札幌・定山渓編(10):札幌時計台(10.10)

 環状通東駅で降りてコインロッカーから荷物を取り出し、地下鉄東豊線に乗って大通駅で下車。テレビ塔のとなりで、13:30に宿の送迎車に乗る予定ですが、まだ三十分ほど時間がありますが、山ノ神が時計台の中を見たことがないというので、寄ってみることにしました。歩いて五分ほどで、定番中の定番、「日本三大がっかり」の一つ、札幌時計台に到着です。まあ過大な期待をするからいけないのであって、虚心坦懐に対面すればなかなかプロポーションのよい洒落た洋館です。北海道大学の前身である札幌農学校の演武場として1878 (明治11)年10月に建築されました。入場料を支払おうとすると…「本日10月16日は時計台創建132周年を記念し、無料開放を行っています」という張り紙。ありがたい! ありがたいてえ字にシンニョウがつくくらいです。こいつは秋から縁起がいいわい、二人で手を組んで小槍の上でアルペン踊りを踊るのも大人げないので、喜びを胸に噛みしめながら(大袈裟だなあ)入場しました。一階は研究室・講義室として、二階は兵式訓練や体育のための体育館として利用されたそうです。二階に上がると、板敷きの広い空間とシンプルな屋根構造が印象的です。正面にある「演武場」と書かれた木額は、明治維新の元勲岩倉具視の筆。時計台の歴史や、機械式時計の仕組みなどの展示を見ていると、設置当時のまま稼働している機械式時計はもう三例しかないそうです。ここ(1881年始動)と、山形県郷土館(旧県庁舎)(1916年始動)と、立教大学モリス館(1919年始動)のみ。安芸の野良時計がつい最近まで稼働していたのですが、保守作業に携わっていたご子孫が亡くなったので今は動いていないという注がありました。ん? ということは、現役機械式時計台をすべて制覇したわけだ、やりい! So whatと言われたらSo it goes onとしか答えられませんが。
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 さてそれではなぜ農学校において、わざわざこうした演武場を建てて兵式訓練をしたのか? これについては「建築探偵 東奔西走」(藤森照信 朝日新聞社)の中に興味深い指摘がありましたので紹介します。南北戦争(1861-65)の後、農業生産の立て直しを図るために、「北軍」政府のお声がかりで創設されたマサチューセッツ州の農科大学は、農村を支持基盤とした南軍の抵抗に懲りたこともあり、兵・農一致の教育をめざしました。卒業生は、アメリカ各地に散って開拓の指導にあたると同時に、ひとたび事ある時には政府の指揮下で鍬を銃に持ちかえる手はずになっていました。そのための軍事教練の中心施設として大学にはドリル・ホールと呼ばれる体育館が設けられたのですが、その創立者がクラーク博士。彼が明治政府の招きにより北海道にやってきて、わずか九カ月の滞在中に作り上げたのが札幌農学校です。よってとりあえずマサチューセッツのやり方をそのまま札幌に移植してあわただしく帰国したそうです。設計を担当したのは彼が連れてきたホイーラーという技師で、アメリカの開拓者たちが作り上げた独自の建築スタイル"アーリー・アメリカン"のプロ中のプロ。よってこの時計台も、傾斜の強い屋根、ちょっこり乗る塔、白いペンキ塗りの下見板の壁という典型的なアーリー・アメリカンとなったそうです。なるほどねえ、でも屯田兵の育成にも資させたいという明治政府の思惑は影響していなかったのでしょうか。博雅の士の教えを乞う。余談ですが、一階で授業をしている時、二階で軍事教練をやっていて、うるさくてしょうがなかったそうです。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2012-02-03 06:18 | 北海道 | Comments(0)
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