山形編(17):米沢(11.8)

 さてさて山ノ神はフィレステーキ、私はサーロインステーキを所望、やがてご来臨した牛肉にかぶりつくと、味蕾は歓喜にうちふるえ、舌鼓はエルヴィン・ジョーンズの如くポリリズムを叩きだします。嗚呼、もう言葉にできません。大満足して店を出て、ふたたび自転車にまたがり、松川沿いの道を走ると、交差点のところに「スウィングガールズ ここがロケ地!」という看板がありました。これは後日にDVDを見て判明したのですが、ビッグバンドジャズを志す凸凹五人組が、この交差点で流れる♪故郷の空♪をきっかけにオフ・ビートに目覚めるというシーンです。
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 その近くには「青い空運動」の看板がありました。“あいさつをしよう/おもいやりの心を育てよう/いけないことをしない勇気をもとう/そうだんと話し合いの輪を広げよう/らくなことだけを考えず元気にがんばろう” そして「ニッポンビール」と「サッポロビール」のホーロー看板の鬩ぎ合い。10-9でニッポンビールの勝ち…などと呆けたことを言っている場合ではありません。ニッポンビールとは初耳です。ウィキペディアによると、サッポロビールは1949年(昭和24)年に、過度経済力集中排除法に基づき、朝日麦酒(現・アサヒビール)と日本麦酒に分割され、日本麦酒はニッポンビールのブランドを採用しました。やがて愛飲家の中から商標復活の声が起こるようになり、1957(昭和32)年よりサッポロビールとして発売されるようになったそうです。へえー、ビールに歴史あり、この看板は歴史の生き証人なのですね。
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 そして伴淳三郎墓所の掃苔のため極楽寺へ。実は十数年前、真冬の米沢にやってきて彼の墓参をしようとしたのですが…積雪のため墓石がほとんど埋もれているため臍を噛んだのでした。その敗者復活戦と意気込んだのですが、今度はその所在がわかりません。あたりに訊ねる人もなく、無念、捜索を断念しました。気を取り直して先へと進みましょう。屋根の形状やそこに架かる梯子、ゴミ収集所の半円筒形の屋根など、雪国の厳しい冬がしのばれます。
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 味噌屋さんの古風で豪壮な佇まいや、小学校の土俵を写真におさめ、しばらく走ると旧米沢高等工業学校本館に到着です。
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 竣工は1910(明治43)年、保存状態があまりよくないのが残念ですが、華麗な好建築です。次なる物件は、風格にあふれた吉亭本屋。これでもかこれでもかときっちり仕上げられた海鼠壁は感涙ものです。上杉博物館の前を通り過ぎましたが、肝心要の「洛中洛外図屏風(上杉本)」の公開期間ではないので入館はパス。
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 そして旧上杉伯爵邸である上杉記念館へ。純和風の大振りな邸宅ですが、設計は米沢出身の中條精一郎、そう宮本百合子の御尊父ですね。浜離宮を模した庭園と、邸内でいただける郷土料理も売りです。
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 そして上杉神社へ、松が岬公園(米沢城址)内にある上杉謙信を祀った神社ですね。その参道に架かっているのが1886(明治19)年竣工の舞鶴、自然の奇岩を親柱に利用しているのがユニークですね。
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 上杉鷹山の銅像を撮影し、九里高校へ。こちらには旧米沢女子高等学校の校舎が移築されていますが、下見板張り+ハーフティンバーが洒落た物件です。
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 近くにある松友会館も下見板張りの粋な小品でした。その前にあった消火栓には、赤白に塗られた高さ2mほどの棒がくくりつけられていましたが、これも積雪対策ですね。
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 米沢織物歴史資料館もなかなか風格のあるビルでした。窓をガラス付き建屋で蔽った土蔵がありましたが、これも積雪対策でしょうか。
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 まるで神社のような交番はどんな謂れがあるのでしょう。警官は神聖にして侵すべからず? そして酒造資料館「東光の酒蔵」の外観を拝見し、「がんばろう。東北 なせば成る。東北」という大看板を撮影して、しばらく走ると「堀粂之助の墓」という説明板がありました。
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 なになに、戊辰戦争の時に、会津藩士の堀粂之助が藩命を受けて米沢藩を訪れ援軍を求めますが、これを拒絶され自刃したそうです。辞世は"神かけて誓ひしことのかなはねば ふたたび家路思はざりけり"。これだけの覚悟をもって事に臨んでいる東京電力の首脳部・官僚・政治家はいったいどれくらいいるのでしょうね。彼の墓があるという竜泉寺に入ってみましたが、見つけることはできませんでした。なお当初は米沢藩も参加していた奥羽越列藩同盟がなぜ瓦解したのか。大佛次郎の『天皇の世紀』(文春文庫)の第11巻に下記の一文がありました。
 この壮大な夢が、意外に結びにくく脆かったのは、どの藩にもある各自の自己保存の欲求と、旧体制の藩の間にこれを反映して醸される嫉視の感情が障害となったことである。競争的立場にある米沢藩を始め、どの藩も、仙台の一方的に強制するリーダーシップに服することを望まない。奥羽に残存している封建的体制の政治的遺伝から、どの藩も独自の立場を要求し、利益もない共同の歩調に出るのを望まないのである。やはり、動かないのが、奥羽列藩の運命的な路程なのであった。(p.349)
 本日の六枚です。
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by sabasaba13 | 2012-12-16 08:54 | 東北 | Comments(0)
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