「ユートピア」

 「ユートピア」(トマス・モア 平井正穂訳 岩波文庫)読了。先日、デシデリウス・エラスムスの終焉の地バーゼルに行ってきたのですが、その時に彼とトマス・モアが終生の親友であったことを知りました。せっかくですから、彼の代表作「ユートピア」に挑戦。まずは彼とその作品について、スーパーニッポニカ(小学館)から抜粋して引用します。
Sir Thomas More (1478‐1535) イギリスの政治家、人文主義者。幼くしてカンタベリー大司教ジョン・モートンに仕え、のちオックスフォード大学に入学、古代古典文学に目を開かれるが、父の意向で中退。法律家を志し、ニュー・インを経て、リンカーン法学院に学ぶ。大学在学中から「北方ルネサンスの王」エラスムスと親交を結ぶ。エラスムスは『愚神礼賛』(1511)をモア家滞在中に書いている。法学院卒業後、下級弁護士から判事となり、下院にも席を占め、1515年通商問題でオランダに渡り、外交交渉に手腕を発揮する。理想的国家像を描く『ユートピア』はこの旅行中に書き起こされ、翌16年帰国後完成したもの。当時ロンドンの副司政長官の職にあったが、外交交渉の手腕と識見をヘンリー8世に認められ、請われて宮廷に出仕し重用される。29年大法官に任命されるが、王の離婚問題に最後まで反対し、32年官を退く。34年反逆罪のかどでロンドン塔に幽閉され、翌年断頭台の露と消えた。

「ユートピア」 トマス・モアが1516年に刊行した政治的空想物語。架空の人物ヒュトロダエウスが新世界で見聞した架空の諸国、とくにユートピア(どこにもない場所の意味)についてモアと語り合うという形式をとる。主として当時のヨーロッパ社会を批判した第一巻と、理想的な社会であるユートピアを描写した第二巻からなる。当時のヨーロッパの君主は自分の富や領土を増大することのみに専念し、一方民衆は「囲い込み」によって土地を奪われ、牛馬よりもひどい労働を強いられている。国家や法律も貧しい人々を搾取するための「金持ちの共謀」による私物化にすぎない。このような諸悪の根源として貨幣経済、私有財産制がある。これに対してユートピアでは、市民は平等であり、貨幣が存在せず、財産共有制が敷かれている。すべての人間が労働するために、少ない労働時間で十分であり、自由な時間を「精神の洗練」のために用いる。
 一読、驚愕しました。社会と人間に対するなんと鋭い観察力・分析力! 「全くこの手合いときたら、自分自身の評判が少しでも悪くなるくらいなら、むしろ国家が損害をこうむった方が遥かに有難いと思っている連中」(p.80)といった一文などは、今どうやって原発事故をごまかして責任逃れをしようかと右往左往している(していないかな)政官財学報司の原子力オクタゴンの皆様方にそっくりそのまま叩きつけてやりたいですね。「木偶坊のような男で智慧といったら驢馬くらいしか持たないが、そのくせ悪いことや馬鹿げたことにかけては恐ろしく達者な男が、立派な賢い人をたくさんあたかも奴僕のごとくこき使えるというのも、もとはといえばこの金を山のようにもっているからの話である」(p.106)という一文は誰に叩きつけましょうか。
 全編を通してモアの主張はシンプルです。金銭が振るう絶大で横暴で傲慢な権力を抑止するとこ、そしてすべての人々が安心して幸せに暮らせる平等・公正な社会を築くこと。彼が断頭台の露と消えてからはや四百数十年、人間はいまだにこのユートピアの入口にすら立っていません。それどころか、金を操作してぼろ儲けをする金融(カジノ)資本主義、社会的弱者を放置して富裕者の利益を最優先する新自由主義、そして世界規模で弱者から富を搾り取ろうとするグローバリゼーションが猖獗を極めています。しかしそれに抗い、もう一つの世界を構想しようという動きも着実に進んでいます。モアの残してくれた力強い言葉を杖に、後者の戦列に加わっていきたいと思います。
 それでは、モアさん、どうぞ。
 かように、もともとお国の繁栄の基となっていたものが、実際はお国を滅ぼそうとしているわけですが、これも元はといえば、少数の人間の途方もない貪欲からなのです。(p.29)

 金持ちたちが一切の物資を買占めたり、先買いをしたり、独占権を獲得して、市場を思いのままに支配したりするのを許してはいけないと思います。(p.30)

 けだし、富と自由のある所、そこにはいやしくも不正不法な命令に対してはこれに屈従するような人間は一人として認めることはできないが、これに反して、困苦と貧乏のある所、そこでは実に人民はその不屈不撓の精神を失い、勇敢な反逆的精神をなくして、ただ黙々命これ従うのみである。(p.53)

 しかしながら、モアさん、私は思うまま、率直に申上げるのですが、財産の私有が認められ、金銭が絶大な権力をふるう所では、国家の正しい政治と繁栄とは望むべくもありません。(p.61)

 こういうわけで、私有財産権が追放されない限り、ものの平等かつ公平な分配は行われがたく、完全な幸福もわれわれの間に確立しがたい、ということを私は深く信じて疑いません。私有財産権が続く限り、大多数の人間の背には貧乏と苦難の避くべからざる重荷がいつまでも残ることでありましょう。(p.63)

 家族長の主な、というより殆ど唯一の任務は、怠けてぶらぶらすごす人間が一人もいないように、各人がその仕事に専心精を出すように、しかもこき使われている牛や馬のごとく朝早くから夜遅くまでのべつ幕なしに働いて疲れてしまうことのないようにと、注意し監督することである。なぜなら、かような牛馬のごとき生活こそ、悲惨と酸鼻を極めた奴隷の生活よりも、なおいっそうひどいものであるからである。(p.82)

 …このただでさえ少い働き手の中で、ほんとうに必要な仕事に従っている者がどんなに少いか、ということが分ってこよう。思うにそれは、金銭がすべてを支配している所では、ただ奢侈淫蕩な生活の要求を満たすためだけでもずいぶんたくさんな、くだらなくてよけいな職業がどうしても必要となってくるからである。(p.85)

 けだし、この国家の制度においては、まず考慮され、求められている唯一の主な目的は、公共生活に必要な職業と仕事から少しでも割きうる余暇があれば、市民はそのすべての時間を肉体的な奉仕から精神の自由な活動と教養にあてなければならないということである。人生の幸福がまさにこの点にあることを彼らは信じているからである。(p.88)

 けっしてものに不自由することはないという安心感、この安心感がある時に誰か必要以上に貪る者があろう。今さら言うまでもないが、あらゆる種類の動物が餓鬼のような貪欲になるのは、実に欠乏に対する心配であり、特に人間においては虚栄心である。人間はなくもがなの、玩具のような物を見せびらかして他人をしのげば、それがすばらしい光栄であるかのように思うものなのである。そういう悪徳を知らない国民、それがすなわちユートピア人なのだ。(p.92)

 だいたいユートピア人は、豆粒のような、おもちゃ然たる石ころを、それがきらきらするからといって、珍重する馬鹿な人間がこの世に一人でもいることをじつにおかしなことだと思う。そんなに光るものが見たければ、星でも見たらよいではないか、太陽を見たらよいではないか、という。糸の細い毛織物を着れば、それだけ人間が偉くなるように考える、そういう狂人がこの世にいるということもおかしなことだと思う。今でこそ繊細な糸に紡がれているとはいえ、同じ羊毛をかつては羊もまとっていたのだ、そして羊は結局羊にすぎなかったではないか、と彼らはいうのである。(p.106)

 しかしユートピア人がもっと不思議に重い、また軽蔑するのは、ただ金持ちであるというだけの話で、つまり、別にどうという理由もない、借金しているわけでもなければ使われているわけでもないのに、金持ちをまるで神様か何かのように崇拝する、あの人間の狂気沙汰である。(p.106)

 したがって、もし隣人に健康と慰めを与え、特に(これこそ人間特有の美徳であるが)その悲しみを和らげ、生活の苦しみや重荷を取り除いてやって、楽しい生活、つまり快楽の生活に、つれ戻してやるということが当然人間としてわれわれのしなければならない行為であるとするならば、同じことをわれわれ自分自身に対して行うことも、これまた自然がわれわれに対して求めている義務であるといえないだろうか。(p.112)

 しかしもしそうでなくて、かような楽しい生活を隣人のために求めてやることが許されるばかりでなく、むしろそうする義務さえあるとするならば、われわれは隣人に対して親切にすると同じく、何よりもまず第一にわれわれ自身に対しても親切にすべきではないだろうか。なぜなら、自然がわれわれに、隣人に対して親切丁寧であれと命じた時、それは、自分自身に対しては残酷無情であれという意味ではなかったからである。(p.112)

 ただしかしながら、その自然が、われわれが楽しく生活してゆくためには、相互に助け合ってゆくべきことをわれわれにすすめているということは(自然がそうすすめるのにたしかに立派な理由がある、というのは、自然が特別に可愛がるような、普通の人間の身分や境遇を遥かに超えた人間など一人もこの世にいないからである、つまり自然は同じ形・格好・姿を持っている者を全部平等に愛するものなのである)、要するに、他人の不幸を招いてまで自分の幸福だけを求めないように細心の注意を払うことを、自然がわれわれに厳しく命じていることを意味しているのである。(p.113)

 ユートピア人の考え方は、これとは全然違う。どんな人間でも自分に危害を加えない限り、敵と見なすべきではない。人間本来の友愛の精神こそもっとも強固な同盟にほかならない。そうだ、人間というものは同盟の条約よりも愛と寛裕によって、また単なる条文よりも溢れるばかりの誠意によってこそ、強く、固く一つに結ばれることができるのだ。これが彼らの信念なのである。(p.143)

 ちょうどこれと反対に、すべてのものがあらゆる人に共有である国においては、共同の倉庫や貯蔵所に物資が豊富に貯えてある限り、個人の生活に必要な物資には何一つ事欠く心配はないのである。配給だって潤沢だし、貧乏人や乞食もいないのである。誰も何ものも持ってはいないが、しかも皆が豊かなのだ。(p.176)

 ただそれが実現されなかったのは、そこに、あの畜生同然の女、あのすべての禍の母であり女王である傲慢(プライド)夫人が立ちはだかって妨害したことによるのだ。彼女こそは富と幸福とを測る尺度を自分の利益に求めないで他人の悲惨と不利益に求めるという女である。(p.180)

by sabasaba13 | 2013-01-03 08:25 | | Comments(0)
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