常陸錦秋編(3):高萩(10.11)

 路地裏をふらふら歩いていると、「居酒屋 済州島(チェジュウトウ)」というお店を見つけました。済州島出身の方が経営しているのでしょうか。この名を聞くと、「済州島4・3事件」を思い起こさずにはいられません。日本にも相当の責任がある事件です、われわれとしては知る義務があります。長文ですが、ウィキペディアより引用します。
 1945年9月2日に日本が連合国に降伏すると、朝鮮半島はアメリカ軍とソビエト連邦軍(赤軍)によって北緯38度線で南北分割占領され、軍政が敷かれた。この占領統治の間に、南部には親米の李承晩政権、北部には抗日パルチザン(を称する)金日成の北朝鮮労働党政権が、それぞれ米ソの力を背景に基盤を固めつつあった。1945年9月10日、朝鮮建国準備委員会支部が済州島にも創設され、まもなく、済州島人民委員会と改められた。1947年3月1日、済州市内で南北統一された自主独立国家の樹立を訴えるデモを行っていた島民に対して警察が発砲し、島民6名が殺害される事件が起きた。この事件を機に3月10日、抗議の全島ゼネストが決行された。これを契機として、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁は警察官や右翼青年団を済州島に送り込み、白色テロが行われるようになった。
 特に島外から送り込まれた反共を掲げる右翼青年団体、西北青年会は島民に対する弾圧を重ね、警察組織を背景に島民の反乱組織の壊滅を図った。しかし、島民の不満を背景に力を増していた南朝鮮労働党は、1948年4月3日、島民を中心とした武装蜂起を起こした。
 1948年に入ると、南朝鮮は北朝鮮抜きの単独選挙を行うことを決断し、島内では選挙を前に激しい左右両派の対立がはじまった。その中で、単独選挙に反対する左派島民の武装蜂起の日付が4月3日である。警察および右派から12名、武装蜂起側からは2名の死者が出た。
 事件当初は交渉による平和的解決が試みられたが、アメリカ軍の介入と北部・平安道から逃げてきた若者を組織した右翼青年団体(「西北青年団」)の妨害などで交渉は決裂し、流血事態に至った。蜂起は朝鮮国防警備隊(後の韓国軍)や警察、および西北青年団などの治安部隊によって短期間で鎮圧された。人民遊撃隊の残存勢力はゲリラ戦で対抗するようになったため、治安部隊は潜伏している遊撃隊員と彼らに同調する島民の処刑・粛清を行った。これは、8月15日の大韓民国成立後も韓国軍(この時正式発足)によって継続して行われた。韓国軍は、島民の住む村を襲うと若者達を連れ出して殺害するとともに、少女達を連れ出し、数週間に渡って輪姦した後に殺害した。1948年9月に金日成は朝鮮人民軍を創設し、続いて朝鮮民主主義人民共和国の成立を宣言した。
 1950年に南北朝鮮労働党が合同し、金日成の朝鮮民主主義人民共和国が韓国(本土)に侵攻(朝鮮戦争)すると、朝鮮労働党党員狩りは熾烈さを極め、1954年9月21日までに3万人が、完全に鎮圧された1957年までには8万人の島民が殺害されたとも推測される。また、韓国本土で保導連盟事件が起きると本土と同様に刑務所で1200人が殺害された。海上に投棄されていた遺骸は日本人によって引き上げられ、対馬の寺院に安置されている。
 歴史的に流刑地だったことなどから朝鮮本土から差別され、また貧しかった済州島民は当時の日本政府の防止策をかいくぐって日本へ出稼ぎに行き、定住する人々もいた。韓国併合後、日本統治時代の初期に同じく日本政府の禁止を破って朝鮮から日本に渡った20万人ほどの大半は済州島出身であったという。日本の敗戦後、その3分の2程は帰国したが、四・三事件発生後は再び日本などへ避難あるいは密入国し、そのまま在日コリアンとなった人々も多い。日本へ逃れた島民の一部は大阪にコミュニティーを建設した。済州島では事件前(1948年)に28万人いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したとされる。
 朝鮮労働党が関係しているとされる上、犠牲者が余りにも多く、「反共」を国是に掲げ、独裁国家であった韓国では責任の追及が公的になされていない。また事件を語ることはタブー視されてきたため、事件の詳細は未解明である。21世紀になって、韓国大統領となった盧武鉉は、自国の歴史清算事業を進め、2003年10月に行われた事件に関する島民との懇談会で初めて謝罪した。また、済州四・三事件真相糾明及び犠牲者名誉回復委員会を設置している。さらに2006年同日の犠牲者慰霊祭に大統領として初めて出席し、島民に対して正式に謝罪するとともに、事件の真相解明を宣言した。
 事件から逃れて日本に不法入国した済州島出身の在日韓国・朝鮮人は、その恐ろしい体験から「また酷い目にあわされるのではないか」と祖国へ数十年も訪れることのない人々も多かったが、韓国政府が反省の態度を示し始めたことで、60年ぶりに祖国を訪れる決心をした人物も現れ始めている。
 「戦後日本は戦争をしてきた」(姜尚中・小森陽一 角川oneテーマ21 A-75)の中で、両氏は第二次大戦が終結した1945年から、サイゴンが解放された1975年までを、植民地の独立戦争と東西対立が絡んだ「アジア三十年戦争」の時代だったととらえ直されています。そして戦後の日本は西側アメリカ陣営の一員として朝鮮戦争・ベトナム戦争に積極的に関与し、その戦争の時代が生み出した利益をアメリカ経由で全部吸い上げて肥え太った… こうした視点で「済州島4・3事件」を見直せば、また違う側面が浮かび上がってくると思います。金石範氏の「火山島」を読んでみようかな。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2012-03-06 13:53 | 関東 | Comments(0)
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