「静かな大地」

 「静かな大地」(池澤夏樹 朝日文庫)読了。こういう素晴らしい本に出会えると、つくづく読書が好きでよかったなあと痛感します。明治初年、淡路島から北海道の静内に入植した宗形三郎と志郎兄弟、アイヌの協力を得ながら辛苦の末に牧場経営を軌道に乗せた彼らにおそいかかるさまざまな差別や妨害。結末には触れませんが、その一部始終を、姪にあたる由良が叔父・三郎の伝記というかたちで叙述するという壮大な歴史小説です。なお宗形志郎は、作者の曽祖父にあたる方で、彼らの事跡をなるべく枉げずに小説に仕立てたかったと巻末で付言されています。アイヌ・モシリを、近代の日本国家がどうやってアイヌの手から奪って植民地化し、北海道へと変えていったか。いちおう基本的なところは知っていたつもりでしたが、緻密な考証に基づいた池澤氏の優れた筆力によって、よりリアルに伝わってきます。そしてアイヌに対する畏敬の念をもった宗形三郎が、亡ぼされつつあるアイヌとどう協同し、どう抵抗し、どう敗れさっていったか。最後の最後まで三郎やアイヌたちと一体化し、泣き笑い怒りました。
 そして私利私欲しか念頭にない藩閥と政商が、その私利を"国益""御国の為"と言い換えながら、アイヌたちを犠牲にしアイヌ・モシリを食いものにしながら蓄財をしていく過程が、肌に粟が生じ嘔吐感をもよおすぐらいに詳細に描かれています。あれ、「官僚と商人が、その私利を"国益""御国の為"と言い換えながら、一部の人々を犠牲にしながら蓄財をしていく」と一般化すると、これは近現代の日本においていたるところで見られた光景ですね。由良曰く「強い者が押し通るのが世の習い」です。足尾鉱毒事件、満州開拓移民、大きく捉えるとアジア・太平洋戦争もそれに含まれるでしょう。戦後には、さまざまな公害、そして福島の原発事故。この仕掛けの存在から人々の目を逸らすために、彼らは"愛国心"を利用しているのでしょう。ね、橋下さん。
 アイヌの素晴らしい知恵と文化がそこかしこに、宝石のようにちりばめられているのも、本書の魅力です。「与えられる以上を貪ってはいけない」「天から役目なしに降ろされたものは一つもない」「天から降ったものを争うことなく分ける」ということだと思います。往時の為政者や人々が、こうしたアイヌの言葉に真摯に耳を傾けていれば、この国の姿も違うものになっていたはず。でも今からでも間に合うと思います。今とは違うもう一つの日本を構想するためにも、彼らの言葉に正面から向き合いませんか。
 強い者が弱い者のものを取る。力ずくで取る。それが世の掟だというのなら、アイヌにはもう言うことはない。そのような世には住みたくないと言えば、それ以上は言うことがない。
 もともと蝦夷の地はアイヌのものだった。いや、アイヌはそこが自分たちのものだとさえ思っていなかった。天地はかぎりなく広がり、そこに食べるものはあった。川に鮭が上がる。それを獲って食う。狐や熊や梟と分けて食う。
 和人が来て住みたいと言えば、わしらは住まわせた。天地がかぎりない以上、住みたいものは住めばいい。鮭を獲り、鹿を獲ればいい。狐と熊と梟とアイヌに、また和人が加わるだけのこと。それでもみなに行き渡るだけの数を神々は届けてくださる。足りない年にはみな飢える。(p.140)

 負けた以上、相手のすることが没義道だと言ってもはじまらない。負けた者は負けた者だ。和人は戦がうまい。いずれは外へ出ていった列強のように他人の国を切り取るだろう。だからさ、アイヌ相手の戦はその練習だったのだ。和人は蝦夷の地を切り取って自分のものにした。今の日本にはアイヌの住む土地はない。おまえたちなどいらないと和人は言う。要はそういうことなのだ。大日本帝国には戦の下手なアイヌなどの住む余地はない。早くいなくなれ。
 アイヌは土地というのが取れるものだとは思っていなかった。刀と鉄砲で取れるものだとは考えもしなかった。そういう考えが頭に浮ばなかった。だから、最初から負けていたのだ。
 アイヌとて争いはする。隣の村となにかでぶつかることはある。だがその時は刀ではなくチャランケでことを決めた。議論で決めた。(p.142)

 おまえたち和人は、狼が害をなすという。それはおまえたちが狼の食べるものを奪うからだ。(p.222)

 それからシトナさんは「カント オロ ワ ヤク…」とアイヌのことわざを口にされました。
 天から役目なしに降ろされたものは一つもない。
 狼にも役目があった。狼がいなくなったら、その役目を担うものはいない。世はいよいよ衰えるだろう。
 だがな、天から降ろされず、地から湧きもせぬのに、このアイヌモシリにあって役目のないものが一つだけあるぞ。南から来た和人だ。(p.223)

 自分たちは金が欲しいわけではない。安心して暮らせる場所が欲しいのだ。(p.501)

 見えているのではなく、信じているところを言おうか。今、和人は驕っているが、それが世の末まで続くわけではない。大地を刻んで利を漁る所業がこのまま栄え続けるわけではない。与えられる以上を貪ってはいけないのだ。いつか、ずっと遠い先にだが、和人がアイヌの知恵を求める時が来るだろう。神と人と大地の調和の意味を覚る日が来るだろう。それまでの間、アイヌは己の知恵を保たねばならない。
 アイヌは言葉の民だ。天の恵み、地の恵みを讃える思いを言葉に託して、カムイユカラとウウェペケレに載せて、営々と伝えてきた。アイヌが日々用いる言葉はそのまま食うもの着るもの住むところを言祝ぐ祈りだった。これからもそれを伝えてゆけば、やがてアイヌモシリにまた日が昇る時が来る。
 時の流れのはるか先の方に、アイヌと知恵ある和人が手を取り合って踊る姿がわしには見える。天から降ったものを争うことなく分ける様が見える。(p.534)

 だが、彼らは心正しいアイヌではなく、ねじくれたトゥムンチの族(やから)であった。
 彼らは熊を獲って、熊の魂を送らなかった。
 本来ならば狩りをする者は獲物の魂を手厚く神の国に送る。獲物に向かって、自分のような者の手にかかってくれてありがとうと礼を述べ、自分たちの一族の腹を満たしてくれてありがとうと述べ、その魂が無事に神の国に帰って、またいつか多くの肉をまとってやってきてくれるよう心を込めて祈る。それがアイヌのやりかただ。(p.641)

 なお我が敬愛するイザベラ・バードと松浦武四郎が登場するの、嬉しい限りです。
by sabasaba13 | 2012-03-18 06:17 | | Comments(0)
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