クロアチア編(33):ドブロヴニク(10.8)

 すぐ左手にあるのがフランシスコ修道院、まずはこちらの見学となります。修復されているとはいえ、それとわかる弾痕の痛々しさが心に突き刺さりました。中に入るとまず目に飛び込んでくるのが繊細な二重の列柱が美しい回廊と中庭。そして壁面上部の半円アーチには、アッシジの聖フランチェスコ(1181~1226)の生涯を描いたフレスコ画が描いてありますが剥落部分が多いのが残念。余談ですが、彼と明恵上人(1173~1232)は同時代人で、ともに清貧の生涯を送りながら信仰を深めたという類似点があるため、アッシジの聖フランチェスコ教会と栂尾の高山寺は兄弟教会の約束をとりかわしています。そしてこれまた残念なことに休業だったのですが、回廊に面したところに創業1371年というクロアチア最古、ヨーロッパでも三番目に古いという薬局があります。当時の修道院が、病に苦しむ人々を救済していたことを物語る物件ですね。ドブロヴニクは住民に対する福祉や医療にも力を入れていたとのことで、こうした医療サービスの他にも、ゴミの収集、上下水道の整備、種痘の実施なども行なわれていたそうです。
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 なおハーバート・ノーマンの随筆「歴史の効用と楽しみ」(全集第四巻p.196 岩波書店)に下記のような一節がありました。
 また物質的な面においても、そのはなやかさと生活の安易さと公衆娯楽施設と清潔と公衆衛生とにおいて、ビザンチンに匹敵する国は中世紀を通じて西欧のどこにもなかった。…ビザンチンにはこの他公衆のための病院があって、そこでは入院料に等級がつけられており、貧乏人でも入院できるようになっていた。さらにそこには特別の調剤所や病人に食事を給するための製パン所も設けられていた。また当時欧州のどこにも見られない石鹸が一般に使用されて、清潔と作法との程度は驚くほど進んでいた。
 もしかするとビザンティン帝国の影響を受けていたのかもしれませんね。奥は博物館になっており、礼拝用の衣装や宝飾品などが展示されていました。ふと壁の上部を見ると…弾痕があります。説明のプレートには"A MISSILE SHOT 6.12.1991"、まさしくユーゴ連邦からの独立にともなって勃発した内戦の傷跡です。部屋の一角には、その時に打ち込まれたものと思われる小型のミサイル弾が「私のことを忘れてはいけない」と語りかけるように展示されていました。攻撃をしたのはセルビア人を中心とするユーゴ連邦軍だと思いますが、一体なぜ? 事前に調べた知識では、たしかにローマ・カトリックとセルビア正教、信仰は違いますが、クロアチア人もセルビア人も同じスラヴ民族、言語も似たものだと聞いております。やはり歴史、そして当時の政治状況について考えなければいけませんね。この問題については後で述べたいと思います。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2011-10-08 06:14 | 海外 | Comments(0)
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