軽井沢編(16):草津(11.7)

 そして旅館やお土産屋が櫛比する温泉街をそぞろ歩いて西の河原公園へ。
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 石の河原から温泉が湧き、湯の川となって流れています。
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 中にはベルツとスクリバの胸像、およびベルツの記念碑がありました。
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 東京帝国大学で近代医学を教授した二人は大の親友で、共に草津温泉を科学的に研究し、その医学的効能を世界に知らしめた方ですね。スクリバ博士は町民に無料で診療を施し、深く親しまれたそうです。エルウィン・ベルツ博士については、『ベルツの日記』(岩波文庫)という貴重な時代の証言を遺してくれたことを感謝せねばなりません。"東京全市は、一一日の憲法発布をひかえてその準備のために言語を絶した騒ぎを演じている。至るところ奉祝門、照明、行列の計画。だが、滑稽なことには、だれも憲法の内容を御存じないのだ""一昨日、有栖川宮邸で東宮成婚に関して、またもや会議。その席上、伊藤の大胆な放言には自分も驚かされた。半ば有栖川宮の方を向いて、伊藤のいわく「皇太子に生れるのは、全く不運なことだ。生れるが早いか、至るところで礼式(エチケット)の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と。そういいながら伊藤は、操り人形を糸で踊らせるような身振りをして見せたのである"といった証言はしばしば歴史書に引用されます。しかし私が忘れられないのは、1901(明治34)年に在職二十五年祝賀会における彼のスピーチです。
 西洋各国は諸君に教師を送ったのでありますが、これらの教師は熱心にこの(学問をそだててきたヨーロッパの雰囲気としての)精神を日本に植えつけ、これを日本国民自身のものたらしめようとしたのであります。しかし、かれらの使命はしばしば誤解されました。もともとかれらは科学の樹を育てる人たるべきであり、またそうなろうと思っていたのに、彼らは科学の果実を切り売りする人として取扱われたのでした。
 寸鉄の言です。科学の精神とは人間の生存条件の辛さを軽くすることにあるはずなのに、その果実だけを弄ぶ科学者のいかに多いことか。今回の原発事故を見ていても痛感しました。
 その先には斎藤茂吉の歌碑があります。「いづこにも湯が噴きいでて流れゐる谷間を行けば身はあたたかし」 1933(昭和8)年に草津を訪れて詠んだ歌だそうです。それではバスターミナルへと戻りましょう。公園の入口では「猫のおみやげ またたびの木」を売っており、思わず食指が動きましたが、我が家の庭でなされる猫の小用に怒り心頭の山ノ神に三行半を叩きつけられそうなので思いとどまりました。
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 そういえば昼食を食べていなかったなあ、温泉街に美味しそうなうどん屋があったので、ここでざるうどんをいただきました。
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 その先には関之湯という鄙びた共同浴場があり、入口には「18時~22時は町民専用です」という手書きの貼り紙。温泉と一体になった地元の方々の暮らしがうかがわれます。
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 湯畑を通り過ぎてバスターミナルに到着。こちらの喫茶・売店の名は「BAHNHOF」、ドイツ語で"駅"という意味ですね。ベルツ・スクリバ両博士にあやかった命名なのでしょう。そして草軽交通バスに乗り込み、一時間二十分かけて軽井沢に戻りました。昨日は気づかなかったのですが、駅の隣に旧草軽電鉄の電気機関車「デキ十二形」が野外展示されていました。なるほどこりゃカブトムシだわい。そして山ノ神へのお土産に「おぎのや」の峠の釜めしを、自分の夕食として「上州豚黄金カツサンド」を購入、長野新幹線に乗って帰郷しました。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2012-11-19 06:18 | 中部 | Comments(0)
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