クロアチア編(65):旅の終わりに(10.8)

 というわけで、散歩の変人クロアチア編、一巻の終わりです。美しい自然と街、親切な人びと、そして苛烈な歴史と、たいへん面白くかつ勉強になった旅でした。ここで、ドブロヴニクで考えた二つの問いがまた脳裡をよぎります。戦後五十年もの間、旧ユーゴの人々は民族の違いを超えて、日常的には民族を意識しないで平和共存してきたのに、なぜ急に、互いに牙をむき出して血で血を洗う民族紛争を戦うにいたったのか。そして、民族紛争という宿痾をなくすにはどうすればよいのか。帰国後、いろいろな本を読んだり考えたりしましたが、この宿題に対して、先哲の教えを乞いながら述べてみたいと思います。
 まずは前者の問題です。『「民族浄化」を裁く』(岩波新書973)から多谷千香子氏の分析を紹介しましょう。こうした民族浄化の実像は、そのほとんどが当時の指導者が仕掛けた権力闘争が引き起こしたものです。彼らは、共和国の独立による旧ユーゴ連邦分裂の危機を、千載一遇のチャンスとして積極的に活用し、いずれも、他民族の攻撃から自民族を守ることを口実に、自分の権力基盤の確立を目指して、「国土の分捕り合戦」を行いました。口実を真実だと信じさせるために使われた手段は、他民族が集団殺害を計画しているという嘘の宣伝をして、あたかも身に危険が差し迫っているかのような「現在の不安」を強調したり、他民族に天下をとられて二級市民の悲哀をなめることになるかもしれないという「将来の不安」を煽ったりすることでした。つまり、一部の政治家や軍人が、自己の権力拡大と蓄財のために、一般市民の恐怖を煽り拡大して「民族浄化」に利用したという構図ですね。また「帝国・国家・ナショナリズム」(ミネルヴァ書房)のなかで、木村雅昭氏が指摘されているように、民族構成が多様なところでグローバル・エコノミーが威力を発揮するとき、企業家精神に富んだ民族が機会を巧みに捉えて巨万の富を蓄えることとなる結果、貧富の対立が民族的な対立とオーヴァー・ラップしてたち現れてくるという点も見逃せないでしょう。そして自民族を脅かす他民族への憎悪をかきたてるために、伝統が捏造され、大衆消費用に過去が輝かしく粉飾され、磨き直されて、意識的/無意識的に流布される。その際に、相手の集団を構成する個々人から具体的な顔を消し去ることによって、個々人を集団に還元し(「やつらは○○○○人だ」)、それと同時に悪魔さながらに描かれた相手とは対極に位置するものとして自分たちを描き出すことで、同じく自分自身の個性を消し去って、自己が帰属する民族集団へと溶け込んでゆく(「われらは○○○○人だ」)。そしてある集団による他の集団への身の毛もよだつような暴力が振るわれることになります。これに加えてクロアチアやボスニアでは、同じ南スラヴ語を話し、何世紀にもわたって共存してきた民族であるだけに、こうした動きが起こると近親憎悪的な感情を誘発し事態を悪化させたと考えられます。似たものに接するとき自分の存在意義が薄れるのを恐れ、他者を誹謗し自分を称えるという、フロイト説くところの「微差のナルシズム」ですね。また第二次世界大戦中における、凄惨な迫害や虐殺の記憶ももちろん与っているでしょう。
 そして、こうした善良な一般市民による大量殺戮を、現代的な視点から分析した、「戦争の世紀を超えて」(講談社)における姜尚中氏の指摘も大いに参考となります。「人を殺してはいけない」という脳内の回路がなぜ機能停止してしまうのでしょうか。私たちはこの時代に生きていて、どこかに価値のないやつが生きていても仕方がないという考えが、その意識に巣くっているのではないか。つまり憎悪とは別に、もう一つ、価値がないから生存する必要がないという考えがあるという指摘です。そして、価値がないから抹殺するというメカニズムは、資本主義における淘汰のメカニズムと同じものである。市場において、価値のないものは淘汰されなければならないということですね。もしそうだとすると、これはとてつもなく根深い問題です。

 それでは後者の問題、民族紛争という宿痾をなくすにはどうすればよいのか。その発生要因をある程度とらえることができれば、その対策も像を結んできます。もちろん実際に遂行できるかどうかは別問題ですが。
 まずは他民族への憎悪を煽りたてる指導者を登場させないこと。これについて、多谷千香子氏は、国際刑事裁判所(International Criminal Court)の存在が重要であると述べられています。蓄財や権力に対する私的な欲望で突き動かされ、民族紛争を煽ろうとする指導者に対して、戦犯には裁判が待っているという体制が確立すれば、無謀な賭けには出ないだろうと期待されます。もちろん、そのためには、世界の多数の国がICCの締約国となって、戦犯に避難所を与えないようにしなければなりません。なお余談ですが、アメリカは、このICC協定に批准はおろか、署名すらもしていません。戦犯の巣窟ともいうべき国ですから、これは理解できますね。信じ難いのは、日本も加盟していないという事実です。アメリカへの追随かと邪推したくなりますが、多谷氏は、それは誤解であり、国内法との整合性の検討が終われば、日本もICCのメンバー国になる予定であると、好意的な見方をされています。
 次に、民族間の憎悪の大きな原因となる、経済的な不平等をできうる限りなくすこと。ネルーは『父が子に語る世界歴史(6)』(みすず書房)の中で、こう述べています。(p.207)
 デモクラシーは、宗教的、あるいは民族的、人種的衝突(アーリアン・ドイツ人対ユダヤ人)とか、また、なかんずく経済的対立(もてるものと、もたざるものとの間の)とか、人びとの激情をうごかすに足る決定的な岐路にさしかかるときに、無力化する。
 紛争を起こすことを容易にし、凄惨な犠牲を招く、軍備や武器の制限も喫緊の課題ですね。ガンディーが生涯説き続けたアヒンサー(非暴力)の教えに耳を傾けましょう。「なぜ軍隊にたよるか」(『わたしの非暴力2』 みすず書房)からの引用です。(p.195)
 自らの存続を軍隊の援助にたよるのは、貧弱な民主主義である。軍隊は自由な精神の成長を妨げ、人間の魂(こころ)を窒息させる。…軍隊というのは、どんな社会的秩序にも共通であるはずの規律を離れてしまうと、あとは野獣化の一途をたどるものである。
 そして自分を"民族"や"国家"という集団に埋没させないこと。人間が昆虫と同じように分類できるものであり、何百万、何千万という人間の集団全体に自信をもって「善」とか「悪」とかのレッテルが貼れるものと思い込んでいる精神的習慣をきっぱりと拭い去ること。要するに、他民族への憎悪を煽る指導者やメディアに操られる素地をなくすことです。うむむむ、これは難しい課題ですね。でもこのアポリアを乗り越えないと、人類の未来は暗澹たるものとなりかねません。先賢の智慧を借りましょう。まず木村雅昭氏の言です。(前掲書p.108、p.113)
 「エスニシティや言語による呼びかけは、これらの基準の上に新しい国家が形成されるときでさえ、何ら未来に対する指針を提供するものではない。それは単に現状に対する抵抗にすぎず、もっと正確に言えば、エスニックなものと定義される集団を脅かす『すべての他者』に対しての抵抗である」とホブズボームが書くとき、そこで強調されているのはエスノ・ナショナリズムの政治的不毛性、これである。しかも自らの文化的独自性を守ろうとするこうした運動は―たとえその主張が真性なものであるとしても―それが性急に追求されるとき、その主張とは裏腹に、文化的不毛性へと帰着してゆくこととなるであろう。というのも自らの文化に対する盲目的な忠誠のあげくに、他文化に対して心を閉ざすとき、異文化間の交流はおろか、より大きな文化的世界から孤立してゆくこととなるからである。

 いずれにせよ以上の事例が教えることは、宗派、民族を横断する政治・社会的な絆こそが紛争を未然に防ぎ、あるいはそれが爆発するのを抑制する上で、決定的な役割を演じていたこと、これである。
 自らの文化に盲目的な忠誠を捧げず、多文化に心を開くこと。自己や自文化は、人類という大きな文化的世界の一部に属していることを常に意識することでもあるでしょう。そして他民族とのさまざまな交流を通して、絆を結ぶこと。モスタルのスタリ・モスト(古い橋)のように、平和の架け橋をかけることですね。
 そしてデマゴーグやプロパガンダに踊らされないよう、自己を練磨すること。「歴史の効用と楽しみ」の中で、ハーバート・ノーマンはこう語っています。(全集第四巻p.202 岩波書店)
 世界がうまく行かないのは、人びとの心が元来よこしまであるからというよりは、広い意味での教養が欠けているからである。それは知性と寛容と理性が欠けているからであるとまであえて言ってよいと思う。
 他民族を平然と誹謗・侮蔑するような人物を地方自治体の長に選んでしまうような国の方々に、とくに耳を傾けてほしい言葉ですね。
 なおこうして見ると、ユネスコ憲章前文があらためて輝きをもって頭に浮かんできます。
 戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信をおこした共通の原因であり、この疑惑と不信のために、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった。ここに終りを告げた恐るべき大戦争は、人間の尊厳・平等・相互の尊重という民主主義の原理を否認し、これらの原理の代わりに、無知と偏見を通じて人間と人種の不平等という教義をひろめることによって可能にされた戦争であった。文化の広い普及と正義・自由・平和のための人類の教育とは、人間の尊厳に欠くことのできないものであり、且つすべての国民が相互の援助及び相互の関心の精神をもって果さなければならない神聖な義務である。政府の政治的及び経済的取極のみに基づく平和は、世界の諸人民の、一致した、しかも永続する誠実な支持を確保できる平和ではない。よって平和は、失われないためには、人類の知的及び精神的連帯の上に築かなければならない。これらの理由によって、この憲章の当事国は、すべての人に教育の充分で平等な機会が与えられ、客観的真理が拘束を受けずに探究され、且つ、思想と知識が自由に交換されるべきことを信じて、その国民の間における伝達の方法を発展させ及び増加させること並びに相互に理解し及び相互の生活を一層真実に一層完全に知るためにこの伝達の方法を用いることに一致し及び決意している。その結果、当事国は、世界の諸人民の教育、科学及び文化上の関係を通じて、国際連合の設立の目的であり、且つその憲章が宣言している国際平和と人類の共通の福祉という目的を促進するために、ここに国際連合教育科学文化機関を創設する。
 長々とおつきあいをありがとうございました。本編をしめくくる言葉は何にしようかな…やはりカート・ヴォネガットですね。「国のない男」(NHK出版)からの引用です。
ジャングルの闇に潜むライオン・ハンターも
セントラルパークで眠りこける飲んだくれも
中国人の歯医者もイギリスの女王も
みんな仲良く同じマシンのなか。
いいね、いいね。
そんなにも違う人々が同じ乗り物のなか!


 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2011-11-21 06:18 | 海外 | Comments(0)
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