「夜を賭けて」

 「夜を賭けて」(梁石日[ヤン・ソギル] 幻冬舎文庫)読了。不思議なもので、面白い小説に遭遇すると、ぽんぽんと続きます。「静かな大地」「GO」の次は本書、これも見事な小説でした。時と舞台は「なべ底」不況に落ち込む昭和30年代の大阪。スラムに住む在日朝鮮人たちが旧大阪造兵廠跡地(現在の大阪城公園)に忍び込んで、そこに眠る金目の鉄製品の残骸を掘り出して屑鉄屋に売り捌きます。そしてそれを防ごうとする警察との攻防戦がくりひろげられます。なお、某新聞が彼らをアパッチ族と報じたため、以後これが通称となりました。当時、洋画ファンを熱狂させていた西部劇の中のジェロニモを酋長とする神出鬼没の勇猛果敢なアパッチ族と夜陰にまぎれて鉄塊をかっさらっていく朝鮮人集落の者たちとをオーバーラップさせたのですね。なお登場人物たちが「アメリカインディアンは住んでた土地を白人に奪われて、自分たちの土地を奪い返すために白人と戦ったんや。わしらのおやじも植民地統治で土地を奪われ、日本くんだりまできたんとちがうか。インディアンとよう似てるがな」「裸同然の野蛮人と朝鮮人のどこが似てるんや。あいつらは残忍で凶悪な人間や」(p.190)と語り合っています。この前半部分は痛快無比、手に汗握り血沸き肉躍りました。なお彼らに対する警察の酷い仕打ちが印象的です。戦前の特別高等課の残り香なのでしょうか。
 ところが二百メートルも走ったところで雑草の中に待ち伏せていた警官隊に襲われ、アパッチ族の頭上に警棒が雨あられのように振り下ろされた。ベギッ! バギッ! とまるで西瓜を叩き割るような音と、グワッ! ウッ! アイゴー! という叫びや呻きや泣き声が耳をつんざく。だが、あくまで無言に徹して殴打を続ける警官隊の行動はいっそう不気味だった。(p.247)

 「そのへんでやめとけ」
 と制止する桑野刑事の手に竹刀が握られていた。桜井刑事の締めつけていた太い腕を解かれた金義夫に向かって、桑野刑事は二、三度素振りをして威嚇した。金義夫の耳元を空を切る音が擦過したかと思うと「めん!」という気合と同時に金義夫の脳天を竹刀が打っていた。一瞬くらくらとめまいがして足をふらつかせた金義夫の横っ腹に「どう!」と竹刀が飛んできた。体をかわす余裕もなく続けざま「つき!」と鋭い声が発せられるや金義夫のみぞおちに竹刀の切っ先がくい込んだ。たまらず金義夫は「ごほっ!」と呻いて失神した。鼻水を垂らして失禁していた。(p.330)
 そして後半部分では、一転、逮捕され大村収容所に送られたアパッチ族のリーダー・金義夫と、彼を密かに慕っていた初子の恋物語に変わります。本当にお恥ずかしい話ですが、大村収容所のことについて初めて知りました。本書で言及されている内容をまとめると、ここは正式には「法務省出入国管理局所轄大村入国者収容所」。密入国者を収用する施設ですが、それ以外にも多数の刑罰法令違反者が収容されていました。日本国内で犯罪を行った在日朝鮮人は裁判を受け、確定した刑を務めれば本来なら釈放されるはずなのに、さらに大村収容所に収監するという二重の拘束をしたのです。そしてここから韓国へと強制送還されるのですが、共産主義者を徹底的に取り締まっている李承晩政権のもとへ強制送還されたら死刑は確実です。しかし強制送還を拒否すれば、ここ大村収容所で刑期のない長期の拘束が続けられます。大村収容所は刑務所ではないので刑期がないというわけですね。何という人間の尊厳を踏みにじる行為、「日本のアウシュヴィッツ」と言われたのもむべなるかな。そしてこうした状況の中から、アメリカ占領軍による半植民地的な韓国ではなく、朝鮮戦争の廃墟の中から不死鳥のように蘇ってきた金日成将軍のもとで驚異的な発展を続ける北朝鮮へ帰国しようという動き、いわゆる「帰国事業」へ加わろうとする動きが高まるのですね。なおこれについては「北朝鮮へのエクソダス」(テッサ・モーリス‐スズキ 朝日文庫)という素晴らしい本があるので、ぜひご一読ください。そして最後に時は現代へと移り、アパッチ族として共に汗を流した張有真と金義夫が偶然大阪城公園で邂逅し、昔を振り返る場面で小説は幕を閉じます。
 いやあ面白かった。前半の活劇を"動"とすれば、後半での収容所の描写は"静"、後半があればこそ単なる痛快なアクション小説で終わらずにすんだと思います。そして全編を通じて通奏低音のように地鳴りのように響くのは、日本人の朝鮮人に対する差別と憎悪、それに対する朝鮮人の怒りと嘆きです。金義夫はこう語っています。
 総連の活動家でもあった金義夫はある程度の朝鮮語を理解していた。しかし金秀碩のように凄味のある独特の朝鮮語に接するのははじめてだった。そして金秀碩の言葉の持つ響きには朝鮮の精神風土の俗悪な一面を感じずにはいられなかった。それはまた、人間の尊厳を平然と踏みにじる連中たちに共通した響きをも内包していた。憎悪の哲学が彼らの血と肉を形成していた。(p.433)
 もちろん国民性などという言葉は使いたくありませんし、またどこの国でも存在するものでしょう。ただ歴史を見返してみて、やはりこの国には憎悪の哲学で形作られた肉と血を持つ人が少々多いような気がします。被差別部落・共産主義者・アイヌ・琉球人・朝鮮人・中国人といった人々への憎悪と差別を思い起こしましょう。憎悪という言葉が強すぎれば、軽侮と言い換えてもいいかもしれません。そして現在では、公務員と教員への憎悪を煽りたてる橋下氏が絶大なる支持を集めています。もう一つ見逃せないのが、こうした所行を見て見ぬふりをし、さらに忘却の淵へと落してしまうこと。最後の場面で、金義夫が「大村収容所も来年取り壊されてなくなるらしい。それで大村収容所も存在しなかったということになるわけや」と呟いています。非人間的な行為を心に刻み、自慰史観に陥らず、二度とこうしたことが起こらないよう歴史の真実を冷静かつ公平に見つめたいものです。彼らの叫びに耳を傾けましょう。
 収容所が金義夫に求めているのは、収容所にいる限り、彼らにひざまずくことであった。(p.410)

 「そう思うのも無理はない。せやけどよう考えたら、あいつらも可哀相な人間なんや。わしら朝鮮人を差別し、憎まんことには、あいつらも立つ瀬がないのや。わしら朝鮮人を差別し、憎むことで、自分というもんを、何ちゅうたらええかな、自分を見せびらかしとんのや。わかるか? せやけど、わしらはいつまでも卑屈になったらあかん。わしらが卑屈になればなるほど、あいつらは傲慢になって救われない最低の人間になってしまう。せやさかい、わしらは闘わなあかん。わしらが闘うことで、あいつらも少しは目覚めて人間らしい人間になって救われるのや。ちがうか?」 (p.411)

 わしは戦前から日本に居住してたけど、1949年9月に女房と長女を連れて一度釜山へ帰ったことがある。わしは両親に家族を引き合わせるためと、できれば郷(くに)で住めないものかと二カ月ほど滞在したんやが、やはり郷での生活は難しいので日本へもどってきたちゅうわけや。入管はその期間、日本にいなかったさかいこの法律に該当せず密入国者になると言いくさるんじゃ。わしと長女は大村収容所に強制収監されて、次女は亡くなった女房の親戚に預けっぱなしの状態がもう五年も続いている。1953年に生まれた次女は韓国に行ったことがないさかい対象にはならなかったが、次女はまだ七つや。長女はこの向かいの婦女子幼児収容棟にいる。十二歳やさかい中学一年生になるはずやのに、学校にも行かせてもらえんのや。こんな残酷な非人間的なことがあるか。敗戦後の日本で、こんな恐ろしいことがまかり通ってるんや。一般の日本人は知らない言うけど、知らないではすまん問題や。戦争は一人の人間だけで遂行できるもんやない。国民全体の協力なくして戦争は遂行できん。大村収容所の問題も同じことが言える。日本の国民が 見て見ぬふりをしているが、暗黙の諒承があるさかい、こんな恐ろしいことが平然とまかり通ってるんや。恐ろしいことや。日本の国のどこが平和なんや。この事実を無視して平和なんかあるわけがない。恐ろしい」 (p.416)

 「敗戦したドイツは戦争責任の償いを徹底的にしている。ところが同じ敗戦国の日本は戦争責任の償いどころか、いまも平然と人間の尊厳を踏みにじって省みようとしない」 (p.417)

 まさか日本政府は、夫と妻、父親と赤児を引き離すようなことはせんやろうと思てたんやが、日本政府は人が生きようが死のうか、そんなもん関係あれへん。(p.424)

 「…家内はいま五十九歳だ。五十九歳になる家内が一人で韓国に強制送還されようとしている。身を切られる思いだ。涙も出ない」
 涙も出ないと言っていながら老人の目にはうっすらと涙がにじみ、細い肩を震わせていた。
 「ああ、切ない。ああ、胸が痛む。この年になって、こんなむごい目にあうとは。いや、みっともないところを見せてしまった。つい愚痴をこぼしてすまない。このうえは座して死を待つより闘うことに決めたのだ。闘うしかない。わしは無学な人間だが、何が正しいのか、何が間違っているのかくらいは知っているつもりだ」 (p.457)

 いずれにしても気の長い話であった。法の奥の隔絶した深い暗闇に幽閉されている人間を光の中へ引き出そうとする作業は容易なことではなかった。それはまた、法の名のもとに人間の尊厳を蹂躙して省みない者たちのもっとも醜悪な顔を暴き出そうとすることでもあった。(p.462)

 日本人にもこのように謙虚な人がいるのを知って何かしら希望が湧いてくるのであった。一緒にデモを闘った人たちもみなそうだった。初子は生まれてはじめて人間が連帯することの素晴らしさを経験した。連帯することで困難な状況を克服していけるのだということを知った。(p.484)

 「この先、北朝鮮に何が起こっても不思議やないとわしは思うてる。朴正熙が殺されたあと、全斗煥のときもそう思ったけど、恐ろしいことが起こる予感がする。資本主義も社会主義も関係ない。権力はみな同じや。権力の周辺にしがみついている連中もみな同じや。みんなええ恰好言うて、結局民衆の犠牲の上に胡坐をかいて、自分だけ生きのびることしか考えてないんや。わしはもう絶対騙されん。騙されてたまるか。…」(p.524)

by sabasaba13 | 2012-04-08 08:51 | | Comments(0)
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