「パクス・アメリカーナの五十年」

 「パクス・アメリカーナの五十年 世界システムの中の現代アメリカ外交」(トマス・J・マコーミック 東京創元社)読了。こいつは凄い本です。ひさしぶりにfont size16で叫びましょう。お薦め!

 アメリカは如何にして世界のヘゲモニーを握り、また失うに至ったか。これから合衆国は、そして世界はどうなるのか。世界システムの観点から、20世紀、特に第2次大戦後の米国外交を詳述した見事な歴史書です。浅学非才は承知の上で、マコーミック氏の理論的立脚点を紹介しておきましょう。たぶんこういうことだと思います。書名にあるように、氏はアメリカ外交の基本は、"アメリカによる平和(pax)"をめざす、いいかえれば唯一のヘゲモニー強国であり続けることだとされています。ヘゲモニー強国は世界の支配的な経済強国であって、自由貿易、自由な資本移動、自由な通貨交換性の世界から得ることが最も多く、よってその経済力・軍事力を用いて、資本の国際化を促進する制度と基本原則とを作り出すことを自国の利益としています。ということは、資本・物品・通貨の自由な移動を制限しようとする国家主義的な動き、私なりに言えばアメリカ企業が自由に金儲けできなくなり地域の拡大は、大いなる脅威なわけですね。アメリカが第二次世界大戦に参戦した最大の理由はここにありそうです。日本の「大東亜共栄圏」しかり、ドイツのヨーロッパにおける「生存圏」しかり、アメリカのヘゲモニーを脅かす勢力だったのですね。戦後においては、現実にはありもしない"ソ連の脅威"を声高に叫ぶことによって"冷戦"を演出し、自由世界におけるヘゲモニーを維持しようとします。えっ、東欧を侵略して傀儡政権をつくったじゃないかと言われますか。著者はこう述べられています。
 多くの点でソ連の対東欧政策はカリブ海地域に対する伝統的なアメリカの政策に似ていた。カリブ海地域において合衆国は地理的状況とその国の情勢次第で公式の支配を施す国もあれば非公式の支配をする国もあった。すなわち、教条的ではなく功利的な外交であった。(p.119)
 そして自由経済体制を擁護するのもヘゲモニー国の重要な役目です。そのため、自国にとって重要でない地域にしばしば深く介入せざるを得ない状況も起こってきます。この指摘には驚愕したのですが、ベトナム戦争もその一例なのですね。日本の工業を復活させ、アジア経済の中心として位置づけ、アジアにおけるアメリカのジュニア・パートナー(はじめは中国を考えていたのですが共産党の勝利によってその構想は瓦解)として利用するために必須の戦争でした。ベトナムが共産圏に入ってしまうと他の東南アジア諸国もそうなる可能性(ドミノ理論)があり、日本は原料供給地および市場として重要な東南アジアを失ってしまう。そうなると日本の経済復興は絶望的となり、中国との経済関係を深める危険性も出てくる。言うなれば"再版大東亜共栄圏"を日本に提供するための戦争であったわけですね。
 目から鱗が落ちてコンタクトレンズをはめたように、クリアな視界で戦後世界を見ることができるようになりました。著者に感謝したいと思います。いくつか引用をしますので、その怜悧な分析をぜひ堪能してください。
 1940年代後期にドイツ、日本、イタリアは三国同盟に調印し、アメリカの介入の可能性に備えて共同戦線を張り、ドイツのユーラシア共同市場と日本のアジア三日月地帯とがペルシア湾で接合する構想を明確に表明した。それはヒトラーの言う「レーベンスラウム」、つまり生存圏であった。
 しかしながらドイツと日本にとっての生存圏は、アメリカの民間企業と統合された世界システムとしての資本主義にとっては死滅圏であった。もしも二つの枢軸国が成功するならば、世界は工業中枢国を中心に組織される四つの古典的な帝国になってしまうだろう。すなわち、西欧、北米、ソ連、および日本の帝国であって、それぞれの帝国は自らの支配地域と資源とを能率化して保護し、また競争相手のそれを押し開き、とことんまで調査する。そういったお膳立てのすべてが、最大限利潤の追求を選択しようとする資本固有の傾向を妨げるであろう。それは中枢地帯による周辺地帯の収奪を強め、その結果、社会的な反乱の可能性を高めるであろう。それは守備隊駐屯措置と大規模な軍事支出の維持とを必要とするが、そのために工業経済は歪められ、弱められるであろう。(p.70)

 1940年にすべてが変わった。西ヨーロッパはドイツの猛攻の前に崩壊し、インドシナはいつのまにか日本の勢力圏に陥り、そして枢軸国は三国同盟を結んだ。…真珠湾攻撃の一年半前に、世評の高い「フォーチュン円卓会議」が述べたように、「われわれの第一の関心事は、ヨーロッパとアジアの大半が万一自由企業を廃棄した場合に、アメリカの資本主義体制が作動し続けることができるかどうかというもっと長期にわたる問題である」。(p.72)

 アメリカの戦争目的であったのは、ナチス=ドイツの破壊そのものでは決してなかったからである。それはどれか一つの強国がヨーロッパを支配し、アメリカがそれに参入する機会を制限するのを阻止することであった。(p.79~81)

 別の表現をすれば、原爆外交によってヤルタ協定のあいまいさをアメリカに有利なように解消できるかもしれないと考えたのである。原爆外交によって勢力均衡が大きく変化したので、合衆国は崩壊した世界を再建する時に必然的に起こるパワーゲームのかけ金を吊り上げることができると期待していた。そのような期待は結局裏切られることになった。むしろ逆に原爆外交によって、ソ連は安全保障に対する恐怖心を高め、東欧の緩衝地域を一層強力に支配する傾向を強め、国内の対ドイツ穏健路線派の勢力を殺ぎ、ソ連指導者は全力をあげて独自の原爆開発計画を勧めた。(p.92)

 ソ連には原子爆弾はもとより近代的海軍も卓越した戦略空軍もなかった。さらにソ連はドイツとの戦争で膨大な数の人命と設備を失った。そのうえ、ソ連は貧弱な輸送体制と遅れたテクノロジーというハンディを背負っており(軍隊の動力源と機動源として内燃エンジンとともに馬がまだ使用されていた)、たとえアメリカが世界の警官の役割を引き受けたとしても反対できるような立場にはなかった。(p.95)

 ソ連は1946年を通じて共存に対する慎重な姿勢を徐々に変えていった。アメリカの政策が硬直化し、ソ連が世界システムに加わる代償を暗黙のうちに高くしたのがその主な原因であった。(p.120)

 アメリカにおいては、経済的国際主義の論理が早々と財務省の制裁政策にとって代わった。もしドイツが牧草地になれば、生活水準と一人あたりの収入が急激に減少し、左翼化してソ連に接近していくだろうと考えられた。逆にドイツが再工業化されれば、ヨーロッパで最も低コストの生産国となり、最も効率的な消費者になる。ヨーロッパの復興、世界システムの活性化、アメリカの繁栄、アメリカ自由企業体制の永続的存続はすべてヨーロッパ経済にドイツが全面的に参加することにかかっていた。アメリカは過去の資本主義間の戦争においてドイツが果たした役割を忘れたわけではなく、とくにフランスがドイツの報復に対するソ連の不安を共有していることを知っていた。そこでアメリカは、ドイツを共同市場または多国間軍事力によって集団大西洋共同体に統合すれば、安心して再工業化(再軍備も)に踏み切れるだろうと考えた。(p.123~124)

 しかしながら、別のレヴェルではギリシア・トルコ危機は双子の内輪揉めであった。どちらの状況も1947年初期には悪化していなかったし、トルーマン・ドクトリンに先立つ数ヵ月間ソ連の行動は抑制され慎重なもののように思われた。たしかに、トルーマンの主要なアドヴァイザーの一人であったジョージ・エルゼイは「ソ連は"断固とした"演説をするのに適当な口実となるような明白な行動を最近とっていない」ことを認めていた。しかし、この事実はトルーマン・ドクトリンが明らかに現実を誇張し、大言壮語のレトリックを使ったために歪められた。そうすることによって危機そのものよりはむしろその危機に対するアメリカ国民の対応を操作しようとしていたということがわかる。(p.136)

 次官は議会聴聞会において、共産主義の脅威というイメージが世界情勢への関心よりも倹約財政で有名な議会を説得する鍵だと悟った。(p.137)

 再工業化したドイツの生産技術と消費能力がなければ、ヨーロッパは決して自立できず世界システムにおいて競争力をもつこともできない。

 戦後世界貿易の低迷に失望し不況の到来を懸念していたので、合衆国がヨーロッパの経済復興に手を貸さなければ、ヨーロッパはアメリカ最大の市場という役割を拡大できないと大企業を説得することは簡単であった。(p.143)

 ところが、アメリカが勝利の絶頂期にあった時-NATOが形成され、西ドイツが成立し、ベルリン封鎖によるソ連の抵抗が失敗に終わった時-ある見えざる手が栓を抜いてしまったようだ。日本におけるドッジ・プランの失敗、ヨーロッパにおけるマーシャル・プランの欠点、ソ連によるアメリカの原爆独占の終了、世界システムからの中国の喪失-これらがすべて重なり合って別の危機が生み出された。今回の危機は非常に深刻なもので、その後三十年間これほど大きな危機を味わうことはなかった。端的に言えば、1949年後半から1950年初期に、アメリカの政策策定者はヨーロッパにはソ連という切り札を、日本には中国という切り札を使わせないようにしながら、両地域の再工業化と復興を順調に進めるという甚大な責任を負わされていた。ふらふらとしてはいたが、彼らの対応こそがその後二十三年間のアメリカ外交政策の形態と方向を決定したのである。

 しかしながら、仮にこのような国内の抵抗を乗り越えられたとしても、1950年以前の経済外交を延長するだけでは1949年から1950年にかけての危機によって出てきた問題を処理することはできないように思われた。そのような方法では、1950年代半ば以降、世界システムに対するソ連の軍事的脅威を切実に感じていた人の恐怖を和らげることはできない。ヨーロッパと日本にアメリカの軍事盾の信頼性を保証することもできず、その結果アメリカのヘゲモニーを着実に受け入れさせることもできない。不安定な周辺に革命を止めさせ、無理な工業化をさせず、世界経済の分業体制における従属的な立場に留めておくこともできないと考えられたのである。

 同時に、軍事能力の強調は、第三世界の採取経済の組織的発展を促す重要な手段となり、ヨーロッパと日本の復興のための市場および原料供給地としてより効率的な機能を果たす可能性があった。ところが周辺の多く、特にアジアの沿岸部は戦争と革命によって不安定な状態だったので、早期の計画的な経済成長のためにはこの地域を軍事的に鎮定し強制的に安定させることが必要条件のように思われた。従って、最新の「棍棒」外交が、周辺の一部に国際ゲームにおけるアメリカのルールを強制的に受け入れさせる潜在的な武器となった。

 1950年6月から1953年7月まで戦われた朝鮮戦争は東北アジア、東南アジア、台湾といったアジア沿岸地域をめぐる二十年抗争の一局面であった。仮にこの戦争を「沿岸地域戦争」と呼ぶならば、アメリカは三つの相互に関連した理由によってこの戦争を戦った。第一に、最も世界的なレヴェルでアメリカの介入に影響を及ぼした要因は、第三世界の採取経済を工業中心の中枢経済に結び付け、場合によっては軍事力を用いてでもその政策を遂行しようとした新たな政策であった。アジア沿岸地域ほどこのことが必要と思われた地域はなかった。朝鮮では、内戦と反乱によって十万人の朝鮮人が死に、分断され、麻痺状態であった。台湾では、中国国民党の生き残りが中華人民共和国との最後の決戦に備えていた。インドシナ、特にヴェトナムでは、フランスが1946年以来急進派と民族主義者を相手に植民地戦争を遂行していた。第二に、上記のことと関連しているが、「沿岸地域戦争」を戦った最も差し迫った理由は、日本経済のためにアジアの周辺を開放しておき、そうすることによって世界システムで機能を果たしている一員としての日本の地位を確保することであり、逆に日本が中ソの外部世界へなびかないようにすることであった。最後のより長期的な理由は、日本と沿岸地域を連結して世界システムの地域構成要素として確保しておけば、やがて中国をソ連の勢力範囲から引き離し、外部世界システムからアメリカ国際主義の世界へ連れ戻す重力磁石としての役割を果たすだろうと思われたことである。(p.168~169)

 ソ連に提案を受け入れていれば、二年早く1953年の休戦協定と同様の条件で悩める朝鮮に平和が訪れていたかもしれない。しかし、勝利せずに早期に平和を回復すれば、トルーマン政権が宥和政策をとったという非難を免れないだけではなく、NSC68と軍事化政策への危機にもなりかねなかった。大勝せずに1951年に戦争を終えれば、議会における地域主義者の批判を強め、永続的な高水準の軍事費の獲得、ドイツの再軍備と日本の再建および東南アジアと周辺の地の不安定な地域の強制的鎮定という計画が台無しになる可能性があった。(p.176)

 有益な成果を上げることはできなかったが、ソ連首相のニキタ・フルシチョフが自慢したように、ジュネーヴ首脳会議によって「[ソ連は]国際舞台において確固たる地位を築きあげることができた」。ポツダム会談からジュネーヴ首脳会議までの十年間、米ソの首脳が直接交渉したことはなかった。この沈黙の壁はアメリカの政策策定者にとって非常に大きな象徴的価値となっていた。そのおかげで、ソ連圏を世界システムの外側に隔離しやすくなり、国際問題におけるアメリカのヘゲモニー国としての役割を国際的にも国内的にも受け入れさせるためにソ連の意図に対する恐怖をうまく利用することができた。重要な点で、まさに新しい万里の長城、すなわち鉄のカーテンの向う側にソ連が存在するということによって、世界システムを複数の中心を持つ勢力均衡的世界からヘゲモニーが存在する統合された世界に転換することができた。たしかにソ連の存在がその転換を早め、より完全なものにした。ソ連の脅威は非常に役にたち、もしその脅威がなかったならば作り出さなければならなかったであろうという者もいる。たしかに、ソ連の脅威は非常に有益なものであり、少なくともその脅威は誇張されたのである。(p.184)

 長引いた朝鮮戦争は世界システムのアジアにおけるアメリカ統合主義をも推進した。そうすることによって、沿岸地域戦争を空間的に拡大して東南アジアを包含し、時間的にもう二十年間延期させた。アメリカの最も長い戦争は誤ってヴェトナム戦争と名付けられた(この戦争はインドシナ全域で戦われた)。この戦争へのアメリカの関与は実際には朝鮮戦争勃発の七週間前、すなわち1950年5月1日にトルーマン大統領がインドシナ革命を終わらせその地域を安定させようとしていたフランスを援助するために、アメリカのドルと軍需物資を使用するという公式声明を出した時から始まった。朝鮮戦争の場合と同様、この沿岸地域戦争の一部であるヴェトナムにおける戦争は、周辺をより効率的に中枢経済に統合するという全般的な戦略の一部として戦われた。さらに、日本経済の復興を維持し、日本経済が世界システムに参加することを確実なものにし、中国もいつの日にか世界システムに戻り資本主義的な道を歩めるような選択を開けておくという特定の戦略のためにも戦われた戦争であった。(p.186)

 1950年以来、ヴェトナム戦争の全過程を通じて、アメリカの指導者は相互補完的な経済分業に基づいて統合されたアジア地域主義を目指した。東南アジアは比較優位を持ち、日本に欠けている食料と原料という第一次産品の生産に特化することになる。それに対して日本は工業生産、金融、輸送、保険に特化することになる。日本はアジアの工場となり、東南アジアは日本の余剰製品の主要市場および金融資本のはけ口となる。もしこの地域主義が成功すれば、日本と東南アジア沿岸地域は世界システムにとどまることになる。中国がいつか世界システムに戻ってくるというアメリカの望みもつながったのである。(p.190~191)

 「[日本の対米協力は]日本の東南アジアの歴史的な市場と食料および原料の供給地への参入を果たせるかどうかで大きな影響を受ける。このような観点から見た場合、東南アジアに関するアメリカの目的と日本に関するアメリカの目的は不可分の関係にあるように思える。…西側世界が東南アジアを喪失すれば、日本は必ずアジアの共産主義支配地域と次第に和解することになるだろう」。
 二つの明示的かつ暗示的な事実がアメリカの理論的根拠に見られた。一つ、ヴェトナムそのものには本質的な価値がほとんどないこと。ヴェトナムはいわゆるドミノ理論という文脈においてのみ重要であった。すなわち、ヴェトナムを喪失すればインドシナ(ラオスとカンボジア)を喪失し、そうなればフィリピンとインドネシア諸島を喪失することにつながり、究極的なドミノである日本を喪失する引き金になるという論であった。そうなればアジア全域が世界システムから脱落し、閉ざされた世界という1941年の悪夢がよみがえりそうであった。二つ、アメリカは自国の直接的利益のためというよりはむしろ日本および世界システム全体の利益のために動いた。たしかに、1950年のアメリカの軍備増強によって東南アジアの原料に対するアメリカの需要は拡大した。しかし、他の世界的な利害と比較すると、アメリカの繁栄を維持するために東南アジアには最低限の関心しか払われなかった。しかしながら、日本にとって(重要性は低くなるが西欧にとっても)東南アジアは死活的かつ緊急の国益がかかっている地域であった。アメリカは自国の利益というよりは、むしろこのような日本と西欧の直接的な利益のために行動をおこした。アメリカはヘゲモニー国の機能だと考えてそのような代理の役割を果たした。アメリカ国際主義の根底にある前提はアメリカの主要貿易国、すなわち日本と他の中枢諸国が繁栄してはじめてアメリカ資本主義も繁栄できるという考え方であった。日本が繁栄するために、東南アジアのようなアジア沿岸地域の統合が不可欠であった。したがって、システム全体のために活動することが支配的資本主義国としてのアメリカの責任になった。権力には特権と利益が付随したが、同時に重荷を背負うことにもなった。その重荷は1950年代にアメリカの支配者が予想していたものよりも非常に大きなものだった。

 彼(※ホー・チ・ミン)のイデオロギーと政策の鉾先は、まったく彼の国そして恐らくはその地域を世界システムと国際分業体制から抜けさせようとするものであった。東南アジアがソ連の勢力範囲に入るのか、中国の勢力範囲に入るのか、中立のアジア勢力となるのかということは問題ではなかった。いずれにしても世界システムにとっては喪失であり、そうなると恐らく日本復興の夢も消えてしまう。そうすると究極的には、軍事的鎮圧がインドシナ問題に対する唯一の解決法のように思われた。

 1954年以降のアメリカのヴェトナムに対する対応は、世界秩序における第三世界問題の核心に対するより全般的な対応の一部であった。アメリカが考えていた課題は東南アジアに特有のものであると同時に周辺全体にかかわるものであった。すなわち、どのようにして中立主義を除去し、周辺にとって不適切な見本のように思われる政権を倒し、国際主義の恩恵を誇示するような新国家を建設するかという課題であった。こういったことをすべて幾分限定された予算内で、しかもアメリカ外交政策が新しい帝国主義(新植民地主義)だという批判を受けないようにして遂行しなければならなかった。(p.196~197)

 国家の運命には浮き沈みがある。アメリカのヘゲモニーの絶頂期は、1950年代末から1960年代までの時期にあたり、それはアイゼンハウアー政権の第二期、それに短命に終わったジョン・F・ケネディおよびリンドン・B・ジョンソン両政権期にわたっている。しかしながら、ヘゲモニーの絶頂は同時に衰退の始まりをも意味しており、その傾向は同じく絶頂期に認められた。現在から振り返ってみると、ヘゲモニーの長くてゆるやかな衰退過程は、まさにヘゲモニーを追求するためにとられた手段、つまりアメリカの対外政策の軍事化と世界システムの統合の強行の皮肉な結果であることがはっきりと分かる。その統合は、アメリカの経済的優位に対する新しい競争を助長することになったし、また軍事化は、東南アジアにおいてアメリカを自縄自縛に陥れる罠であることがわかった。その両方ともが、世界的覇権国に伴う損得、つまり受けとる報酬は果たしてそれに支払う犠牲に値するか否か、という重大な問題をアメリカ社会に提起することになった。(p.206)

 新設されたヨーロッパ経済共同体に自給自足経済の道を歩ませないようにしたり、あるいは東側諸国と別個な取り決めを結ばせないようにするための、時の試練を経た一つの方針は、冷戦を激化させることになった。つまり、ヨーロッパが、防衛と安全保障のために、これからもずっとアメリカに依存し続けるようにするために、ソ連の脅威の亡霊を大きく引き伸ばし、そして強化された核の傘を活用することであった。その明白なる代償は、相変わらず国際主義というヘゲモニー国の規則に対して忠節を守ることであった。

 まさに表面化しようとしていた中ソの分裂は、第三世界の不安定な情勢をさらに複雑なものにした。というのは中ソはともに、国の内外において革命国家としての資格と正統性を維持するために、革命的状況における影響力をめぐって互いに競争せざるを得なかったからである。…
 その結果として生じた第三世界の問題は、アメリカの政策策定者にとってもはや決して真新しいものではなかったが、規模とその深刻さにおいて前例のないものであった。中枢の繁栄がある程度まで、周辺の統合とその支配に依存している世界経済において、いかにすれば政治的に安定し、同時に全体としての経済的国際主義を支持するような政府を、第三世界において樹立することができるか、というのが重要な問題であった。その答えは―それは、アイゼンハウアー政権の第二期に明らかであったが、ケネディ時代には一層明白になった―「情け容赦のない厳しい警官と優しい警官」が見事に合体した、世界の警察官として二重人格を持つ合衆国を造り出すことであった。(p.228)

by sabasaba13 | 2012-01-13 06:16 | | Comments(0)
<< 隠岐編(31):横尾の棚田(1... 「イギリス近代史講義」 >>