わたしたちの闘いは、英国支配に対する非武装の反抗です。けれどもまた、わたしたちは彼らを改心させることができようとできまいと、非暴力的非協力によって彼らの支配を不可能にしようと決意しています。それは、本質的に敗れることのない方法です。その方法は、いかなる掠奪者も犠牲者のある程度の協力―それが自主的なものにせよ、強制されたものにせよ―なしには、目的を達成することができないという考えにもとづいています。わたしたちの支配者たちは、わたしたちの国土と肉体を所有することはできるでしょうが、わたしたちの魂(こころ)は所有できません。(p.8)

 …最上にして最も効果的な聖句(マントラム)は、「富を放棄することによって、富を享受せよ」である。この言葉を敷衍するならば、「なんとしても富を得るがよい。けれども、あなたの富はあなたのものではないことを忘れてはならない。それは人びとのものである。あなたの正当な必要のために入るだけのものを取り、残りは社会のために利用せよ」という意味になる。(p.14)

 反戦論者として、わたしの答えは一つしかありえない。攻撃のためであろうと防衛のためであろうと、生命や財産の破壊のなかにわたしは勇気や犠牲をみることはできない。(p.24)

 その(※非暴力の)目的とするところは、つねに相手の内に最もよいものを喚び覚ますことである。(p.40)

 国民の間にイギリス人に対する憎悪があることは、わたしも気づいていました。彼らの振舞いにはむかむかすると人びとは言います。けれどもそういう人たちは、イギリス帝国主義とイギリス国民とを区別していないのです。彼らには、その二つがごっちゃになっているのです。この憎悪の念から、彼らは日本人さえも歓迎することになるのです。それはきわめて危険です。それでは、一つの隷属を他の隷属に鞍替えするだけのことです。わたしたちは、憎悪の感情を取り除かなければなりません。わたしたちは、イギリス国民と闘っているのではありません。彼らの帝国主義に抗して闘っているのです。(p.49)

 内なるその声がわたしに言います―「おまえは全世界に対して立ち向かわなければならない―たとえおまえ一人で闘わねばならぬとしても。また、おまえは全世界を直視しなければならない―たとえ世界が血走った眼でおまえを見つめようとも。恐れるな。おまえの心の中に住む小さな声を信じよ」と。(p.74)

 もしある人が非暴力の誓いをしたために、婦人たちの名誉を護ることができないと訴え出たとすれば、自分は容赦はしません、と。非暴力は、臆病者の盾に用いられてはならない。それは勇者の武器である。このような残虐行為をただ力なく傍観するくらいなら、暴力を用いて討ち死にしたほうがよいだろう。ほんとうに非暴力の人なら、生きながらえて、このような残酷物語を語り伝えるような真似はしないだろう。彼はその場で、非暴力の抵抗によって一命を投げ出していただろう。(p.95)

 自分の敵が殺されそうな目にあっているときに、黙ったまま、手出しをせずに傍観しているなら、あなたがたはサティヤーグラヒとは言えません。あなたがたは、生命を賭してもその者を護ってやらねばなりません。(p.141)

 わたしが見るかぎりでは、原子爆弾のために、これまで久しく人類を支えてきた高尚な感情が死滅させられてしまった。これまでは、いわゆる戦争の法則というものが存在していて、戦争をなんとか耐えられるものにしてきた。けれども、いまやわたしたちの前に、戦争の真実がむきだしにされたのである。戦争には力の法則以外の法則はないのだ。日本が下劣な野心を貫こうとして行なった犯罪をわたしが弁護しようとしている、などと早合点しないでもらいたい。違いはただ程度の差だけであったと、わたしは思う。けれども、日本のほうがいっそう下劣であったからといって、日本の特定地域の男や女や子供たちを情け容赦もなく殺してしまうという、まさるともおとらない下劣な行為をやってよい権利はだれにも与えられていなかったのだ。(p.163)

 彼らの一つの目標は物質的な進歩です。たとえば、アメリカでは、すべての市民が自家用車をもつことを目標にしています。わたしはそういう目標を抱いてはいません。(p.167)

 わたしの同情が、見るにしのびぬ気の毒な状態に置かれたユダヤ人たちにゆくのは当然である。けれども、逆境から彼らが平和の教訓を学んだものと、だれもが考えていた。それなのに、なぜ彼らは歓迎されぬ土地に割り込むのに、アメリカの経済力とイギリスの武器にたよるのだろう。なぜ彼らは力づくでパレスチナに上陸しようと、テロ活動に訴えるのだろう? もし彼らが、彼らのすぐれた予言者たちが教えた非暴力という無上の武器を採るならば、彼らの問題は世界の世論を動かすだろう。自ら進んで茨の冠をかぶったユダヤ人イエスが、苦悶する世界に伝えたのも、この非暴力の教訓であったことを思い出されたい。そしてわたしは、ユダヤ人が世界に与えた数々の貢献のなかで、これこそがもっともすぐれた輝かしいものになることを信じて疑わない。それは二重の祝福を享けているのだ。それはユダヤ人をほんとうに幸福に豊かにするだろう。またそれは苦悩する世界の鎮痛剤となるだろう。(p.175)

 インドが非暴力の独立国になった場合にも、犯罪は起こるでしょうが、犯罪者はありません。従って、彼らは処罰されることはありません。犯罪というのは、他の病気と同じように一つの病であり、現在の社会制度の生んだ所産です。ですから、殺人も含めて、すべての犯罪は病として扱われることになりましょう。はたして、このようなインドが実現するかどうかは別問題ですが… (p.176)

 自分の商う品物を、人前でできるだけ高く売りつけようとする男が、泥棒でなければ、いったい何でしょう? (p.177)

 われわれ国民が互いに理解し合うだけの叡知をもたないかぎり、いつまでも暴力主義がはびこり、アヒンサーの真の力をわたしたちの心に芽生えさせることができないことになる。

 自らの存続を軍隊の援助にたよるのは、貧弱な民主主義である。軍隊は自由な精神の成長を妨げ、人間の魂を窒息させる。(p.195)

 軍隊というのは、どんな社会的秩序にも共通であるはずの規律を離れてしまうと、あとは野獣化の一途をたどるものである。もし自由インドがいままでどおりの軍事費を負担しなければならないとすれば、飢えた民衆に救いをもたらすことはできないだろう。(p.195)

 原子爆弾の現代においてこそ、純粋な非暴力が暴力のあらゆる策略にうち勝つことができる。 (p.197)

 武器は、人間の強さではなく、弱さのしるしである。ひとたび武器を奪われると、たいていは降参するより仕方がないのだ。(p.200)

 けれども、その要求が力を背景にしており、しかも要求の正当性が納得できないうちは、非暴力の人に残された唯一の道は、それに対して無抵抗の闘いを試みることである。彼は暴力を返すのではなく、手を出さないことによって相手の暴力を骨抜きにし、同時に要求に屈服することを拒否しなければならない。これこそが、この世界で見受けられる文明の名に値する唯一の方法である。(p.245)

 はじめに親としての義務を果たさずに子供たちに服従を要求するいやらしい親は、子供たちから軽蔑の目で見られるだけである。(p.260)

 弱者の非暴力というようなものはありえない。非暴力と弱さとは相矛盾する言葉である。(p.265)

 つぎに教授連の科学者メンバーの一人が、いまもし科学者たちが、自由インド政府から戦争兵器や原子爆弾の開発のために研究に従事するよう求められたら、どうすべきかとガンディージーにたずねた。ガンディージーは言下に答えた―「科学者の名に値するためには、そのような国家には死を賭して抵抗するべきです」と。(p.269)

 ばらばらに散らばった水滴は消え去るだけであるが、それが結集すると、広い洋上に巨大な汽船をも走らせる大海となる。同様に、世界各地の労働者が団結すれば、わずかばかりの高賃金でそそのかされたり、わずかな手当につられて言いなりになるようなことはないだろう。労働者たちの非暴力のほんとうの団結は、磁石のように、必要なすべての資本を引きつける。そのとき資本家たちは、受託者としてのみ存在することになるだろう。そのような慶ばしい朝が明けるとき、資本家と労働者の区別はなくなるだろう。労働者は、十分な食べ物と衛生的で住みよい家、子弟のための必要な教育、自分の教養を高めるために十分な余暇、そして適当な医療援助などにあずかれるだろう。(p.276)

 非暴力的非協力は万能薬である。善は自立的に存在するが、悪はそうではない。悪は善の周りに巣食って、それにたかる寄生虫のようなものだ。善が援助を与えなくなったときに、悪はひとりでに消滅する。(p.285)

 これは希望のない願いであることを告白しなければなりません。なぜなら、今日わたしたちは、軍隊やむきだしの武力ばかりに頼っているからです。わが国の政治家たちは、五、六十年以上も前から英国体制下での軍事支出の過重をはげしく非難してきました。それなのに、政治的隷属から自由になったいま、わたしたちの軍事費は増大し、今後も増大をつづける気配を示しています。そしてこともあろうに、わたしたちはそれを誇りにしているのです! この国の議会には、それに反対する声すらも聞かれません。それにもかかわらず、インドがこの死の踊りに生き延びて、どんなに不完全であったにしても、1915年以来32年にわたって絶え間なく続けられてきた非暴力の訓練の結果として、当然インドのものとなるはずの精神的な高みをきわめることができますようにとの、一縷の希望がわたしや多くの同志の心から失われることはありません。(p.293)

 もし世界のもろもろのいとなみの総計が破壊的だとすれば、とっくの昔に世界は滅亡していたはずだと、どうしてわたしたちは考えないのだろうか? 愛が、言いかえればアヒンサーが、わたしたちの地球を支えてくれたのである。(p.301)

 他人の宗教上の確信や慣習を理解し尊重するには、雅量と幅広い視野が必要である。(p.310)

 人間の価値は、人が稼ぐ金額によらないことを忘れてはならない。(p.318)

 人が困っているとき、その人を幸福にみちびく鍵は労働にある。神は人間を飲み食いや享楽のために創りたもうたのではない。(p.323)

 かりにあなたがたが戦争に勝ったとしても、それは、あなたがたが正しかったということの証明にはならないでしょう。それはただ、あなたがたの破壊力のほうがまさっていたことを示すだけです。(p.332)

 戦争は本質的に罪悪であるために、わたしは停戦を提唱する。あなたがたは、ナチズムを抹殺することを望んでいられる。けれども、ナチズムのやることを無差別に真似るのでは、それを抹殺することにはならないだろう。貴国の兵士たちも、ドイツと同じ破壊活動をやっている。ただ違うのは、おそらくあなたがたの破壊がドイツ人ほど徹底していないということだろうか。(p.332)

by sabasaba13 | 2011-09-26 06:16 | | Comments(0)
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