大井川鐡道編(2):大井川川越遺跡(11.5)

 きこきことペダルをこいで、十分ほどで大井川川越遺跡に到着です。"箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川"と唄われたように、ここ大井川は東海道最大の難所。江戸の防衛に加え家康の隠居城であった駿府城の外堀の役目を果たすため、架橋はおろか船による渡し舟も厳禁とされたのですね。よって大井川を渡河する際には馬や人足を利用して輿や肩車で渡河する川越(かわごし)が行われました。増水のため川留めになると旅人は水の引くのを何日も待つはめになり、なんと最長記録は28日にもおよんだといいます。そうした川越の料金を決める川会所や、川札を換金する札場、川越人足の集合所である番宿などが保存あるいは復元されているのがこちらです。道の両側に十数軒ほど建ち並ぶ木造平屋、かつては殷賑を極めたのでしょうが、今では人影もなくひっそりとしています。
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 まずはかつて川役人が業務を行っていたという、1856(安政3)年に建てられた川会所に入ってみましょう。いきなり、まるで息をしているかのようにリアルな川庄屋と年行事の蝋人形がお出迎え。奥の方では旅人を乗せる輦台(れんだい)が展示され、また川越のシステムなどの解説もありました。ここで料金や、川を渡る順番などが決められていたとのことです。ちなみに、一番増水した時(脇通)の渡し賃は、94文、約2820円。中には、「もう少し水が引いて安くなったら渡ろうや、それまで宿屋で酒でも飲んでピー」などという御仁もいたでしょうね。不便なことは不便ですが、みんながそれを共有していたので、われわれが考えているよりは混乱や不満はなかったことと思います。またその不便さのおかげで、川渡しの人足や宿場や飯屋など、多くの雇用が生まれたのではないかな。なぜ江戸時代に馬車が使用されなかったのか? 誰かが「雇用を守るためではないか」と推測されていたような記憶がありますが、もしかすると、こうした不便さは経済政策的な意図を込めた措置だったのかもしれません。
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 建ち並ぶ川越遺跡を拝見して、それでは蓬莱橋へと向かいましょう。途中にあったマンホールの蓋は、美女を輦台に乗せて大井川を渡る人足が描かれていました。そして市の中心部へ、渡河を待つ旅人で賑わった島田宿の俤はもうありません。シャッターを閉め切った幾多の商店や、看板を取り外されて無惨な巨躯をさらす大規模小売店舗など、ここ島田でも地方の衰微をひしひしと感じます。不学の故、その原因を究明することも、対策を提示することもできないのに切歯しますが、このままでは大変なことになるというぼんやりとした不安は感じます。たとえ話で言うと、"JAPAN"というロゴマークが入った飛行機が乱気流に巻き込まれてしまいました。重量を減らして墜落を防ぐために、余分な機械類を捨て、積載された荷物を落とし、乗客を窓から突き落とし、エンジンを取り外して投げ捨て… さて、コックピットにいるクルーのみなさん、それでいいのですか、そもそも目的地はどこなのですか、何のために飛んでいるのですか、そして何よりもあなた方はいったい誰なのですか。坊つちやんだったら、こう言うかもしれませんね。「こんな奴は沢庵石をつけて海の底へ沈めちまふ方が日本の為だ」
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2012-10-14 08:49 | 中部 | Comments(0)
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