軽井沢編(4):軽井沢(11.7)

 駅前にあった不動産屋には、別荘の広告がありました。7500万円、4300万円、4380万円、1億4700万円かあ。これでは亀の煮凝り、手も足も首も出ません。奇特な方が我が家の郵便ポストに5000万円を投げ入れてくれたら、購入を検討しましょう。
 そしてさきほどの貸し自転車屋さんで自転車を預かってもらい、定期観光バス乗り場に行きました。参加者はほぼ定員を満たしていましたが、幸い滑りこむことができました。それでは出発。中軽井沢のあたりで、右手の奥にかつて近衛文麿の別荘であった市村記念館があるというバスガイドさんの説明がありました。持参したガイドブックを紐解くと、一階の応接間には、彼がゴルフシューズで付けた傷も残っているそうです。後日に読んだ『日本・1945年の視点』(三輪公忠 東京大学出版会UP選書251)の中に、次のような記述があったので紹介しておきます。
 1938年、国家総動員法を成立させ、二年後には、いわゆる復古=革新の諸会派の要となって大政翼賛会を発足させたこの五摂家筆頭のインテリ貴族(※近衛文麿)は、敗戦の色濃くなった1945年の初夏には、なにより天皇家の安泰を願い、共産主義革命を恐れて、石原莞爾をたよって、戦争を終結させようとしていたのである。その頃近衛は、避暑というよりも空襲の災害を避けて、軽井沢に移り住んでいた。政界、財界を問わず、多くの名士、すくなくともその家族は、帝都から疎開してこの地に生活していた。その中には、知米派の良識ある評論家として、橋川文三にも高く評価された清沢洌もいた。彼は1945年5月急逝しているが、近衛と親しい関係にあった。清沢はこの二年ほど前から、日記に、軽井沢の別荘族が独占的に使用してきたゴルフ場の緑の芝生をみて、近隣の農民が、畦道までも利用して食糧の増産をはかっているときに、なんたる非国民ぶりといっているのを聞き咎め、このままゆけば、共産主義革命になってしまうかもしれぬと書き残している。明治の10年代、「下流民権」の時代をリードした信州松本の奨匡社の松沢求策の出身地の近くに生まれ、松沢に同じく研成義塾に学んだことのある、この農民の子も、いわば日本帝国主義の国内の「植民地」軽井沢の住人となると、同じ農民の不平不満に、革命を恐れるものとして対応しているわけである。(p. 185~6)
 著者の三輪氏はこうした共産主義革命への恐怖が、アメリカによる占領への協力的な姿勢を生み出していくと論を進められています。それにしても「植民地」軽井沢という表現は興味深いですね。そうした視点から軽井沢の歴史を読み解くのも面白いかもしれません。今では中央の大企業による経済的搾取の場(新植民地主義?)になっているようですが。そうそう、未読ですが本棚に清沢洌の『暗黒日記』(評論社)があったことを思い出し、とりだしてパラパラとめくってみました。するとしばしば来軽し、中央公論社社長の嶋中雄作らとゴルフに興じている様子が随所に記されています。このような日記もありました。
 『毎日新聞』によると、軽井沢の地元ではゴルフ場を回収し、また別荘を産業選手(ママ)に開放しようしているそうだ。傷病兵ならば分るが産業選士(ママ)とは何か。戦争の深化にしたがって「革命」的徴候を見る。すなわちそれは「赤」である。(1943.6.13)


 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2012-11-06 06:16 | 中部 | Comments(1)
Commented by ぷらすちっくな絞殺死体 at 2013-07-22 13:15 x
下仁田側から和美峠越えて軽井沢へ入ると世界の違いに愕然とする。まるで秩父人が池袋へ出たよに。秩父人には下仁田のがしっくりくるだぁね。
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