軽井沢編(7):鎌原観音堂(11.7)

 そしてバスは鎌原観音堂へと向かいます。途中にひろがるのは高原野菜を栽培する広大な畑、キャベツやレタスが緑の絨毯をなしていました。バスガイドさんが指差したのは小学校の屋内プール、夏でも冷涼なためだそうです。
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 そして二十分ほどで鎌原観音堂近くにある駐車場に到着。仕舞屋状態の土産屋の裏へまわり、階段を下りていき、小さな土産屋の前を通り過ぎると観音堂の前に着きました。1783(天明3)年、火口より北側約12kmにある鎌原村は、浅間山の大噴火による土石流に襲われ壊滅。村の人口570名のうち、小高いところにあるこの観音堂まで避難できた者など93名のみが助かりました。誰が詠んだのか「天明の生死を分かつ十五段」、石段をのぼっていくとたしかに15段です。発掘の結果、もとは50段あったことが確認され、土石流は35段分もの高さ(約6.5m)に達する大規模なものであった事がわかりました。最下段にかかる橋の下をのぞくと、その一部を見ることができます。なお埋没した石段の最下部で、若い女性が年配の女性を背負うような格好の2名の遺体が発見されました。顔を復元したところ、良く似た顔立ちなので近親者であると推測され、若い女性が年長者を背負って観音堂へ避難する際に、土石流に飲み込まれてしまったものと考えられるそうです。
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 境内には発掘された埋没民家の一部が展示されていました。
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 その近くには三十三回忌供養碑がありました。
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 その解説に心動かされたので引用します。
 (前略)高いところにあった鎌原観音堂だけが唯一の建物として残りました。生き残った九〇余人がこの堂に集まって罹災者の供養を続けながら村の再建につとめてきました。
 この供養碑は、爆発から三十三年後(文化12)年に建てられました。災害の後、九〇余人の生存者は互いに縁を結び、家族を構成して、荒れ地を耕し、生活してきましたが、三十三回忌を迎えるに当たって隣村の援助を受け、この供養碑を建立したのです。
 本体の四面には、碑を建てたいわれと477人の流死者の戒名が所狭しと書き連ねられています。
 ふたたび十五段の石段をのぼり、萱葺きの観音堂の前に立ち、眼下にひろがる長閑な風景を見渡しました。
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 そして、二百年以上も前、このあたり一帯が厚さ約6.5mの土石流に埋め尽くされた光景を想像しようとしましたが、とてもできません。そしておそらく恐怖と悲嘆と絶望にうちひしがれながら、ここで肩を寄せ合い避難生活を送った九十余人の人々の姿も。さらにその奈落の淵から這い上がり鎌原村の復旧へと蝸牛のようにゆっくりと力強く歩み始めた日々も、その間の辛酸も。ただ間違いなく言えるのは、ここに人間が住む小さな世界が確実に存在するということです。自然の持つ凄絶な力と、それに耐え乗り切ろうとする人間の荘厳な営為。その営為を支えたのは、郷土と、そこで共に暮らす仲間への尽きせぬ思いではないでしょうか。ボランティアにも行かず、僅かばかりの募金という形でしか援助できない私が偉そうに言うのも心苦しいのですが、今、被災地の方々を支えているのもそういう思いだと考えます。そして郷土と仲間という、人間の尊厳を支える大事なものを、禍々しく根こそぎに破壊してしまうのが原発事故と放射能汚染ではないでしょうか。軽々しく言うべきではないことですが、これから半永久的に人間が住めなくなる地域が出てくる可能性はあると思います。郷土と仲間を奪う、人間が犯し得る罪のなかでも、最悪のものの一つです。原発という利権に群がってきた電力会社、関連企業、政治家、官僚、マスメディア、学者、そしてそれを司法面で擁護してきた裁判所。その所為を弾劾し一刻も早く落とし前をつけさせないと、彼らはまた同じことを繰り返すでしょう。日本近現代史の底で地鳴りのように鳴り響く、「強者の利益(国益!)の前には、弱者の利益は鴻毛よりも軽い」という通奏低音を早く止めなければ。激烈な直下型地震が原発55基のいずれかを襲わないうちに…

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2012-11-09 06:17 | 中部 | Comments(0)
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