軽井沢編(11):聖パウロ教会(11.7)

 そして聖パウロ教会へ。傾斜の強い三角屋根、異形な尖塔、打ち放しのコンクリート、一目見たら忘れられない印象的な教会です。
軽井沢編(11):聖パウロ教会(11.7)_c0051620_618077.jpg

 1935(昭和10)年に、アントニン・レーモンドによって設計された建築です。アントニン・レーモンド(1888‐1976)は、チェコ出身の建築家。フランク・ロイド・ライトのもとで学び、帝国ホテル建設の際に来日。その後日本に留まり、モダニズム建築の作品を多く残し、日本人建築家に大きな影響を与えました。なお彼が別荘兼仕事場として軽井沢に建てた「夏の家」が、塩沢湖にある軽井沢タリアセンにペイネ美術館として保存されています。ル・コルビュジェから、盗作だとして抗議されたいわくつきの物件です。ちなみにタリアセンとは芸術をつかさどるウェールズの妖精で、フランク・ロイド・ライトが創作活動の拠点の名称として使ったものですね。朝は礼拝中で入れませんでしたが、今回は中に入ることができました。そこはまるで山小屋。ごつごつとした生木がむきだしのまま三角屋根を支えている様子がよくわかります。「建築探偵 神出鬼没」(藤森照信 朝日新聞社)によると、アントニン・レーモンドはチェコ人なのですが、こうした意匠はスロバキアの山岳地帯の教会に多いそうです。
軽井沢編(11):聖パウロ教会(11.7)_c0051620_6181561.jpg

 以前にも掲載しましたが、アントニン・レーモンドに関するエピソードを同著から紹介しましょう。日本で活躍したレーモンドは1938(昭和13)年にアメリカに帰国し、軍が立案した計画に参加することになります。それは"空襲"という日本の木造都市だけに有効な世界初の戦略で、アメリカ軍もその実効性には疑問がありました。そこで日本の都市や建築事情を知悉しているレーモンドを招き、彼の指導でユタ州に木造の町が作られ、繰り返し燃やされたそうです。戦後、彼は再び来日し活動を開始しますが、当然の如く日本の建築家から強い批判をあびることになります。しかし彼はこの計画に参加した理由については、黙して語りませんでした。藤森氏はその理由について、こう推測されています。レーモンドはチェコ出身で、彼が建築の勉強のため渡米した後、ナチス・ドイツによる侵攻が行われました。その際に、彼の五人の弟と妹は、ある者は国外脱出をはかって処刑され、ある者は強制収容所に送られて消息を絶ってしまいます。彼は、ナチス・ドイツと手を組む日本を叩くことによってしか、自分たちは救われないという思いがあったのではないか。そして以下は私の推測ですが、戦後彼が高崎の音楽センター建設に献身的に協力したのは、ある種の罪滅ぼしの意があったのではないか。
 なおこの教会には、アメリカの家具職人・ジョージ・ナカシマの手による初期の作品(椅子)が残されているはずですが、見つけることはできませんでした。彼は1934年パリを発ち、インド・中国経由で日本に向かい、アントニン・レーモンド建築事務所に入所。1935年にここ軽井沢聖パウロカトリック教会の設計と家具の設計に参加したそうです。

 本日の二枚です。
軽井沢編(11):聖パウロ教会(11.7)_c0051620_6184852.jpg

軽井沢編(11):聖パウロ教会(11.7)_c0051620_619254.jpg

by sabasaba13 | 2012-11-14 06:20 | 中部 | Comments(0)
<< 軽井沢編(12):小諸(11.7) 軽井沢編(10):旧軽井沢(1... >>