隠岐編(29):米子(10.9)

 そして加茂川のほとりにひっそりと佇んでいたのが、ここ米子出身である西田税(みつぎ)の碑です。後学のため、スーパーニッポニカ(小学館)から引用します。
西田税(1901―37) いわゆる昭和維新、国家改造運動における青年将校のリーダー。明治34年10月3日鳥取県米子市の仏具屋の家に生まれる。陸軍士官学校34期在校中から大アジア主義の影響を受け、さらに北一輝の『支那革命外史』『日本改造法案大綱』を読んでこれに傾倒、陸士同期の秩父宮雍仁に国家改造の必要を説き、『日本改造法案大綱』などを贈呈した。1922年(大正11)騎兵少尉に任官したが、25年病気のため退官、予備役に編入され、大川周明主宰の行地社に入り、機関誌『月刊日本』の編集を担当、かたわら大学寮の寮監兼軍事学の講師となった。26年大川と対立、北一輝の門下に走り、以後北の忠実な弟子として生涯をともにする。この間多数の青年将校と交わり、代々木の自宅の集まりを「士林荘」とよび、27年(昭和2)7月「天剣党規約」「天剣党大綱」などを配布して憲兵隊の取調べを受けた。32年の五・一五事件では計画の途中で陸軍青年将校の参加を拒んだためスパイ視され、15日自宅で井上日召の弟子川崎長光に拳銃で撃たれ瀕死の重傷を負った。36年の二・二六事件に連座、翌年8月19日北一輝とともに銃殺された。
 彼の指導下にあった磯部浅一らが中心となって2・26事件を起こしたため、民間側の首謀者と見なされて、北一輝とともに処刑されたのですね。碑には「ふる里の加茂の川辺の川柳 真さをに萌えむ朝げこひしも」という彼の歌が刻んでありました。田舎漢の小生にはこの事件にコメントをする力量はありませんので、これ以上はふれません。なお民間人として唯一参加した渋川善助の生家、会津若松の渋川問屋を訪れたことを思い出しました。なおこの碑の近くで、緑に覆われたグリーンモンスター物件を発見。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2012-01-09 08:57 | 山陰 | Comments(0)
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